映画『法廷遊戯』評価・ネタバレ感想! 楽しめた人も楽しめなかった人もぜひ原作を読んでほしい

 

なるべく原作小説を読んでから映画を観たいタイプの人間なので、大体映画化を知ってから小説を買って読んで挑むということが多いのだけれど、この『法廷遊戯』は発売直後に買って面白かった作品なので思い入れも深い。映画公開直前に改めて読むと「これめっちゃ小説向きの題材だな〜」と感じた。話の落とし所や物語の進め方が、ちっとも映像作品っぽくない。何よりこの小説の良さは「現役弁護士の作者が緻密な描写で裁判を書き切ったこと」にあるので、映像作品で地の文が消えて作者の色が薄まれば、当然その切れ味は身を潜めることになる。とはいえ言いたいことがはっきりとしている映画だし、結末知ってても少しは楽しめるかなと気楽な気持ちで観に行ったのだが…。

 

人生で観た映画の中でも1番酷い出来だったと言っても過言ではない。もちろん、「原作を読んだ上で」という目線なのでもし読んでなかったらこうは思わなかったかもしれない。ただ、原作のエピソードをどんどんカットしていくのにその分の補填はほとんどない脚本、そして不自然に挿入されるオーバーな演技、意味よりも目立つかどうかが優先される演出。なんというか、原作を読んだ上で大切だと思ったポイントが自分と製作陣で真逆だったのかもしれない。たった100分弱なのに、そういうタイプの作品じゃないだろ…と怒りさえ覚える箇所があまりに多かった。

 

まずは冒頭。無辜ゲームの開催場所は原作では建物の中なのだが、映画ではなぜか洞窟になっている。映像化のインパクトを狙う上で模擬法廷ではなく洞窟を使うのはアリなのかもしれない。実際予告を観た時にはそこまでの違和感はなかった。しかし実際の映画では、洞窟である必然性が全くないのである。ゲームが終わるとそれぞれが蝋燭を吹き消して辺りが暗闇に包まれるのは雰囲気があってよかったが、ロースクールに洞窟があることがまずよく分からないし、その疑問にはきちんと先回りして「敷地内の洞窟に〜」と説明させるのもかなり野暮だった。ロースクールなんだから模擬法廷くらいあっていいだろうに…。

 

後は無辜ゲーム開催の合図。原作では確か天秤を増したマークを突きつけることで開廷を促す流れだったが、視覚的なインパクトを狙ったのか、何故かドンドンチャッ!ドンドンチャッ!と周りが一斉に机を叩いてQUEENを奏でることで無辜ゲームがスタートする。ホラーなら怖い。まして永瀬廉演じるセイギが過去に事件を犯したことがいきなり判明し、観客である我々も突き放されたような気分になっているところ。これがホラー映画だったらかなり効果的な演出だった。しかし実際にはそれがどうやら無辜ゲーム開催の合図だったらしい。いや、そう説明してくれもしなかったから、そうじゃないのかもしれない。時折QUEENを机で奏でる集団が通うロースクール、これがその映画の舞台なのだ。いや仮にも法律を学ぼうという人間達がそんな不気味で不快なことをするとは思えないし、そもそも無辜ゲームは司法試験に既に合格している天才・馨(北村匠海)が発案者なのに、人を煽るようなやり方が採用されるはずがない。

 

少し話は逸れるが、馨という人物像に関しても小説を読んで受けたイメージとは大きく乖離していた。司法試験に合格しているだけあって、セイギだけでなく周りの生徒からも一目置かれる存在。言わばクラスにおいてドンと構える王様なのである。しかし馨自身はどちらかというと飄々とした人間で、あまり周囲に興味を持たない、浮世めいた存在というのが小説での印象だった。しかし北村匠海が喋り出すとそこにいたのはただの賢い若者であり、小説の馨に感じたカリスマ性は微塵も存在しなかったのである。どこにでもいる普通の若者でしかなく、小説ではセイギの一人称によって語られていた彼が纏う空気感は、この映画では一切感じることができなかった。むしろ彼にこそオーバーすぎるくらいに癖のある演技をしてほしかったものである。

 

オーバーな演技といえば冒頭の戸塚純貴。原作にも登場したクラスメイトの役なのだが、喋り方があまりに露悪的。そのオーバーさに、私の隣の席の女性は思わず笑ってしまっていた。しかもそのオーバーさが結構長く続くので、自由に音量を決められないスクリーンで観るのはかなり苦痛。役者さんに罪はないのだろうけど、さすがに見ていられなかった。彼がそういう喋り方である必然性もないし。演技で言えば大森南朋もなかなかに酷い。いや演技力はある。だが、あれほどに嫌味なキャラクターに終始している意味が分からない。しかもそれで野放しなのだから酷い。無神経に気の弱い裁判員を煽る鬱陶しさ。原作では彼が何度も逮捕されてるが故に法廷慣れしており、太々しい態度を取れると説明があるし、盗聴をしておきながらセイギに対してやたら高圧的なのも、依頼者の馨から法律について入れ知恵されているためだとなっている。しかしその辺が端折られているせいで、なぜか存在を肯定された太々しい人間になってしまっており、まして気の弱い裁判員のおばちゃんは原作に全く登場しないので、何故大森南朋を自由にするためだけにあんなオリジナル部分が挟まれているのか理解できない。

 

そして杉咲花。彼女が演じる美鈴の狂気こそがこの映画の肝なわけだが、ラストシーンは突然笑い出す狂った女にしか見えなかった。いや実際、突然笑い出す狂った女なのだが。要はあの笑顔、美鈴が痴漢冤罪という犯罪を繰り返すような人間ではあっても、根本には信念や正義感があるという「実直さ」の裏返しとしてようやく機能するものであって、そうした「キャラクターの基本設定」をすっ飛ばしてしまったこの映画では、本当に「急に笑い出す女」でしかないのだ。演技力は素晴らしいのに、それを全く活かせていない。本来喚起される感情は恐怖であるはずなのに、滑稽にしか見えなかった。

 

演出で言うなら、無辜ゲーム中に生徒達が突然足を踏み鳴らすのも全く意味が分からない。これはQUEENの延長線上だけども。これがカルト宗教の映画なら全然構わないのだが、『法廷遊戯』は他に足のついたミステリー映画。どうにも演出や過剰演技が作品のリアリティラインと乖離している印象を受けてしまう。適した演出だとは私には思えなかった。いっそカルト的なノリに振り切ってくれればよかったのに、きちんとミステリーの体裁を崩さず話が進むので、すごく違和感があった。

 

『法廷遊戯』は詰まるところ、美鈴を救おうとヒーローになろうとしたセイギが望まぬ形でヒーローになってしまう物語であり、それを法廷を舞台に深く考えさせられる重いテーマを突きつけてくる物語である。無辜や同罪報復という重厚な題材を軸に、馨が仕掛けた勝負にセイギは挑んでいくことになる。馨という人物の複雑さ、悪く言えば面倒くささにかなりもたれかかった物語なのだが、映画ではひたすらに種明かしがされるせいで、仕掛けの一つ一つが羽毛のように軽い。「そうだったのか!」という気づきよりも演出面や演技での何となくな雰囲気作りが優先されてしまっているのだ。もちろん観る人の感性に依る部分も大きいが、原作の重厚さを一切感じることができなかったのは残念でならない。

 

ただ一点だけ良かったところは、永瀬廉である。これはもう配役の勝利というしかない。永瀬廉の大きな瞳がセイギの持つ後ろめたさや鬱屈さをしっかりと表現しており、ただ立っているだけで充分様になる。何かを抱えているというのが説明なしに分かるすごい目をしているなあと思った。それなのに、映画自体が変なものになってしまっていたのは本当に残念。

 

おそらくこの映画を観る方の大多数はキャストのファンだと思うのだが、もし内容について気になることがあった方は、是非原作を読んでほしい。セイギの行動の動機やそれぞれのポイントで感じた思いがより濃厚に描かれているので、おそらく理解しやすいのではないだろうか。今唐突に思い出したが、検事役の1人の髪が薄いのもかなりノイズだった。本筋と関係ないところで「ん?」と気が散ることがこの映画には多すぎる。漫画の実写映画化が騒がれる世の中だが、小説の実写映画化もかなり当たり外れがあるのだなあということを考えさせられた一作だった。