映画『怪物の木こり』評価・ネタバレ感想! こんなんもう仮面ライダーだろ…

 

サイコパス VS 殺人鬼

このフレーズだけ聞くと一時期流行した「舐めてた相手がヤバい奴だった系映画」かと思うが、『怪物の木こり』の実態はそこから連想されるものとはかなり異なっていた。連続殺人鬼が狙った相手が偶然にも平気で人の心を理解しないサイコパスだったんだぜ~みたいな、そんなノリかと勝手に思っていたので、映画を観てしっかり驚いてしまった。ただ、そういう作風を匂わせているのはあくまで予告だけで、劇中では割と序盤にはっきりとリアリティラインを決定づけてくれる場面があるので「期待と違った!」とまではならない。その場面が、「亀梨君が自分の頭に脳チップが埋め込まれていたことを知る場面」である。脳チップ!??????

 

斧を使って人の脳みそを奪う連続殺人鬼、通称「脳泥棒」に突然襲われた二宮彰(亀梨和也)が、何度も襲われながら自分の出自と向き合い、戦いに身を投じていく物語。監督は三池崇史。三池監督はオファーを基本的に断らないことで有名で、「多くの監督から断られた漫画の実写化映画を最終的に全部請け負う男」とまで言われている。そのため実写化映画も数多く手掛けているが、『悪の教典』などの血生臭いサスペンス映画も得意としている。死人が出続ける今回の『怪物の木こり』も、三池監督にピッタリな作品と言えるかもしれない。

 

主人公の彰はサイコパスであり、平気で人を傷つけ、殺害することができる弁護士。序盤だけでも自分を追ってきた男と自分を診療した医者、2人をあっさりと殺していく。その会話の中で殺人に慣れていることも示唆されており、死体を内密に処理してくれる医者も味方につけているのだ。おそらくは快楽殺人鬼なのだろう。息をするように人を殺めてしまう彼の異常性が、亀梨君の冷たい瞳に確かに宿っているように感じられた。

サイコパス」という言葉は日常でも一般的になっているが、実際に身近にいるとしたら本当に恐ろしい人物だと思う。「お前サイコパスじゃん!」なんて掛け合いも普通に横行しているし、サイコパスだと言われてちょっと喜んでしまう人がいることも分かっているのだが、本当のサイコパスはたとえ犯罪に手を染めていなくとも、社会に適応しづらいという特徴を持っていて、簡単に人に使う言葉ではないよなあと私は考えている。

要は共感性に乏しく社会に適応することが難しい人のことを「サイコパス」と呼称するのだけれど、この映画では少し話が変わってくる。『怪物の木こり』において「サイコパス」は人工的に作り出すことができるのだ。人工サイコパス…人工サイコパス!?

 

殺人鬼に襲撃された彰のレントゲン写真には、頭蓋骨の辺りに脳チップなるものが埋め込まれていたのである。存在を全く知らない彰は驚くが、医者の前では何とか平静を装う。この場面でこっちは完全に「え????」状態。まず脳にチップが埋め込まれてるって何? というかそれはもうチップでよくないだろうか。脳チップとわざわざ言う必要があるか? いやそもそも脳チップって何????

 

結論から言うと、この脳チップは人間をサイコパスに変えることができるチップなのである。ある児童養護施設を経営する夫婦が、そこで育てていた子どもたちに次々とこの脳チップを埋め込み、サイコパスを作り出していた…というオチ。

劇中だと「サイコパス」と言われているからちょっと微妙なニュアンスも出てくるのだが、簡単に言えばこれはもう「仮面ライダーの改造手術」レベルだと思う。何ならこの映画、非常にニチアサ度が強い。亀梨君がとことこ夜道を歩いていると突如斧を振り下ろす殺人鬼! ニチアサの怪人もこんな感じでサラッと出てくるんだよな…。それに対してまあまあ応戦できる亀梨君も完全に変身前の仮面ライダームーブ。

 

脳チップを埋め込まれると強烈な殺人衝動に駆られる…とか共感性が著しく欠如する…とか、彰の特性が文章で表せるものだったのなら分かるのだけれど、「サイコパス」と実際に存在する用語にしてしまうとちょっと話の趣旨がズレてくるよなあという気もしてしまう。サイコパスであることに悩んでいたり、突然殺人衝動が一気に消えて罪悪感が湧き出たりとか、そういう葛藤があるともっとスムーズにこの人工サイコパス設定が入ってきたかもしれない。ただこの「脳チップ」発言でこの映画のリアリティラインがかなり現実と乖離していることは一瞬で明らかになるので、ちょっとした「バカ映画」だと思うと一気に2時間が楽しくなる。映画自体は非常にシリアスだけれど、実はそんなに身構えて観る必要はない映画なのだと思う。

 

殺人鬼に襲われつつ婚約者の吉岡里穂との関係を進めていく彰。実は婚約者の父親を殺していたりもするのだが、それを公言したりはしない。話したらヤバいと思っているというより、話したらヤバいと「理解している」とだけ思わせる亀梨君の絶妙な冷たさが素晴らしかった。マジで体温ないだろアイツ。本当に亀梨和也がハマり役で、仲間の医者の染谷将太もしっかりとサイコパスなので、多分目が死んでる系人間が好きな人には堪らないだろう。そして同時に菜々緒演じるプロファイリングを得意とする刑事の話も進行しており、その過程で過去の殺人事件の犯人である武士(中村獅童)が登場したりもする。殺人鬼に襲われたことで脳チップが破損し、人を殺せなくなっていく彰の葛藤と、殺人鬼の正体を軸に物語は展開していくのだが、犯人候補が異常に少ないので観ているこっちは消去法で結構簡単に犯人を当てることができてしまう。

 

そう、殺人犯の正体は中村獅童演じる武士だったのだ。そして彼の目的は、サイコパスをこの世から消すこと。自身も幼い頃に脳チップを埋め込まれ、残虐な事件さえ起こしてしまっていたが、チップの破損により罪悪感が芽生え、自分と同じような脳チップ入りサイコパス達を世界から葬ることを決意する。いや、これまんま仮面ライダーにいただろ…。『仮面ライダーアマゾンズ』の仁さんっていうワイルドなホームレスみたいな男がまんまこの武士なので気になる方はぜひ観てほしい。ここまでずっと「仮面ライダーだろこれ…」と思ってたのにこの正体と動機発覚で「仮面ライダーだろ!!!」と叫びたくなった。仮面ライダー過ぎる。

 

 

 

 

というか人工サイコパスが何人もいる日本社会がもう面白すぎるし、正義に目覚めたサイコパスが他の悪しきサイコパスと戦おうとする物語も、ヒーロー映画のようで興奮してしまった。私は予告から全く想像できない展開に話をシフトしていく映画が大好きなので、出来はさておきこの映画が大好きになってしまったのである。後はこういう暴力性や残虐性の中に見え隠れする人の心や人情、友愛というのは三池監督の得意とするテーマでもあるので、そこが上手く乗っかってきているのも良かった。何だかいろんな意味で興奮させられる映画だった。

 

公式サイトの原作者のコメントによると、ラストは原作とは異なっているらしい。映画では婚約者を救出し2人で歩んでいこうとした彰が、父親を殺されたことを知った婚約者によって刺されてしまうラスト。それに怒り狂った彰は婚約者の首を絞めて殺そうとするが、それは実は演技だった。彼女の首に絞め跡を付けたことで、正当防衛を主張できるようにしたのである。自宅のリビングで腹から血を流し、白い敷物が真っ赤に染まっていく…。心から愛した婚約者に殺されるという皮肉なオチは、サイコパス時代に多くの人の命を奪ってきた彼への報いなのだろう。彼は正義に目覚めることとなったが、それでも過去の罪が消えるわけではない。ダークヒーロー映画としても、かなり考えさせられるラストだったように思う。

 

ただ、映画自体のトーンは非常に重い。また、彰が徐々に人間性に目覚めていく…という過程をほとんどすっ飛ばして犯人の正体に迫っていく物語なので、感情移入もしづらいかもしれない。せっかく人の心を取り戻す物語なのだから、もっと丁寧に心の機微を演出してくれてもよかった。人を殺せず以前と明らかに変わってしまったことによる戸惑いだったり、周囲の人々の彰への見方だったり、そうした側面から彼の変化を上手く追ってくれていれば、もっと前のめりになって観ることができただろう。とはいえ私はこのトンチキさやニチアサ感に一発で心を奪われてしまった。多分世間的評価はそこまで高くはならないと思うのだが、それでも一蹴することはできない独特な味のするサスペンス映画だった。

 

 

 

 

 

映画『スキンフォード 処刑宣告』評価・ネタバレ感想! 何者でもなかった男が不死身の女性と出会う神話。

 

 

まずは何も考えずにこの予告を観てほしい。

 

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どういう感情を抱いただろうか。

きっと多くの方はお出しされていることそのままに、露出度の高い女性によるアクション映画を想像したと思う。もちろんこのシーンは映画に存在している。しかし、それだけではない。いや、こんなの全然メインじゃない!!!

完全なる予告詐欺。「あれ?こんな話だったっけ?」と何度なったことか。しかも映画本編も時系列を何度も入れ替えてくるので余計に頭が混乱する。こういうことは上映規模の小さい映画を観に行くとたまにある。海外の映画が日本にやって来るにつれて、宣伝側の目的は当然多くの人を劇場に呼び込むこと。そのために映画のある一部分がピックアップされ、本筋よりも、所謂「バズる」要素が取り沙汰されるという道理は分かる。肌着姿の女性達によるアクション映画がウケるという予想もそれはそれでどうかと思うのだが。

 

ただこういう宣伝と中身が違う映画は、実際諸刃の剣でもある。観られると思ったものがメインでないと知れば、観客は「騙された」と思うはずである。しかし映画はチケット代さえ払わせてしまえば勝ち。逆に敢えて予告でミスリードを狙い、興奮した観客達に宣伝を委ねる手法もたまに目にする。この『スキンフォード 処刑宣告』がどちらを狙ったものかは分からないが、個人的にはガツンと騙された。まんまと「面白い」と思わされてしまったのである。いや実際、めちゃくちゃ面白い。かなり変な映画だしご都合主義なのだけれど、古き良きアニメ的展開と時系列を巧みにいじる独特な話運びにやられてしまった。

 

この映画の正式なあらすじは、

「何者でもない1人の青年が、殺されそうになったところで土に埋まっていた不死の女性と出会い、死ぬ間際の父親に親孝行をするため、彼女と共に金を手に入れようと奔走する」物語である。

ポスターに堂々と躍る「真夜中の女体連続爆発!」も確かにあるが、そこは全然メインではない。

ポスターにさえいない男がいきなり殺されそうになっている冒頭。「自分の墓を掘れ」と命じられてもなお飄々としているこの男は一体誰なのか…。大した説明もされないままに、土から別の手が伸び、そこに女性が埋まっていることが判明。彼女と触れている間は銃弾さえも効かないことに気付いた青年は、父が死ぬ前に大金を手に入れようと、自分の人生に決着をつけるための旅に出る。

 

予告詐欺の話を一旦脇に置いておくと、この映画のシナリオは非常に漫画的。いや、もはやライトノベル的と言ってもいい。無職でやばい仕事に手を出そうとしていたどこにでもいる青年(ムキムキだけど)が、偶然出会った不死身の女性との旅路でその人生の大いなる意味を知ることになる。しかもその女性が美女という、往年のアニメ的展開からこの映画はスタートする。何なら堂々と美女と自分を手錠で繋いでしまうのだ。

彼女がなぜ不死身なのかという謎はそのままに、青年は自分を雇ってくれたマフィアに仕事について交渉に行く。これがすごい。これが日本なら触れている間は不死身なんだ俺TUEEEEEEという流れでドラえもんが来た時ののび太のようにはしゃいでしまうだろうが、この映画は違う。父親が死ぬ前に立派になった姿を見せたい主人公は、大金を手にすることを諦めていないのだ。何で不死身なんだよ!という動揺すら大して見せず、それどころか自分も不死身になったことにはしゃぎ回り、悲願を遂げようとする。そう聞くと非常に個人よがりな物語に聞こえてしまうが、組織のトップに立つ血みどろ大好き少女や、監禁され雑な手術によって腹に爆弾を埋め込まれた女性たち…そしてその女性たちが次々と爆破していったりと、ゴア描写に事欠かず、とにかくこちらを飽きさせない。いやどちらかというと、作り手側が好き勝手やっているだけにも見える。映画の全体像としては非常に奇妙で、すごく”変”なのだけれど、その味がどうしてかクセになってしまうのだ。

 

主人公の成長譚と同時に、不死身の女性が抱える葛藤も描かれていく。不死身だと知られた途端にゲーム感覚で自分の命が弄ばれていく…人生に絶望した彼女は死を願っており、劇中で遂に自分に力を与えたのがかつての友人であったことに気付く。そのきっかけであり、何故か謎の組織の一員でもある、死体を撮るのが好きな女性のキャラクターのインパクトも強かった。

しかもその友人は主人公の父親と同じ病院に入院しており、2人が彼女と話していたところに、彼等を追う2大組織が現れる。しかしその組織の真のボスは、なんと主人公の父親で…というまさかのダース・ベイダー展開。自分の息子が真に後継者に相応しいかどうかを試すために、彼は試練を与えていたのだ。主人公は尊敬している最愛の父親を、不死身にまでしようと考えていたのに…。

最愛の存在に裏切られる展開というと、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(2作目)を思い出す。主人公のピーターも、ずっと願って止まなかった血の繋がった家族との邂逅に喜ぶが、実は父親の目的がおぞましいものであったことに気付き、仲間達と共に戦う決意を固める。私はこういう、愛情の歪み的な映画にとても弱いので、この映画の哀しい構造が明かされた時、もう完全に大好きになってしまっていた。最愛の人が敵だった展開、本当に好きなので…。

 

 

 

 

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こちらのサイトでライターの氏家譲寿さんが解説しているのだが、どうやらこの映画は2017年の作品で既に本国では続編も公開されている様子。映画は不死身の力が女性に与えられたものではなく、彼女自身が友人から奪ったものだと明かされたことで終わるので妙な感じだったが、続編があると聞いて納得した。

バディものとしてもすごく面白かったし、何より「予測不能」という言葉がピッタリなくらい先が読めない展開の連続かつしっかりと伏線が張られているので、日本版予告に騙されず、サスペンスなどが好きな方にはぜひ観てもらいたい。まだまだ解決すべきこともやるべきこともたくさんあるので。

ゴア描写とか、ポイントを絞って観るタイプの映画ではなく、何故か爆発力に満ちた勢いのあるB級映画。とにかく面白いので絶対に続編も日本公開してほしい。

映画『スラムドッグス』評価・ネタバレ感想! 下品さと犬の青春マリアージュ

 

 

 

”『TED』のユニバーサルが送る”

 

このフレーズだけでどういう作品なのか伝わってしまうくらい、はっきりとした輪郭を得ている映画『TED』もすごいが、このフレーズで宣伝される『スラムドッグス』はさらにすごい。下品な下ネタのオンパレードなのに、純粋無垢な少年が仲間との冒険によって自分の本当の価値を見出す青春ロードムービーとしてすごく上手くできている。個人的には下ネタのキツいコメディはあまり得意ではなく、正直『TED』のノリもかなり限界だった。しかし『スラムドッグス』に関してはそれらがノイズどころか理想的なスパイスとなっていると言えるほどに、ドラマの完成度が高い。青春ロードムービーのセオリーを着実に抑えつつ、個性豊かな犬の下品なやり取りで見事に独自性を手にしている。くだらなすぎてバカみたいなやり取りも、犬のお遊びならこんなに許せるのかと勉強になった。

 

クソ飼い主に捨てられたと気づいた犬のレジーは、道中で出会った仲間達と共に、飼い主の局部を噛みちぎる復讐の旅を始める。

ストーリーを言うのなら本当にこれだけ。この映画が持つグロテスクさと下劣さがこのストーリーに端的に表されている。しかし、この「クソ飼い主に捨てられた」の演出が素晴らしい。こんな下品な映画に似合わないほどに素晴らしすぎるのだ。レジーを捨てるために飼い主はわざわざ車で遠出し、ボールを遠くへ投げる。そのまま速攻で車に乗り込み帰宅。これでようやく別れられると思いきや、少し時間が経てばすぐにボールを咥えたレジーが戻ってきてしまう。飼い主からしたら迷惑極まりない話なのだが、自分が飼い主に好かれていると勘違いしている(この映画ではレジー達犬は人間の言葉までは理解していないらしい)レジーは、新しいゲームだと思い込んで健気にボールを持ってくる。可愛らしいワンちゃんが薄汚れたまま自宅に戻ってくるシーンが繰り返される冒頭は、それだけで涙を誘う。犬ってこんなにかわいいんだ…と気付かされ、こんな可愛い存在を平気で捨てようとしている飼い主に対して、こちらも自然とヘイトが溜まっていく。

 

しかし、車で3時間掛けて向かった街でのゲームにて、とうとうレジーは力尽きてしまう。そこで出会った犬達に自分は嫌われており捨てられたのだと気付かされ、大好きな飼い主に認めてもらうため、自分の過ちを正すために改めて帰宅を決意する。ここまでされてなお、飼い主を想うレジー。だが冒険の中で彼は遂に「自分は悪くない」ことに思い至り、彼が大好きな自分の局部を噛みちぎることを決める。「アソコを噛みちぎってやるぜ!」で充分面白いのに、それに至るまでの心の動きをしっかりと描く真面目さ。元々のネタが悪ふざけなのだから、それ以外はせめてマトモであろうとする作り手の気概が垣間見えてとても良かった。

 

コメディ映画、まして下ネタの多い作品は、とにかく下劣であることに全フリしている映画も多い。物語よりもノリが優先され、徹夜で思いついたくだらないネタが闇鍋の如く次々と投入される…。もちろんその結果観た人が面白いと思えれば素晴らしいことなのだが、個人的には下劣さの強い映画には抵抗を持ってしまう。私が観たいのは下劣なギャグではなく、下劣さの伴ったストーリーなのだ。もちろんギャグのオンパレードのような作品の存在ごと否定するつもりはないけれど、映画にするのならやはり物語が重要であってほしいなあとは思う。その点『スラムドッグス』はワンちゃん達のアホみたいな復讐劇というワンアイデアに胡座をかかず、ロードムービー(車で3時間だけど)としての感動やお約束がたっぷりと詰まっている。それこそモロにオマージュがあったが、『スタンド・バイ・ミー』的な青春冒険譚、一夏の成長にも似た輝かしい瞬間がたくさん詰め込まれていた。

 

捨てられたから飼い主の局部を噛みちぎりに行く。

本当にこれだけの物語なのに、仲間と共に楽しく過ごす彼等に感動させられてしまう。4人でおしっこを掛け合うシーンなんて本当に最高だった。普通の青春ドラマなら夜のプールや川岸で水を掛け合うようにして演出される美しさを、尿や便でやり通してしまう気概。これはおそらくいい年したおじさん達がやっていたらかなり無理なラインだったのだけれど、犬なのでなんの抵抗もない。というかこの映画、感動系の犬映画を露骨に批判する割に犬達をすごく可愛らしく描いてくるので犬映画としても全然侮れない。人間の青春としては下品すぎるけど、犬の青春はきっとこんな感じなんだろうなあとまで思わされてしまうのだ。

 

ジー以外にも、警察犬になれなかったハンターがコンプレックスを抱えていたり、バグも過去に殺処分されそうになり少女に対してトラウマを抱いている。そんな彼等がレジーと出会い、共に旅をすることで救われていく。その流れがあまりに美しすぎるのに、下品具合が程よく庶民感を醸し出している。明らかにB級映画の括りなのだけれど、作り手はA級と言っても全く問題ないほどに、こちらの感動ポイントを的確に突いてくるのだ。レジーが「お前が悪いんだ!」と飼い主を罵倒するラストシーンには思わず心を打たれてしまった。

 

後はデニス・クエイドのシーン。観た時は意味深に挿入されるものよく分からず後で調べたのだけれど、『僕のワンダフル・ライフ』の人か〜となって鑑賞後にじわじわ来た。「ナレーション犬」もそうだが、感動系犬映画をしっかりと揶揄しているのも面白い。そして改めて、国内外問わず、泣かせるタイプの犬映画って本当に多いなあと。でもちゃんと泣かせてくれるからすごい。犬って人の胸を打つこともできるし、下ネタの下劣さを緩和することもできる。CGで簡単に自然な犬の演技を作り出せる現代、もっとすごい犬映画がこれからも生まれてくる予感がある。まずは『スラムドッグス』の続編、全然シリーズ化できそうな話だし、キャラクターももっと掘り下げられそうなのでぜひ同じ製作陣でやってほしい。

 

 

 

 

 

映画『法廷遊戯』評価・ネタバレ感想! 楽しめた人も楽しめなかった人もぜひ原作を読んでほしい

 

なるべく原作小説を読んでから映画を観たいタイプの人間なので、大体映画化を知ってから小説を買って読んで挑むということが多いのだけれど、この『法廷遊戯』は発売直後に買って面白かった作品なので思い入れも深い。映画公開直前に改めて読むと「これめっちゃ小説向きの題材だな〜」と感じた。話の落とし所や物語の進め方が、ちっとも映像作品っぽくない。何よりこの小説の良さは「現役弁護士の作者が緻密な描写で裁判を書き切ったこと」にあるので、映像作品で地の文が消えて作者の色が薄まれば、当然その切れ味は身を潜めることになる。とはいえ言いたいことがはっきりとしている映画だし、結末知ってても少しは楽しめるかなと気楽な気持ちで観に行ったのだが…。

 

人生で観た映画の中でも1番酷い出来だったと言っても過言ではない。もちろん、「原作を読んだ上で」という目線なのでもし読んでなかったらこうは思わなかったかもしれない。ただ、原作のエピソードをどんどんカットしていくのにその分の補填はほとんどない脚本、そして不自然に挿入されるオーバーな演技、意味よりも目立つかどうかが優先される演出。なんというか、原作を読んだ上で大切だと思ったポイントが自分と製作陣で真逆だったのかもしれない。たった100分弱なのに、そういうタイプの作品じゃないだろ…と怒りさえ覚える箇所があまりに多かった。

 

まずは冒頭。無辜ゲームの開催場所は原作では建物の中なのだが、映画ではなぜか洞窟になっている。映像化のインパクトを狙う上で模擬法廷ではなく洞窟を使うのはアリなのかもしれない。実際予告を観た時にはそこまでの違和感はなかった。しかし実際の映画では、洞窟である必然性が全くないのである。ゲームが終わるとそれぞれが蝋燭を吹き消して辺りが暗闇に包まれるのは雰囲気があってよかったが、ロースクールに洞窟があることがまずよく分からないし、その疑問にはきちんと先回りして「敷地内の洞窟に〜」と説明させるのもかなり野暮だった。ロースクールなんだから模擬法廷くらいあっていいだろうに…。

 

後は無辜ゲーム開催の合図。原作では確か天秤を増したマークを突きつけることで開廷を促す流れだったが、視覚的なインパクトを狙ったのか、何故かドンドンチャッ!ドンドンチャッ!と周りが一斉に机を叩いてQUEENを奏でることで無辜ゲームがスタートする。ホラーなら怖い。まして永瀬廉演じるセイギが過去に事件を犯したことがいきなり判明し、観客である我々も突き放されたような気分になっているところ。これがホラー映画だったらかなり効果的な演出だった。しかし実際にはそれがどうやら無辜ゲーム開催の合図だったらしい。いや、そう説明してくれもしなかったから、そうじゃないのかもしれない。時折QUEENを机で奏でる集団が通うロースクール、これがその映画の舞台なのだ。いや仮にも法律を学ぼうという人間達がそんな不気味で不快なことをするとは思えないし、そもそも無辜ゲームは司法試験に既に合格している天才・馨(北村匠海)が発案者なのに、人を煽るようなやり方が採用されるはずがない。

 

少し話は逸れるが、馨という人物像に関しても小説を読んで受けたイメージとは大きく乖離していた。司法試験に合格しているだけあって、セイギだけでなく周りの生徒からも一目置かれる存在。言わばクラスにおいてドンと構える王様なのである。しかし馨自身はどちらかというと飄々とした人間で、あまり周囲に興味を持たない、浮世めいた存在というのが小説での印象だった。しかし北村匠海が喋り出すとそこにいたのはただの賢い若者であり、小説の馨に感じたカリスマ性は微塵も存在しなかったのである。どこにでもいる普通の若者でしかなく、小説ではセイギの一人称によって語られていた彼が纏う空気感は、この映画では一切感じることができなかった。むしろ彼にこそオーバーすぎるくらいに癖のある演技をしてほしかったものである。

 

オーバーな演技といえば冒頭の戸塚純貴。原作にも登場したクラスメイトの役なのだが、喋り方があまりに露悪的。そのオーバーさに、私の隣の席の女性は思わず笑ってしまっていた。しかもそのオーバーさが結構長く続くので、自由に音量を決められないスクリーンで観るのはかなり苦痛。役者さんに罪はないのだろうけど、さすがに見ていられなかった。彼がそういう喋り方である必然性もないし。演技で言えば大森南朋もなかなかに酷い。いや演技力はある。だが、あれほどに嫌味なキャラクターに終始している意味が分からない。しかもそれで野放しなのだから酷い。無神経に気の弱い裁判員を煽る鬱陶しさ。原作では彼が何度も逮捕されてるが故に法廷慣れしており、太々しい態度を取れると説明があるし、盗聴をしておきながらセイギに対してやたら高圧的なのも、依頼者の馨から法律について入れ知恵されているためだとなっている。しかしその辺が端折られているせいで、なぜか存在を肯定された太々しい人間になってしまっており、まして気の弱い裁判員のおばちゃんは原作に全く登場しないので、何故大森南朋を自由にするためだけにあんなオリジナル部分が挟まれているのか理解できない。

 

そして杉咲花。彼女が演じる美鈴の狂気こそがこの映画の肝なわけだが、ラストシーンは突然笑い出す狂った女にしか見えなかった。いや実際、突然笑い出す狂った女なのだが。要はあの笑顔、美鈴が痴漢冤罪という犯罪を繰り返すような人間ではあっても、根本には信念や正義感があるという「実直さ」の裏返しとしてようやく機能するものであって、そうした「キャラクターの基本設定」をすっ飛ばしてしまったこの映画では、本当に「急に笑い出す女」でしかないのだ。演技力は素晴らしいのに、それを全く活かせていない。本来喚起される感情は恐怖であるはずなのに、滑稽にしか見えなかった。

 

演出で言うなら、無辜ゲーム中に生徒達が突然足を踏み鳴らすのも全く意味が分からない。これはQUEENの延長線上だけども。これがカルト宗教の映画なら全然構わないのだが、『法廷遊戯』は他に足のついたミステリー映画。どうにも演出や過剰演技が作品のリアリティラインと乖離している印象を受けてしまう。適した演出だとは私には思えなかった。いっそカルト的なノリに振り切ってくれればよかったのに、きちんとミステリーの体裁を崩さず話が進むので、すごく違和感があった。

 

『法廷遊戯』は詰まるところ、美鈴を救おうとヒーローになろうとしたセイギが望まぬ形でヒーローになってしまう物語であり、それを法廷を舞台に深く考えさせられる重いテーマを突きつけてくる物語である。無辜や同罪報復という重厚な題材を軸に、馨が仕掛けた勝負にセイギは挑んでいくことになる。馨という人物の複雑さ、悪く言えば面倒くささにかなりもたれかかった物語なのだが、映画ではひたすらに種明かしがされるせいで、仕掛けの一つ一つが羽毛のように軽い。「そうだったのか!」という気づきよりも演出面や演技での何となくな雰囲気作りが優先されてしまっているのだ。もちろん観る人の感性に依る部分も大きいが、原作の重厚さを一切感じることができなかったのは残念でならない。

 

ただ一点だけ良かったところは、永瀬廉である。これはもう配役の勝利というしかない。永瀬廉の大きな瞳がセイギの持つ後ろめたさや鬱屈さをしっかりと表現しており、ただ立っているだけで充分様になる。何かを抱えているというのが説明なしに分かるすごい目をしているなあと思った。それなのに、映画自体が変なものになってしまっていたのは本当に残念。

 

おそらくこの映画を観る方の大多数はキャストのファンだと思うのだが、もし内容について気になることがあった方は、是非原作を読んでほしい。セイギの行動の動機やそれぞれのポイントで感じた思いがより濃厚に描かれているので、おそらく理解しやすいのではないだろうか。今唐突に思い出したが、検事役の1人の髪が薄いのもかなりノイズだった。本筋と関係ないところで「ん?」と気が散ることがこの映画には多すぎる。漫画の実写映画化が騒がれる世の中だが、小説の実写映画化もかなり当たり外れがあるのだなあということを考えさせられた一作だった。

 

 

 

 

MCU映画『マーベルズ』評価・ネタバレ感想! MCU最短上映時間105分の魅力



 

複数のヒーローの誕生譚を各映画で描き、彼らを集合させる。これこそがまさに『アベンジャーズ』の真骨頂であり映画界に革命を起こす発明だった。そのシステムが世間に衝撃を与え、馴染み、そして今は「追う作品が多すぎてついていけない」と脱落者まで出てきている。「○○版アベンジャーズ」なんて言葉も一般的になっている中で、当のMCUは『エンドゲーム 』以降、その方向性にかなり悩んでいるようにも思える。それもそうだろう。『アイアンマン』から始まるサーガは大成功を収めたのだ。そこから更に物語を発展させ続けなくてはならないプレッシャーはとても大きいはず。ヒーロー映画は飽和状態と言われ、世間の熱も当時ほどではない。私自身もディズニープラスで配信中のドラマをリアルタイムで追う気力はなくなっている。それでも公開日にMCUの映画を観続けているのは、彼らが来たる『アベンジャーズ5』で、再び素晴らしい感動を与えてくれると信じているからである。

 

現在MCUはフェーズ5。フェーズ4以降はドラマも充実してきているため、追う側のこちらの視聴のハードルはかなり上がっていると言えるだろう。今回の『マーベルズ』に関しても、最低限映画『キャプテン・マーベル』とドラマ『ワンダヴィジョン』『ミズ・マーベル』を観ておいたほうがいい。マストかと言われるとそうでもないのだけれど、これまでのキャラクターが更に活き活きと描かれているので観ておいたほうが楽しめるのは間違いない。ちなみに私は未見だったドラマ2作を1週間ほどで観終えた。

 

 

 

 

その上で挑んだ『マーベルズ』。正直、面白い。とてつもなく面白いとは言えないしガツンとくる衝撃があったわけでもないのだけれど、ようやくMCUに「ちょうどいい」作品が来てくれたなあというのが率直な感想である。子供の頃、夜9時にテレビをつけるとタイトルも分からない映画が放送していて、その頃に物語の意味すら不鮮明なままついつい見入ってしまうような面白さ。肩肘張らず、難しく考えず観られることも映画においてはとても重要だと思う。思えばMCUはやはりディズニーの傘下ということもあってか、かなりポリコレを意識した作品が多い。それこそドラマの『ミズ・マーベル』はパキスタンの少女を主人公に据えるところをウリの1つにしていた。映画でも壮大な物語で多様性を訴えることが増えてきたように思う。『ガーディアンズ』は1作目からそれを訴えていたし、MCUは楽しいだけでなく「考えさせられる」作品を常に目指してきたのだろう。もちろんそれは悪いことではないが、そういう作りの映画が増えていくということは、映画のテーマに反して多様性を否定することにもなりかねない。MCU1作目の『アイアンマン』は、『ダークナイト』がシリアスの頂点に辿り着いたことで、社会派として完全に市民権を獲得したアメコミ映画を原点に立ち返らせて「楽しい!」をひたすら詰め込むことで素晴らしいスタートを切ったのではなかっただろうか。

 

 

 

 

いつしかMCUは「認められる」ことを最重要視してしまっていたのかもしれない。もちろんそれをこれまで自分が杞憂に捉えていたかというとそういうわけではない。フェーズ4以降の作品もとても楽しんで観ている。けれどこの『マーベルズ』を観て、久しく感じていなかった「懐かしさ」で心が満たされたのだ。ボロボロ泣くわけではないけれど、「ああよかったな」と劇場を出た時に思えるくらいの楽しさがしっかりと宿っている映画だった。

 

その理由の一つはやはり、105分というMCU史上最短の上映時間だろう。ヒーロー映画は2時間越えが当たり前になっていた昨今。これを知った時にはさすがに期待せざるを得なかった。やはり映画は90〜100分台がちょうどいい。間延びすることもなく、つまらなくても時間を無駄にした感覚が弱い。105分の背景には各ドラマや過去作で既にモニカとカマラのオリジンを描いていたということもあるのだろうが、映画だけ追っている人にとっては初見の2人。それらを主演に据えながらの105分。かなり思い切ったなあと、感慨深かった。同時に、105分で本当に3人のドラマをやれるのか…?と危惧してもいたのだが、こちらは完全に杞憂。物語はキャロルがクリーから「殺戮者」と呼ばれる謎と、キャロルとモニカが抱える確執に焦点を当てており、カマラは大好きなキャロルとの繋がりを喜ぶ賑やかしの役回りに。話の流れからして微妙なところもあるのだけれど、このドラマの軸はブレないので非常に観やすい。そして何よりカマラのカマラらしさが爆発しており、とにかく愛しいのだ。

 

これまでもアベンジャーズが戦っている時に常に忙しそうにしていたキャロル。そんな彼女が、これまでずっと自身の罪と戦っていたことが明かされる。1作目でキャロルがスプリーム・インテリジェンスを破壊したことで、クリーの文明は崩壊。内戦まで起こる事態となり、彼女は自身の行動に責任を感じていた。地球に戻ってこなかったのは、全てを終わらせた上でモニカと向き合いたかったためだ、と。

映画1作目の『キャプテン・マーベル』において、彼女は「何度でも立ち上がる強い女性」という立ち位置のキャラだと明かされた。彼女のオリジンは「諦めないこと」であり、それはやはりこれまでヒロインとして守られる側だった女性が立ち上がる姿になぞらえることができる。正直話のオチやテーマからして、当時から1作目がそこまで面白いとは思えなかったのだが、諦めないことを強調し続けて強くなった彼女が、1人で全てを解決しようとしていたというのはすごく良い流れだった。しかし、クリーの問題を1人で解決するのは決して簡単なことではない。だからこそキャロルは、モニカ・カマラと3人でダー・ベンに挑むのだ。

 

いつものMCUなら、頑なに1人で決行しようとするキャロルをモニカやカマラが必死に説得するシーンがあっただろう。しかしこの『マーベルズ』の3人はあっさりと打ち解け、あっさりと共闘する。アベンジャーズが経験してきたような、歪み合いぶつかり合い、対立を乗り越えての共闘ではない。憧れや過去が背中を押して、彼女達は悩みや葛藤なしに3人で戦うことを選ぶ。これを軽いと思ってしまう人もいるのかもしれないが、個人的にはその「軽さ」が物語の味になっていたように思うのだ。くよくよせず、悲劇を強調しない。ジメジメせずカラッとよく晴れた日のような爽やかさ。この『マーベルズ』にはそれがある。

 

ただ、クリーを復興させようという物語の当面の目標がリーダーのダー・ベンをぶっ倒そうになるのは全然理に適ってないと思う。しかしそれもこの映画に感じた「軽さ」の一つで、そもそも社会派目線で観るタイプの映画ではないのだろう。いい意味で割り切ってしまえるというか。重苦しさを引き摺らない姿勢が、最近のMCUの中ではかなり新鮮でとても楽しめた。

 

何より注目すべきは「パワーを使うと3人が入れ替わってしまう」という縛り。この縛りが彼女達を結びつけている。それを断ち切ることが映画の向かうべき方向でないのもまたこの映画の変なところなのだけれど、冒頭の入れ替わりアクションには心からワクワクさせられた。正直、3人のパワーにそこまで大きな違いはないように思う。VFXのエフェクトこそ違うし、できることにも差異はあるのだが、強い力で殴るとかパワーを放射してビームっぽく使うとか、そういう意味では共通している。それなのに入れ替わる度にとにかく面白い。カマラが普通に自宅にいたせいで家がバカみたいに破壊されいちいい両親まで巻き込まれるのも面白かったし、彼女らが交代に驚きながらもすぐに反応して戦いを再開するのも良かった。カマラがドラマの時より強くなってるというアピールにもなっていたし、何よりドラマではウザさが勝っていたカマラ母のコメディキャラが爆発していた。

 

あとはフラーケン。前作では可愛い猫が実は凶暴な怪物という、実にミーハーに好かれそうな設定がちょっと鼻についていたのだけれど、ここまでやられたらさすがに文句は言えない。普通に笑ってしまった。ニック・フューリーがほぼ置き去りにされてあんまり活躍してなかったのは残念。

 

総じて『マーベルズ』、批判意見もきっとたくさん目にすることになるのだろうけど、これくらいのラインの映画をもっと作っていいんだよという意味ですごく面白かった。女性ヒーロー中心だけれど、そこにわざとらしさが一切ないし、「女性版アベンジャーズをやるぜ!」みたいな表面的なことをセリフにしたり表現したりしていなかったのが本当に良かった。この自然さこそが、求めてたポリコレなんですよ…。変に感動も狙ってなくて、本当にカラッとしている。でも、そこがいいのだ。

 

後はブリー・ラーソンの顔が本当にタイプなので縄跳びのシーンとか3人でのお茶目なノリがすごく嬉しかった。思えばキャロルはこれまで大体仏頂面だったので、チームを組んでのわちゃわちゃ感だったり、歌わなきゃいけなくなるという「キャロルいじり」のシチュエーションが彼女の新たな一面を見せることに繋がっているのかもしれない。

 

細かいことを言い出せばキリがないし、ここまでべた褒めしておきながら今回の要となるポータルのことも全然理解できていないのだけれど、でもそういう雑さが輝く物語は確かに存在して、この『マーベルズ』は自分にとってはそういう作品だった。そしてラストのサプライズ。自分を犠牲にしたモニカが行き着いた先…MCUが遂にその領域に足を踏み入れたなと嬉しくなった。これからの盛り上がりにも期待したい。

 

 

 



映画『SMILE』評価・ネタバレ感想! もっと笑っていてほしかった…

スマイル

 

「球場の観客席に人を忍ばせ、テレビ中継に映る位置に立ってもらいカメラに笑顔を向け続けさせる」

本国でのこんな宣伝が日本でも話題となった『SMILE』。ゲリラ宣伝からの情報後出しなんて、すごいプロモーションをするなあと思っていたが、残念ながら日本では劇場公開されなかった。しかし、ようやく配信で上陸。ホラー映画で笑顔というと、『ゲット・アウト』の不安になる笑顔を向けてくる描写が思い浮かぶ。引きつっているというほどではないのだけれど、何かがおかしい。笑顔は幸せの象徴でもあるが、不自然な笑顔は逆に恐怖を掻き立ててくる。

 

宣伝がバズっていたので前々から気になってはいたのだが、観て最も強く感じたのはこの映画において「スマイル」をピックアップする豪胆さ。正直全然スマイルは関係ない。スマイルがなくても成立するし、何なら泣き顔でも怒り顔でもいい。「ずっと笑っている」という特殊な笑顔の不気味さだけで110分近くを走り抜けるこの作品が引っ提げてきた看板が『SMILE』なことに度肝を抜かれた。そんなにスマイルをプッシュするならもっと笑っていてほしかったけれど、この映画にとってスマイルはあくまで一要素でしかない。でも「怖い」ことが前提のホラー映画で他の作品よりも上をいく…つまり多くの人の注目を集めるためには、このワンアイデアがとても重要になってくる。

最初に述べたプロモーションもそうだが、別に劇中でそこまで重要でない要素をタイトルに持ってくる力強さ。そしてそれが見事に観客の期待を煽ることに繋がっている。映画に限らずエンタメはとにかく「まず触れてもらう」ことが重要。どれだけ面白いものを作っても、存在を知ってもらえなければ売れることはない。映画が配信で観られるようになり、世界中のあらゆるコンテンツを自宅で楽しめるようになった現代社会において、「知ってもらう」は一筋縄ではいかない。だが『SMILE』は鮮やかな成功を勝ち取った。だからこそ、勿体ないと感じてしまうのである。肝心の映画が「スマイル」をプッシュしたものではないのだから。

 

主人公は精神科医のローズ。大学院教授の自殺を目撃した女性ローラを診療中、彼女が突然「何か」に恐怖を感じ始め、不気味な笑顔を浮かべた後にその場で自殺。その不審な事件こそが、ローズに訪れる恐ろしい日々の始まりだった…という物語。眉一つ動かさず笑顔のまま首を切るローラのインパクトが凄まじい。そもそもローラが目撃した大学院教授の自殺もハンマーで頭をかち割るというもの。普通では考えられないような血生臭い方法がセリフの中にさらっと入れ込まれるのもすごいが、後々写真でその姿をしっかりと見せてくれるのである程度のグロ耐性が必要な映画なのかもしれない。

 

婚約者や周囲の人に慰めてもらいながらも、姉夫婦の言葉が耳を通り抜けるようで心ここにあらずといった様子のローズ。目の前で患者があんな風になったらそれも無理はないだろう。しかし彼女は段々と自分を呼ぶ声…そして他の人には見えない「笑顔の女性」に気付く。おかしいと思った頃には既に遅く、彼女の「呪いにかかった」という訴えは過労や精神的疲労精神疾患持ちの母の死を見たトラウマ、果ては母親からの遺伝などという理由をつけられていってしまう。彼女が当初ローラに取っていた「どうせ精神疾患だろう、幻覚だろう」という態度がローズに跳ね返ってくるのである。そしてこの映画は、その陰鬱とした描写がすごく丁寧なのだ。主人公のローズが徐々に正気を失っていったと誤解されていき、周りから理解を得られなくなっていく。そして終いには婚約者さえも離れていってしまう。

 

ホラー映画の金字塔である『エクソシスト』にもこういった描写はしっかりと存在する。悪魔憑きとなった少女の母親は、その原因が一切分からず片っ端から病院を受診する。しかし異常は全くなく、最後に理由が悪魔であるという結論に辿り着くのだが、その描写が非常に丁寧に描かれているのだ。科学や現代医学の否定をじっくりと時間を掛けて行うことは怪異に信憑性を持たせ、観客の信仰心を揺るがせていく。科学的なアプローチこそないが、この映画も視覚的なインパクトではなく精神をじわじわと煮詰めていくかのように主人公を通して観客を攻撃してくる。この映画における怪異はポルターガイストを起こすわけではなく、あくまで主人公当人にしか見えていない存在であるため、他の人が信用するのは非常に難しい。更に言うとこの怪異は生死問わず他人に化けることが可能であるため、ローズのことを分かってくれる人が現れたかと思いきや怪物…!という流れが普通にあり得るし平気でそれを実行してくるのだ。

 

私は以前の仕事で精神疾患を持つ多くの方とやり取りをする機会があったのだが、精神病院に入るほど重度でなくとも、彼等の中には「幻覚じゃないんです!」と言ってくる方が結構いる。隣人が呪いを掛けてくる…とか、天使からのメッセージがずっと頭の中に届いている…など。もちろんそれは聞こえない私からしたら幻覚なのだが、彼等にとっては原因不明かつ由々しき事態であり、更には実際に起こっていることなのである。それを幻覚だと真っ先に否定することは、治療の意味では正しいこともあるのかもしれないが、コミュニケーションにおいては正解とは限らない。彼等の怒りを生んでしまう可能性さえある。その地雷を踏まないようにやり取りをしていた自分としては、特に何をしたわけでもないローズが孤立していく流れがすごく心に刺さった。そしてそれと並行で、この怪異にはルールがあることも突き止められていく。

 

ローズが最後に頼ったのが、自分に好意を持つジョエルという刑事。彼の協力でローラよりもずっと前から、「不審な自殺を目撃した人が呪いに掛けられ最短4日で誰かの前で自殺する」という奇妙な連続性があることが判明する。唯一生き残った受刑者の男性にコンタクトを取るも、「逃れる方法は誰かの前で第三者を殺害することしかない」と告げられ、勝ち目がないことを悟ることとなってしまう。後半から始まるローズとジュエルの協力関係は、どこか貞子で有名な『リング』の松嶋菜々子真田広之ペアを思い出させる。とはいえ『SMILE』ではジュエルはあくまで刑事としてのコネを上手く使うだけで、そこまで捜査してくれるわけではないのだが。

 

怪異に法則性が存在する点もやはり『リング』と同じ。ただ『SMILE』ではこの法則性の判明が勝算へと単純に結びつかない。結局ローズを襲う怪異に勝利する術は思いつかず、最終的に彼女が選んだ結論は「死ぬ姿を誰にも見せなければ次の犠牲者は生まれない」という自己犠牲だった。これは非常に惜しいというか…。それならもう一人になった瞬間に命を絶つくらいでもよかったのではないだろうか。自分がかつて暮らしていた家、つまり母親が自殺した場所に赴いて自分のトラウマと向き合う展開はそれこそ過去から立ち直るというテーマがしっかりと反映された上手い作りなのだが、物語としての必然性がまるで欠けてしまっており、別に彼女がそこに向かう理由がないのだ。単に死に場所をそこに選んだ、くらいのことでしかない。

 

ある程度ルールが分かっているのだから、それこそ「次の人に呪いをかけられない」という点をうまく利用して怪異を欺いたり、交渉を持ち掛けたりしてもよかったのに、その時点でのローズは死に関しては割とあっさりとしているような印象さえ受ける。そして最終決戦、怪異の正体はデカいロン毛の怪物というちょっとがっかりな仕様だったが、室内なのでギリ怖さを保てていた。語りかけてくる母親が幻影であることを自覚し、自分の心の中ならお前を倒せる!と全く前フリのない理屈で怪物を火だるまにするローズ。正直ここからの駆け足感はそれまでの丁寧さからすると急すぎたし、火だるまごときでこいつが倒せないことも見え見えなので肩透かし感はある。倒して家から遠ざかってジョエルに「今まで心の内を誰にも話せなかったけどあなたと居ると安心できた…」と告白チックなことまでしたのに、そのジョエルは偽物でしたー!というオチはよかった。バレバレだったけども。

 

結局ローズは小屋から遠ざかってなどいなくて、その場にジョエルが合流してしまい小屋の中で一人になろうとしたのに怪物に喰われ、ジョエルの前で焼身自殺をしてしまう…というオチ。順当にいったのならジョエルに呪いは移ってしまったことになる。めちゃくちゃバッドエンドである。ただ、この怪異を乗り越えられる…!という流れの作品でないことは陰鬱さからも明らかだったので、そういう意味では期待を裏切らなかったかもしれない。ラストの怪物のクリーチャー感にはちょっと笑ってしまった。

 

そして最後まで観て全然「スマイル」じゃないじゃんということも思うのだけれど、そもそもこの映画の根幹は自分をさらけ出せなかった主人公が誰とも心からの交流をできていなかった…からの自分を信じてくれたジョエルだけは違ったという物語なので、別にスマイルがどうこうとかアイツの正体がどうこうというのはあまり気にならなかった。気にならないというと嘘かもしれないが、主人公がトラウマを乗り越える描写がしっかりありテーマ性の土台が出来ているので、まあそんな細かいことを言わなくていいか…とは思う。その上で、逆に「スマイル」を猛プッシュした宣伝に対してかなりの力強さを感じてしまうのである。そりゃあ映画を作る時点でコンセプトとしてはあっただろうけど、何も前情報を入れずにこの映画を観てどこをピックアップするかと訊かれたら絶対に「スマイル」は出てこない。

 

細かい描写だと、ローズが何か身の回りで起こる度にすぐに包丁を出すのがよかった。精神科医だから危機に慣れているのかなとも思ったけど、病院で包丁いちいち出すなんてありえないので、これは多分この映画のヘンテコポイントなんだと思う。何かローラはずっと包丁の女というイメージがある。アメリカなんだし銃でもよさそうなのに、徹底した包丁へのこだわりは何なんだろう。

 

もっと勝算をしっかりと提示した上で怪異と戦ってほしかったし、更に言えばこちらの予想を裏切るような展開やもう一捻りが欲しかったところだが、伝えたいテーマなどは充分伝わってきたので全然楽しむことができた。とはいえ野球場などでの宣伝がかなり強かったので、そういうインパクトを期待するとちょっと肩透かしを喰らうかもしれない。ビジュアル的な恐ろしさもそこまでではなく、ジャンプスケア(音で驚かせる手法)も多い。あ~もしかすると嫌われるタイプのホラー映画かも…という目線で観てしまった。けど個人的には好き。ローズを姉が家から追いかけてきたかと思ったら首がだらんと垂れてきて化け物でした~とアピールするやり方とか、本当によかった。パーカー・フィン監督、今後も頑張ってほしい。

 

 

 

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映画『リゾートバイト』評価・ネタバレ感想! ホラーが明確にエンタメへと変わる貴重な瞬間をぜひ体験してほしい

 

 

 

皆さん…朗報です!!!

『真・鮫島事件』『きさらぎ駅』の永江二朗監督がまたやってくれました!!!!

いつの間にかシリーズ化していた「ネット怪談実写化シリーズ」。それを牽引しているのがこの永江二朗監督で、今回も『きさらぎ駅』のスタッフが集結。今回映画化するのは、「リゾートバイト」というネットでは有名な怪談。夏休み、リゾート地の旅館でアルバイトを始めた3人の大学生が巻き込まれたこの恐ろしい物語をベースにした本作は、やはりこれまでと同様、途中から全く別方向へと舵を切り徹底的にエンタメを追求していく。

漫画の実写化が常にあれこれ言われる日本。漫画に比べると読み手が少ないためそこまで公に槍玉には上がらないが、おそらく怪談好きの人間からすれば「あの怪談をわざわざ映画にするの?」みたいなこともあると思う。だが永江監督の過去2作はそんなプレッシャーを「予想を絶対に裏切る展開」で跳ねのけてきた。個人的に「絶対に何かを仕掛けてくれる監督」として邦画界ではかなり活躍を期待したい人物の1人である。過去2作の面白さについてはそれがギミックの肝でもあるので敢えてここでネタバレは防ぐが、とにかく怪談をただ実写化するだけでなく、恐怖をしっかりと演出した上で想像の斜め上をいくオリジナル要素で観客を魅了しようという姿勢が素晴らしい。多分嫌いな人は嫌いだろうけど、私はこれがめちゃくちゃツボなのだ。そして今作『リゾートバイト』は、オリジナル要素が序盤から散りばめられた『きさらぎ駅』に比べるとスロースタートではあるものの、後半の「もうホラーノルマクリアしたし原作要素もきっちり入れたから好き勝手やらせてもらいますわ!!!!うおりゃあああああああああ!!!!!」と言わんばかりのフルスロットル具合が最高。メーター振り切れすぎ。個人的に映画に求めるものが「驚き」なので、そういう意味で永江監督作品はかなり自分の好みにあったエンターテインメント作品であり、新作が出るのを楽しみにしていた。

 

私はネット怪談には疎いため、「リゾートバイト」という怪談も最近知った口である。実際の投稿サイトは既に閉鎖されてしまったようで、そこから転載されたものを先日読んだのだが、そこまでの恐怖は感じなかった。おそらく初出の2009年から14年経過したものであったために、これをブラッシュアップしたであろう多様な作品に触れてしまったためだと思う。後はホラーを実話として楽しんでるわけではない人間なので、こういう語り口をどう読めばいいか悩んだということもあるかもしれない。映画だと完全に作り物なので割り切れるが、実体験に基づいたというような触れ込みが個人的にはあまり好きではないのだ。霊はいない派なので。

 

その上で色々と事前の予想や評判を読み、「主人公女なの?」みたいな批判も見たのだけれど、それはさすがに的外れな気がする。別にあの怪談の主人公が男性である必要はない。実際映画を観てみると幼馴染の男女の恋模様が軸となっており、この辺りの実写化に向けた人間関係の肉付けもすごく良い塩梅だった。あくまで「リゾートバイト」を元ネタにした映画というか。いや後半からはもうそういうのどうでもよくなるんだけれども。

 

幼馴染3人組の桜(伊原六花)・聡(藤原大祐)・希美(秋田汐梨)がリゾートバイトを始めたのは、とある旅館。旦那さんと女将さん、そして気の良いフリーターの岩崎(松浦祐也)の3人だけで切り盛りしているその旅館は一見普通の旅館だったが、桜は毎夜女将が2階に上がって料理を運んでいっているのを目撃してしまう…という物語。原作では3人の男子大学生が旅館へアルバイトに赴き、旅館には一人の可憐な少女がいたが、本作ではやはりだいぶ性別が入れ替わっている。これも後々大きく効いてくるギミックの1つだと言えるかもしれない。一人称で淡々と語られていた背景の大半は、岩崎が口頭で3人に説明してくれる。3人の関係も桜と聡が両想いながらお互い一歩を踏み出せず、それを横で見ている希美がやきもきしている…という状況。リゾート地の美しいロケーションも相俟って、めちゃくちゃ甘酸っぱい。

 

冒頭から笠を被った住職が出てきたり島の至る所に祠が置かれていたりと、「何かある感」も抜け目ない。原作を読んでいると「あ~なるほど」と思う部分もある。岩崎は希美に気があるようだが、年齢差の離れたおじさんを希美は相手にしていない。一方で桜と聡は初心な男女関係がしっかりと描かれており、見ていて微笑ましくなる。個人的には岩崎も胡散臭いなと思っていたが、蓋を開けると本当にただの良いあんちゃんだったのでだいぶ好きになってしまった。ただ『きさらぎ駅』で声のでかいおじいちゃん(観た人には伝わるはず)がだいぶ怖かったので、岩崎の序盤の声の大きさに何かあると思ってしまったのである。

 

桜が主人公だから2階に上がるのも彼女なのかなと思ったが、最初に2階に上がるのは聡だった。本人は部屋の中に入ったはずなのに、実際にはただ後ろを向いて腐ったご飯を貪っていただけ…という原作の恐ろしさを第三者目線でまず堪能することになる。その後、子どもが見えるようになってしまった聡を救うためのヒントになればと、桜も2階へ。するとやはり、不気味な目をして自分たちに迫って来る子どもたちが見えるようになる。ジャンプスケアを多用した、2階に上がる恐ろしさの表現が見事。「来るぞ…」としっかり思わせておいて、大きな音でちゃんと怖がらせてくれる。そしてこの辺りの恐怖感の演出の手腕が、後半の急展開に更に拍車をかけるのだ。あんなに怖いものを撮れるメンバーなのにこんな変なことしてる…!という信頼感が面白さに繋がる。

 

聡が襲われ意識不明になり、とうとう原作の終盤の除霊シーンに。ぶっきらぼうな旦那さんが突然味方をしてくれる上に、住職が介入してくる流れは原作と同様。違うのは、原作では3人一気にの除霊だったのが、都合上桜だけになったことである。お札を張った本殿に入れられ、決して言葉を出さず、決して扉を開けずに夜明けを迎える。耐えられれば勝つが、負ければ持っていかれるという恐怖感。原作では真っ暗闇で耐え忍ぶ3人の描写に緊迫感があったため、この改変はどうだろう…と思っていたが、ここで事態は急展開。

 

おそらくこのブログを読みに来てくれている方はネタバレを知りたい方か作品を観ている方だと思うので言ってしまうと、桜達を付け回す怪異の正体は「八尺様」だったのである。もうね、ここの温度感だけでめちゃくちゃ面白い。このデカい怪物が登場した時点で明らかに映画の温度が変わる。「え?」みたいな。「は?」もあるかもしれない。ここで、ホラー映画が明らかにエンタメに変わるのだ。

 

八尺様は、身長が8尺あり、魅入られた子どもをさらってしまう白いワンピース姿の女性。怪異の中ではかなり有名なほうであり、ネット怪談に疎い私でもこの話は知っていた。聡が襲われたタイミングの「ぽぽぽぽ」で気付くべきだったなあと反省。いやでもそこまで飛躍するとは思わなかったじゃん!ビジュアルが出たら速攻で気付いてめちゃくちゃ面白かったです。というか八尺様の顔の作りとかが全部ちょっと雑でもうさすがに笑いを取りに来てるのが面白すぎる。八尺様の登場により物語はホラーからエンタメに振り切られ、しかもそのまま主人公の桜が魂を抜かれてしまう。オリジナル要素どころではなく、ただただ展開に翻弄されると同時に、「これが見たかったんだよ!」とガッツポーズをしてしまった。正直漫画だろうが小説だろうがネット怪談だろうが、何かを映画化する際にほとんど物語が同じってつまらないじゃないですか…。忠実にやってほしいという願いを込めるのが主流だというのも分かっているのだが、個人的には監督をはじめとした映画スタッフ独自の味が濃いほうがいいなと思っていて。だからアニオリとかも自分はすごく好き。もちろんそれを漫画などでやるのはかなりリスキーなのは分かっているのだが、最近の原作至上主義みたいな流れにはいまいちピンと来ていない。

話が逸れたが、そういう意味で怪談というのはかなり実写化に向いている気がする。原作準拠が主流というわけではないし、多分好き勝手やってもあんまり怒る人はいない。それを逆手にとっているこのシリーズの振り切り具合は素晴らしいと思っている。漫画に例えると「ドラゴンボールの新作で悟空達のピンチに現れたのは、なんとルフィだった!」ぐらいのことをこの映画は平気でやるのだ。ほとんど関係ない2作品を結び付けるけど、まあ知っている層はカブってるしいいよね、みたいな。漫画だと色々ダメだろうが、怪談はそういう制約がないし何より前例がないので全然アリになる。

 

あとこれは余談なのだが、個人的にこの「親しい人物の声を騙る」タイプの怪異がすごく好きで。岡田准一主演で映画化もされた澤村伊智先生の『ぼぎわんが、来る。』にもこれがあった。当時大学生だった私はこの小説のあまりの面白さに一晩で読み切ってしまったのだが、このシーンが格別に恐ろしかった。主人公が霊能者に電話越しに言われるがままに儀式のセッティングをし、後は家に入ってくる「ぼぎわん」を迎え撃つのみ…という第一章クライマックスで別の電話が鳴り、その霊能者から「私はそんなこと指示していません!罠です!」と言われ、実は怪異側の都合の良いように準備をさせられて成す術なし…という展開。深夜、あまりの恐ろしさに吐きそうになったほどだったので当時の恐怖を鮮明に覚えている。この映画でも聡と希美が桜を呼ぶことで彼女が扉を開いてしまう。まあ本人じゃないことはバレバレなのだが、原作では扉は開かずめでたしめでたしとなるので、その流れで扉を開け八尺様登場というのは原作改変としても、ビジュアルとしても、かなりインパクトがあった。

 

 

 

 

そして桜と聡の魂を元に戻すタイムリミットは夜明けまでだと住職が説明。魂を戻すためには二人の体が必要であるが運ぶわけにもいかないので、私たちの魂を二人の体に入れましょう!というまさかの「君の名は。システム」。そこで儀式の最中に強い風が吹いて地蔵が倒れてお札がはがれてあんまり詳しくない岩崎が適当に貼って~の流れで「これ入れ替わるやろ…」と予想はしたがマジで入れ替わってそのまま突き進むとは思っていないのでさすがに笑ってしまった。もうここからは何でもアリ。中身こそ違うが桜と聡が怪異を倒す流れに持っていく。力業すぎる。あとは『きさらぎ駅』でも特徴的だったビリビリ電撃エフェクトがあったのがよかったです。白石晃士監督なら霊体ミミズみたいに、永江監督の十八番はビリビリ電撃エフェクトなのかもしれない。

 

八尺様と目を合わせないよう希美の魂が入った岩崎に運転させるも、腰の痛みにより彼女は早々に離脱。ひたすら八尺様との追いかけっこが展開され、たどたどしい八尺様の走りは何ともかわいらしい。愛嬌さえある。一方で中身が住職の伊原六花はかなり強くなっており、八尺様とも互角に渡り合う。遂にはいきなり土に埋まっていた錫杖を取り出し、海の向こうの島を丸焼きにして八尺様を撃破。もう全然理屈とかは分からないんだけれど、最後の展開から察するに、住職はずっとこの機会を狙って用意していたのだろう。突然のCGバトルにびっくりはするが、綿密な計画の上での行動だったのだろうなと予想はできる。

 

そして無事に旅館へとたどり着いた二人。呪文のようなものを唱え、元に戻った希美が朝を迎えるとそこには桜と聡の姿が。しかし、何かおかしい…。生魚を食べられなかったはずの聡がはまちの刺身を貪り、桜と聡の距離もまるで恋人のように近い。それもそのはず、実はこの展開は女将と旦那さん、そして住職が仕組んだものだったのである。直接的に説明はされなかったが、描写から繋げていった真相としては、「共に子どもを失った夫婦と住職が八尺様の存在を知りどうにか子どもたちを蘇らせようとした結果、バイトに来た若者を犠牲にして自分たちの子どもを取り戻すことにした」というところだろうか。旦那さんが3人に言った「住職も娘を失ってるから君たちに嘘をついたりしない、信用できる」的な一言もまあ仕掛けだったのだと思う。原作では味方だったはずの旦那さんと住職だが、映画では理屈こそあるものの、主人公達を犠牲に子どもを取り戻すという歪なキャラクターになっていた。そして障子越しに「助けて…」と呟く桜と聡の姿で物語は幕を閉じる。八尺様パートはもう面白がすごかったが、最後はしっかりホラーというか胸糞展開で締める辺りは『きさらぎ駅』と同様。欲を言えば聡達が2階に上がった経緯が「岩崎に肝試しをしようと唆されて」なのだが、岩崎は計画には噛んでいないので、ここも女将達がそうするように仕向けた形だとなおよかったかもしれない。そういう意味で岩崎、マジで色々と重要人物だったなあと思う。各キャラのメンタルを保つ上でも、ヘタレとしてコメディ性を強調する上でも。

 

と、一つツッコミを入れてしまったが、ホラー映画にエンタメを求める人にはかなり刺さるのではないだろうか。難しいことを考えなくていい上に想像を超える物語を展開してくれ、こっちの予想を絶対に凌駕してくる。本作も『きさらぎ駅』に負けず劣らずの飛躍っぷりだったので、否が応でも次回作に期待してしまう。いやこのネット怪談映画化、マジでちゃんとシリーズ化しませんか…。

 

 

 

 

 

 

真・鮫島事件