映画ファンの間では有名らしい山中監督の名前は今回初めて知ったのだが、注目すべき女優・河合優実の主演作ということで『ナミビアの砂漠』は以前から気になっていた。ポスターも、邦画には珍しい主人公の顔のどアップ。内容に関しては事前にHPを覗きに行くくらいの理解だったのだけれど、そのあまりの完成度に度肝を抜かれた。いや完成度なんて言葉がどういう指標で使われているのか自分は全く分からないけれど、映画を通してのテーマの表現の形がオリジナリティをもって作品内に散りばめられていて、27歳にしてこんな映画を撮れる人が日本人にいたのか…と戦慄してしまった(撮影の時に27歳だったかは知らないが)。奇しくも自分も山中監督と同い年であり、彼女がこの映画で表現しようとした未来への諦観は、言葉にしないけど何となく感じていることでもある。本作の感想をネットで漁ると、男性優位社会への力強いカウンターという文脈で語られていることが多い。それは山中監督が若い女性であるという前提も関係しているだろうし、本編で2人の男性を翻弄する主人公のカナの言動から、そういう受け取り方になるのかもしれない。この映画は明確に方向性を示しているわけではないし、そもそも映画の感想に正解などないのだけれど、自分はこの映画の奥底にあるものは、もっと普遍的なものだと考えている。明るい未来など思い描いたことがなく、映画のセリフにもあったように「少子化と貧困で日本は滅ぶ」ということを何となく感じていて、希望を持てない生き方。若者らしいと言われればそうなのかもしれないが、上の世代にもきっと、この国に同じ思いを抱いている人は多いと思う。自分はよく聞く「映画は世代を映す鏡」なんていう言葉がよく分からなかったのだけれど、自分と同世代の監督が撮ったこの『ナミビアの砂漠』でようやくその意味をはっきりと知ることができたかもしれない。山中監督が表現したことは、自分の心の奥底にある人生や社会への感触にすごく近く、決して他人事じゃないなと思わざるをえなかった。
冒頭、ビルの反対側から撮られたと思しき遠景から、画面の端のカナにクローズアップするシーンがあまりに凄い。ともすれば社会に埋もれてしまいかねない1人の女性の人生を描くという方向性がこのワンカットだけで説明される。それは同時に、細部は違ってもカナと同じような考え方の人が社会には溢れているということでもあるのだろう。そして旧友と喫茶店で再会するも、後ろの男達の会話が気になって全然旧友の話を聞いていないカナ。心当たりがありすぎる描写に鳥肌が立った。まして相手は同級生が死んだという衝撃的なエピソードを話しているのに、それでもノーパンしゃぶしゃぶに気がいってしまうのだ。素朴だが確かな共感を呼ぶ描写で、物語に一気に引き込まれてしまう。全編を通して主演の河合優実の演技力も素晴らしいのだが、そんな拙い感想が野暮になるくらい彼女の演技はどこまでも自然。プライベートの彼女を知らないはずなのに、これが彼女の本性なのではと思わされるほどの自然さ。その演技力も手伝って、この映画はまるでドキュメンタリーのようにも見える。現代日本を生きる1人の女性の生き方を綴った記録であるとも言えるのだ。それは何より、彼女の人生に劇的なドラマが起きないということも関係しているのかもしれない。この映画は彼氏との衝突こそあるが、何かショッキングな出来事がカナに起こるわけではないのだ。地に足のついた物語だからこそ、この映画には人を引き込む力があると思う。
主人公がエステ脱毛の店員というのも斬新。斬新というか、おそらく男性からはなかなか出てきにくい発想なのだろう。この設定は初めて見た。仕事に対して明らかに熱意を持っていないカナの気怠げな喋り方もいいし、高齢の女性が脱毛して何になるのかという同僚との会話も良かった。そこに答えを出そうとしないカナの様子から他人に興味がないことがよく分かるし、何より「何か」のために脱毛しているその女性と、未来を考えていないカナの対比にもなっている。そして終盤では永遠に終わらないエステ脱毛と医療脱毛の違いという形で、作品のテーマと思しき「うっすらと付き纏って消えない絶望感や諦観」が表出する。何かを果たしても達成感などなく、ただやるせない、意味のない、今を消費していくだけの日々が延々と続いていくというのを、エステ脱毛になぞらえる感性が凄い。
浮気相手と一緒になろうとしたタイミングで彼氏が風俗に行き、そのことを利用して都合良く別れるようなずる賢さも備えているカナ。しかし新しく彼氏になったハヤシには、以前に女性を中絶させた過去があった。そういう男を選んでしまう短絡さも、人に興味を持たない彼女の性格に関係している。カナは品行方正な人間ではないし、好き嫌いは大きく分かれるキャラクターかもしれない。自分も実際に身近にカナがいたら絶対に関わらないようにするが、それでも映画を通して彼女の心情や諦観はひしひしと伝わってくる。そして当初は愛し合っていたカナとハヤシが、同棲して少し経つと倦怠期に突入してしまう。何でもしてくれた元カレへの甘えを捨て切れないのか、ハヤシに対しても「お腹空いた」と愚痴ってしまうカナ。一方のハヤシはイヤホンをつけたまま仕事をしていてカナの言葉を聞こうともしない。正直、どっちもクズだと思う。面白いのはこの2人のクズっぷりに呆れられる演出になっていながらも、元カレのカナへの未練をきちんと描いて、誰に強く同情させるでもない点である。カナのことを分かってると言いしつこく付き纏う彼の姿を見て、哀れまない観客はいないだろう。このみっともないシーンのおかげで、この映画が「カナが選ぶ男を間違えた」というような単純な話ではないことが際立っている。きっと本作は、男女関係の話を描いたものでもないのだろう。もちろん通過点としてはそうなのだろうけれど、ゴールは恋愛云々にはない。
カナはハヤシに女性を中絶させた過去を突きつけ、2人は殴り合いの喧嘩に発展する。交わされる言葉も暴力も救いようのないものだが、しばらくするとそれは2人の「日常」に置き換わっていく。最初の喧嘩はカメラが2人に近く臨場感のあるものだったが、次の喧嘩は定点カメラで部屋の隅から2人を映す。俯瞰への変化は滑稽さを際立たせると同時に、カナとハヤシの取っ組み合いが2人の人生の風景になっていったような変化をも演出する。おそらく2人は真剣なのだろうけど、観ているこっちは微笑ましくなってしまうのだ。そして極めつけは隣人の唐田えりかの登場。夢の描写とも取れるキャンプ地のシーンの幻想的な雰囲気はあまりに秀逸だった。
私はこの物語のゴールは人生讃歌にあると思った。カナの生き方は現代の若者そのものであり、短絡的で人に平気で嘘をつき、簡単な動機で人間関係をガラッと変えてしまう。社会に期待や希望を持てないからこそ、自分の未来にもそれらを見出せない。ゆえに「今」を生きることになる。だがカナはハヤシと過ごすうちに、それらを徐々に自分の歴史にしていく。ハヤシも決して心の豊かな人間ではないし、2人はいつまでも喧嘩をし続けるのだろう。2人の生き方は褒められたものではないかもしれないが、それがいつの間にか彼女達の思い出や過去に変わっていくのだ。未来への消極的な感情さえも、未来には繋がっていくのだと、そんなメッセージが込められているような気がした。「ティンプトン(分からない)」という締めの言葉の通り、人の心も将来も分からないけれど、今の生き方はいずれ自分達にとってかけがえのない思い出になるのだ、と。もちろんこの受け取り方は自分のものなので、観た人が好きに映画を解釈すればよいと思う。少なくとも私は、未来に希望を持たない主人公の生き様が次第に「人生」となっていくその在り方に感銘を受けた。尽きない悩みや消えない不安、そういうネガティブなものと隣り合っていても、未来は訪れるのだという美しい希望。
そういったものを抜きにしても、とにかくこの映画はすごかった。河合優実がただアイスを食べてるシーンやただ起き上がるだけのシーンをじっくりと描く。こんなに贅沢な時間の使い方をする映画はなかなかないだろう。このような各シーンの長さにも、ドキュメンタリーっぽさが生じている。何も起こらない映画なのに、ここまで退屈しないというのはなかなか珍しい。特別なキラーワードもないのに多くのセリフが印象に残る。この映画を劇場で観られて本当に良かった。パンフレットが売り切れていたのが惜しい…。