映画『ナミビアの砂漠』ネタバレ感想

映画ファンの間では有名らしい山中監督の名前は今回初めて知ったのだが、注目すべき女優・河合優実の主演作ということで『ナミビアの砂漠』は以前から気になっていた。ポスターも、邦画には珍しい主人公の顔のどアップ。内容に関しては事前にHPを覗きに行くくらいの理解だったのだけれど、そのあまりの完成度に度肝を抜かれた。いや完成度なんて言葉がどういう指標で使われているのか自分は全く分からないけれど、映画を通してのテーマの表現の形がオリジナリティをもって作品内に散りばめられていて、27歳にしてこんな映画を撮れる人が日本人にいたのか…と戦慄してしまった(撮影の時に27歳だったかは知らないが)。奇しくも自分も山中監督と同い年であり、彼女がこの映画で表現しようとした未来への諦観は、言葉にしないけど何となく感じていることでもある。本作の感想をネットで漁ると、男性優位社会への力強いカウンターという文脈で語られていることが多い。それは山中監督が若い女性であるという前提も関係しているだろうし、本編で2人の男性を翻弄する主人公のカナの言動から、そういう受け取り方になるのかもしれない。この映画は明確に方向性を示しているわけではないし、そもそも映画の感想に正解などないのだけれど、自分はこの映画の奥底にあるものは、もっと普遍的なものだと考えている。明るい未来など思い描いたことがなく、映画のセリフにもあったように「少子化と貧困で日本は滅ぶ」ということを何となく感じていて、希望を持てない生き方。若者らしいと言われればそうなのかもしれないが、上の世代にもきっと、この国に同じ思いを抱いている人は多いと思う。自分はよく聞く「映画は世代を映す鏡」なんていう言葉がよく分からなかったのだけれど、自分と同世代の監督が撮ったこの『ナミビアの砂漠』でようやくその意味をはっきりと知ることができたかもしれない。山中監督が表現したことは、自分の心の奥底にある人生や社会への感触にすごく近く、決して他人事じゃないなと思わざるをえなかった。

 

冒頭、ビルの反対側から撮られたと思しき遠景から、画面の端のカナにクローズアップするシーンがあまりに凄い。ともすれば社会に埋もれてしまいかねない1人の女性の人生を描くという方向性がこのワンカットだけで説明される。それは同時に、細部は違ってもカナと同じような考え方の人が社会には溢れているということでもあるのだろう。そして旧友と喫茶店で再会するも、後ろの男達の会話が気になって全然旧友の話を聞いていないカナ。心当たりがありすぎる描写に鳥肌が立った。まして相手は同級生が死んだという衝撃的なエピソードを話しているのに、それでもノーパンしゃぶしゃぶに気がいってしまうのだ。素朴だが確かな共感を呼ぶ描写で、物語に一気に引き込まれてしまう。全編を通して主演の河合優実の演技力も素晴らしいのだが、そんな拙い感想が野暮になるくらい彼女の演技はどこまでも自然。プライベートの彼女を知らないはずなのに、これが彼女の本性なのではと思わされるほどの自然さ。その演技力も手伝って、この映画はまるでドキュメンタリーのようにも見える。現代日本を生きる1人の女性の生き方を綴った記録であるとも言えるのだ。それは何より、彼女の人生に劇的なドラマが起きないということも関係しているのかもしれない。この映画は彼氏との衝突こそあるが、何かショッキングな出来事がカナに起こるわけではないのだ。地に足のついた物語だからこそ、この映画には人を引き込む力があると思う。

 

主人公がエステ脱毛の店員というのも斬新。斬新というか、おそらく男性からはなかなか出てきにくい発想なのだろう。この設定は初めて見た。仕事に対して明らかに熱意を持っていないカナの気怠げな喋り方もいいし、高齢の女性が脱毛して何になるのかという同僚との会話も良かった。そこに答えを出そうとしないカナの様子から他人に興味がないことがよく分かるし、何より「何か」のために脱毛しているその女性と、未来を考えていないカナの対比にもなっている。そして終盤では永遠に終わらないエステ脱毛と医療脱毛の違いという形で、作品のテーマと思しき「うっすらと付き纏って消えない絶望感や諦観」が表出する。何かを果たしても達成感などなく、ただやるせない、意味のない、今を消費していくだけの日々が延々と続いていくというのを、エステ脱毛になぞらえる感性が凄い。

 

浮気相手と一緒になろうとしたタイミングで彼氏が風俗に行き、そのことを利用して都合良く別れるようなずる賢さも備えているカナ。しかし新しく彼氏になったハヤシには、以前に女性を中絶させた過去があった。そういう男を選んでしまう短絡さも、人に興味を持たない彼女の性格に関係している。カナは品行方正な人間ではないし、好き嫌いは大きく分かれるキャラクターかもしれない。自分も実際に身近にカナがいたら絶対に関わらないようにするが、それでも映画を通して彼女の心情や諦観はひしひしと伝わってくる。そして当初は愛し合っていたカナとハヤシが、同棲して少し経つと倦怠期に突入してしまう。何でもしてくれた元カレへの甘えを捨て切れないのか、ハヤシに対しても「お腹空いた」と愚痴ってしまうカナ。一方のハヤシはイヤホンをつけたまま仕事をしていてカナの言葉を聞こうともしない。正直、どっちもクズだと思う。面白いのはこの2人のクズっぷりに呆れられる演出になっていながらも、元カレのカナへの未練をきちんと描いて、誰に強く同情させるでもない点である。カナのことを分かってると言いしつこく付き纏う彼の姿を見て、哀れまない観客はいないだろう。このみっともないシーンのおかげで、この映画が「カナが選ぶ男を間違えた」というような単純な話ではないことが際立っている。きっと本作は、男女関係の話を描いたものでもないのだろう。もちろん通過点としてはそうなのだろうけれど、ゴールは恋愛云々にはない。

 

カナはハヤシに女性を中絶させた過去を突きつけ、2人は殴り合いの喧嘩に発展する。交わされる言葉も暴力も救いようのないものだが、しばらくするとそれは2人の「日常」に置き換わっていく。最初の喧嘩はカメラが2人に近く臨場感のあるものだったが、次の喧嘩は定点カメラで部屋の隅から2人を映す。俯瞰への変化は滑稽さを際立たせると同時に、カナとハヤシの取っ組み合いが2人の人生の風景になっていったような変化をも演出する。おそらく2人は真剣なのだろうけど、観ているこっちは微笑ましくなってしまうのだ。そして極めつけは隣人の唐田えりかの登場。夢の描写とも取れるキャンプ地のシーンの幻想的な雰囲気はあまりに秀逸だった。

 

私はこの物語のゴールは人生讃歌にあると思った。カナの生き方は現代の若者そのものであり、短絡的で人に平気で嘘をつき、簡単な動機で人間関係をガラッと変えてしまう。社会に期待や希望を持てないからこそ、自分の未来にもそれらを見出せない。ゆえに「今」を生きることになる。だがカナはハヤシと過ごすうちに、それらを徐々に自分の歴史にしていく。ハヤシも決して心の豊かな人間ではないし、2人はいつまでも喧嘩をし続けるのだろう。2人の生き方は褒められたものではないかもしれないが、それがいつの間にか彼女達の思い出や過去に変わっていくのだ。未来への消極的な感情さえも、未来には繋がっていくのだと、そんなメッセージが込められているような気がした。「ティンプトン(分からない)」という締めの言葉の通り、人の心も将来も分からないけれど、今の生き方はいずれ自分達にとってかけがえのない思い出になるのだ、と。もちろんこの受け取り方は自分のものなので、観た人が好きに映画を解釈すればよいと思う。少なくとも私は、未来に希望を持たない主人公の生き様が次第に「人生」となっていくその在り方に感銘を受けた。尽きない悩みや消えない不安、そういうネガティブなものと隣り合っていても、未来は訪れるのだという美しい希望。

 

そういったものを抜きにしても、とにかくこの映画はすごかった。河合優実がただアイスを食べてるシーンやただ起き上がるだけのシーンをじっくりと描く。こんなに贅沢な時間の使い方をする映画はなかなかないだろう。このような各シーンの長さにも、ドキュメンタリーっぽさが生じている。何も起こらない映画なのに、ここまで退屈しないというのはなかなか珍しい。特別なキラーワードもないのに多くのセリフが印象に残る。この映画を劇場で観られて本当に良かった。パンフレットが売り切れていたのが惜しい…。

 

 

 

 

 

 



 

映画『エイリアン:ロムルス』ネタバレ感想

エイリアン:ロムルス (オリジナル・サウンドトラック)

 

エイリアンシリーズはナンバリングタイトルの4まで少しずつジャンルをずらして独自性を保っていた。だからこそどれも似通った作品にはならず、各作品にしかないインパクトがある。1作目の前日譚をリドリー・スコット自ら手掛けた『プロメテウス』と『エイリアン:コヴェナント』は人類やエイリアンの起源を探る方向性に進んでいき、これまでとは別のアプローチでシリーズの世界観を押し拡げていった。そして最新作『エイリアン:ロムルス』。監督は『ドント・ブリーズ』が有名なフェデ・アルバレスだが、この男がとてつもないエイリアンギークだったことは、映画を観れば一目瞭然。過去作を彷彿とさせるシーンに溢れ、しかもVFXが主流の今の時代にほとんどをアナログでこなすという並外れたこだわりを持っている。それでいてオリジナリティに富んだSF的スリルのある展開もふんだんに盛り込まれており、エイリアンの新作、そして1と2の間の物語としてこれ以上ないというほどの珠玉の出来だった。

 

これまでのエイリアンシリーズでは立場のある大人達がメインで物語を進めていくが(3では例外的に囚人)、今作は明るい未来を夢見る若者達の物語になっている。アンドロイドの弟・アンディと共に日が昇らない惑星から抜け出そうとしていたレインは、終わったはずのノルマが追加され、惑星脱出が更に数年後に延びたことで途方に暮れる。そんな時に元カレ達から呼び出され、宇宙に漂う廃船・ロムルス号で新天地を目指さないかと誘われる。ロムルスの操縦には同じユタニ社製のアンディが必要だった。レインは当初こそ違法なやり方に反対するが、これ以上今の惑星に留まることはできないと考え、彼等についていくことに。しかしロムルス号には大量のエイリアンが潜んでいた…という筋書き。

 

宇宙船の乗組員や軍人といったプロではなく、未熟な若者達の物語というプロットが斬新だった。中には妊娠している女性もいるなど、序盤から既に不穏な空気は漂っており、丁寧な話運びも印象的。シリーズでは人命よりもエイリアンの確保を優先することが多く、うんざりするような行動ばかりだったアンドロイドが、今作では旧式ということもあって、子どもたちにボコボコにされるようなポンコツなのも面白い。しかし船内で新型とカートリッジを取り替えると、途端にいつものアンドロイドに。この一人二役的な役どころの変貌ぶりが素晴らしく、彼の変化が彼を弟と呼んで一緒に過ごしてきたレインの心情の変化にも繋がっている。アンディを生きた人間のように扱うレインの優しさは、あらゆるシーンで観ている者の心を打つのだ。

 

映画が始まってすぐ、私の胸が高鳴ったのは、1作目で印象的だったあの古めかしいコンピュータが再現されたのを見た時である。20年代SF映画ではまず出てこない代物だが、この映画は1作目と2作目の間の物語。ならばとアルバレス監督は1作目と地続きであることを意識させるために、あらゆる細部にこだわりを見せる。そして何より彼がこだわったのが、VFXに頼らない画面作りである。観ている時は「初代に寄せた作りにしているなあ」と軽く考えていたのだが、パンフレットを読んでその並々ならぬこだわりに気づいた。大量のフェイスハガーにレイン達が追われるシーンさえも、ラジコンのフェイスハガーを複数人で動かしていたらしい。絶対VFXだと思っていたのに…現代のハリウッド映画でこんなことができるのかと鳥肌が立った。思えば、そもそも船内の作りが凄まじい。狂気すら感じる奥行きのあるロムルス号は、映画の魅力にかなり寄与していたと言えるだろう。船内のボタンがどれも本当に押せたり光ったりするように作ったというのもあまりにすごいエピソードである。VFXが悪いとは言わないが、VFXに頼り切った映画が溢れかえった現代で、まさかこんなにアナログな作りを見せてくれるだなんて…。思えば1作目の『エイリアン』も、70年代ということでそもそもVFXが使われるはずがないのだが、アナログ的な作りに恐怖を掻き立てられる作品だった。究極かつ魅力的なエイリアンの生態を手弁当感のある作り物で演出することで、リアルさが際立ち恐怖は何倍にも増していく。キャラクターが感じる痛みやエイリアンの生物的な気持ち悪さは、やはりVFXよりも手作りのほうが強調できるのだろう。神は細部に宿るというが、ここまで徹底的に舞台を作り込んだアルバレス監督を最新作に起用してくれたことに感謝したい。

 

そして、監督自ら手掛けた脚本も驚きに富んだ内容で凄まじい面白さだった。人間とユタニ製アンドロイドの確執はこれまでのシリーズでも描かれていたが、アンディの二面性によって過去作とはまた違ったオリジナリティが生まれている。フェイスハガーとチェストバスターを丁寧に描くシーンは1作目を彷彿とさせるが、大量のゼノモーフが狭い通路を駆ける2作目のオマージュ的シーンもあり、を妊娠してしまう3作目的展開、そして4作目のリプリークローンの子どもを思わせる人型エイリアンなど、過去作の要素を緻密に拾い上げて完成していく物語は、それだけで充分な推進力がある。しかし観客をワクワクさせるような新たな面白さも有しているのだ。例えば大量のフェイスハガー。中盤では彼等が体温と音で標的をマークしていることに気付き、室温を上げた後で音を立てないように通路を抜けるという、正に『ドント・ブリーズ』な映像まで拝むことができる。ここに限らず、全体的にその場でのミッションと危険性がしっかり説明されながら話が進んでいくため、ゲーム的な感覚で絶え間なくドキドキハラハラすることができる。あまりにも練られすぎた脚本である。

 

私が一番好きなシーンは終盤、大量のゼノモーフに挑む場面。いきなり出てきたかっこよすぎる自動照準のライフルでバンバン敵を撃ちまくるシークエンスはあまりの面白さにクラクラしてしまった。エイリアンの血液が酸だから、撃ち殺せば酸が飛び散ってロムルス号に穴が空いてしまうという状況への打開策が無重力空間を作り出すというのも見事。その気付きをレインにもたらすのが父親から受け継いだ弟アンディのジョークというのも素晴らしい。そしてゼノモーフを殲滅した後にも、無重力状態でふわふわと宙を舞う大量の酸を避けて進んでいかなければならないというおまけミッション付き。私は『エイリアン2』を初めて観た時、その展開の美しさ(白眉はラストのパワーローダー)に息を呑んだのだが、『ロムルス』にも興奮に満ちた展開が山ほどあり、あの興奮と同じものを味わえたように思う。次から次へと襲い来る絶望的なピンチに、どんどん打開策を打っていくスピード感。エイリアンの新作である以上に、そもそも映画としての面白さが圧倒的なのだ。そしてラスト、エイリアンを倒して全てが終わったと思いきや…な展開も正に『エイリアン』。レインが宇宙服を着るシーンは、あからさま過ぎて笑ってしまった(1作目では身を隠すためで、今作は温度の低下から身を守るためという違いはあるが)。

 

ドント・ブリーズ』が盲目の元軍人の家に侵入して命の危機に晒される若者達の映画だったことを思うと、アルバレス監督が『ロムルス』を撮影し見事な作品を生み出すのは必然だったのかもしれない。エイリアンシリーズに新たな傑作が生まれてしまったと言えるのではないだろうか。1作目だけでなくシリーズへのリスペクトに満ちた素晴らしい新作だった。

 

 

 

 



映画『夏目アラタの結婚』ネタバレ感想

 

漫画のタイトルは聞き覚えがあったけど、映画化するほど人気があったとは知らずに驚き、劇場の予告で歯がガタガタの黒島結菜を観て衝撃を受けた記憶がある。しかし予告だけでは大してストーリーが分からない。とりあえず敬愛する堤幸彦監督ということで、一応映画を観に行くことにした。ただ、堤監督の演出はドラマでは大人気を博すものの、映画となるとかなり評判が悪い。『ケイゾク』や『SPEC』も結局はドラマが一番よかったよねというとこに落ち着いたし、『サイレン』なんかは実写映画の話をすると途端に口を閉ざすファンもいるくらいである。そして今作『夏目アラタの結婚』も原作付き。しかも全12巻ということで、映画の尺が2時間ではどう考えても足らないだろう。中途半端な形になるのかオリジナル展開になるのか。原作未読の私にとってはとにかく面白ければ何でもいいと思っていたのだが、率直な感想を言うとかなり感動してしまった。映画的な魅力には乏しかったものの、おそらく原作のそもそもの筋が素晴らしいのだろう。サスペンスでスタートした物語が美しいラブストーリーに着地する展開と、数々の謎が真珠の真意に収斂する構造が素晴らしく、先に原作をきちんと読むべきだったなと反省。いやでもそれだと映画に対してはネガティブな印象を抱いていたかもしれない。ジレンマ。ここからはネタバレも込みで感想を述べていく。

 

夏目アラタという柳楽優弥演じる児童相談所の職員が主人公。世話をしている子どもの1人が殺された父親の頭部を見つけるために、彼の名前を使って父親を殺した死刑囚と文通を始めてしまう。彼の思いを汲んだアラタは死刑囚の品川真珠と面会し、そこで結婚を申し込む。最初は首を見つけるために嫌々真珠とやり取りをしていたアラタだったが、徐々に真珠の魅力に引き込まれていく…という筋書き。品川ピエロの名を冠した小太りの女性だったはずが、真珠はいつの間にか華奢な美少女へと変貌を遂げており、演じる黒島結菜の怪演がこの映画の最大の魅力となっている。ガタガタで汚い歯がしっかりと印象づけられる、面会室の机上からのライト。ガラス越しでも強力なインパクトを放つ真珠には、アラタでなくとも何かを感じるはずだ。そんな満点のビジュアルに反して、ストーリーはかなり駆け足になってしまっている。

 

漫画版全11巻を2時間に凝縮したのだから仕方がないことではあるが、正直メインストーリーのダイジェスト版かと見紛うほど早足で物語は進んでいく。「こんにちわ」の件で揺さぶりをかけてくる真珠や、彼女のビジュアルの変化、不可解な点などなど、こちらが謎を楽しむ暇もなく次から次へと情報が押し寄せ、年表を見ている気分に。主人公アラタの心情はその場限りのモノローグで済まされ、実写化映画の悪い部分が存分に出ているようにさえ感じた。前半だけだとかなり退屈。ただ、これは自分が鑑賞前に原作の無料で読める部分を読んでしまったのもよくなかったかもしれない。何も知らなければもう少し話に前のめりになれたのかもしれないが、漫画の展開を駆け足でなぞっていくのはかなり苦痛だった。特に丸山礼演じる桃山が真珠に手紙で呼び出されて面会に行くシーン。漫画ではアラタでも弁護士の宮前でもない一般人が彼女の魅力に取り込まれてしまうという恐ろしさを演出しながら、桃山は普通のブラを、アラタは桃山の名前を使ってスポブラを差し入れてしまうという、胃がキリキリするような展開にも繋がっており秀逸だったのだが、映画ではその後桃山の話は一切なく、本当に漫画をなぞっているだけであった。これだけ駆け足なのにシーンの取捨選択に失敗している脚本がかなり辛く、この辺りで私は鑑賞意欲が潰えてしまう。

 

しかし、丁度真珠が墓の話をした辺りから一気に物語が動く。逆に言うとその直前の裁判→即休廷はかなりキツかった。真珠が暗に掘り返せとアラタに伝えた場所には、本物の品川真珠の遺体が埋められていた。事件の犯人とされている品川真珠は実はその妹であり、彼女の死を隠すために母親が真珠を名乗らせた存在だったのだ。歯の生え具合から年齢が発覚するのを防ぐために歯医者には行かないよう伝え、年齢を誤魔化すためにとにかく量を食べさせられ太らされ、幼少期と逮捕時のIQの極端な違いも年齢差のせいだった。彼女の不可解な部分がこの「年齢詐称」に集約される展開があまりに美しく、それでいてこれによって彼女が犯行当時未成年であることが分かり、裁判はやり直しとなる。もし漫画版で読んでいたら発狂していたかもしれない。すごく丁寧な伏線の張り方だった。そこから真珠とアラタの逃避行が始まるが、彼女は翌朝アラタの前から消え逮捕される。新たに始まった裁判での真珠の言葉にアラタは彼女の真意を悟る。常に周囲からかわいそうだと哀れまれた真珠にとって、自分を哀れむことなく「人殺し」として正面から向き合ってくれたアラタは運命の人だったのだ。真珠の怪しげな言動にブラフなど存在しない。しかし自分を哀れむように見るアラタに失望し、彼女は再び獄中生活の道を選ぶ。真意を知ったアラタは結婚式を挙げるために動き出す。児童相談所の職員だった際にも(劇中で退職する)、思えば子どもたちを救おうとしながら哀れんでいたのだと彼は宮前に話す。自分より悲惨な境遇の子供たちを見て、彼はどこか安心していたのかもしれない。しかしそれは相手からすれば失礼極まりないことで、彼は自分の道を正す意味も込めて、再び真珠と向き合い刑務所の内と外での結婚式を挙げるのだった。

 

死刑囚の真意を知り、未だ見つかっていない遺体を探すためにと始まった偽装結婚が、美しいラブストーリーで閉じられる結末。その転換に思わず感動し、序盤で感じた苦痛はあっさりと消え失せた。確かに、言いたいことはある。アラタが主人公であるはずなのに、結局真珠の言う通りにしていれば物事が進む展開はかなり酷い。漫画では、アラタの嘘がバレるかもしれないというヒリヒリした緊迫感がもっとあったのだが、映画はテンポが良い分、攻略本を見ながらプレイするRPGのようにスラスラと謎が解かれていく。アラタが能動的に何かをするということもほとんどなく、その上漫画では丁寧に描かれていた彼の児童相談所職員としての心情や背景もオミットされてしまっている。彼がどういう人物なのかがぼんやりとしか分からないままに話が進む前半は非常に退屈だった。それでも全ての種明かしが終わった後には清々しい気持ちになって劇場を出ることができる。ラストシーン、子どもの頃の真珠が雨でずぶ濡れになっている時にヤンキー時代のアラタからハンカチを手渡されるのは映画オリジナルだろうか。漫画では幼少期の真珠に会っているのは弁護士の宮前だったが、漫画でもアラタも会っていたということなのか。この辺りはいずれ原作を読んで確かめたいと思う。

 

映画では駆け足だった部分も多く手放しには喜べなかったが、原作はきっと相当面白いのだろうなと思わせてくれる作品だった。様々な声色や表情を使い分ける黒島結菜の演技力は凄まじく、だからこそ最終的に純情に落ち着くのが余計に感動を誘う。言いたいこともあるサスペンス映画だったが、観た後に爽やかな気持ちになれる良作だった。

 

 

 

 

 

 

映画『誰かに見られてる』ネタバレ感想

誰かに見られてる

 

『エイリアン』『ブレードランナー』『レジェンド/光と闇の伝説』に続いてリドリー・スコットが監督したのがこの『誰かに見られてる』。ヒッチコックを彷彿とさせるような抽象的な邦題からサスペンス映画なのかと思ったが、スリラー要素はほとんどない。ラブストーリーとも違うような気がする。確かにリドリー・スコット監督のフィルモグラフィからすると捻りのない直球な現代劇は異質だが、だからといってそれが新たな彼の魅力を引き出しているということもないように感じた。なんだろう、この凡庸な物語は。正直、観ている間も展開にほとんど興味を持つことができなかった。なんだろう、あまりに…あまりに面白味がない。

 

簡単に言うと、殺人の現場を目撃した女性と、彼女を警護する既婚の男性刑事が仲を深めていく…という話。というか、本当にそれだけなのである。命の危機が挟まってはいるものの、映画の大半は既婚者で子どももいるのにクレアに惹かれていってしまうマイクの葛藤が描かれる。マイクの奥さんも子どももいい人だし、特別不仲というわけではない。ただ、確かにクレアは美人で惹かれる気持ちが分からないではない。奥さんも相当美人ではあるが。誰に相談するでもなく、悩み続けるマイクを観ていると段々苛々してくる上に、物語も全然進まない。一度犯人のベンザが逮捕されるが、マイクの捜査に問題があるとして釈放。クレアは再び命の危機に晒され自暴自棄になり、マイクはそれを自分のせいだと責任を感じる。そして2人は遂に結ばれ…という、説明していて恥ずかしくなるような展開がダラダラと続いていく。てっきり体の関係にはならないまま終わるのだと思っていたので、あっさりと結ばれたことには驚いた。マイク、お前何をダラダラと悩んでいたんだ…。

 

とはいえ、ダラダラと悩む期間がこの展開で終わりを迎えたのは素直に嬉しい。遂に完全に不倫関係に陥ってしまって、これは一体どうなるのか…と期待したのだが、最後にはマイクの妻と息子がベンザに人質に取られ、マイクが救出に向かう展開に。そもそもこれも、逮捕されたくなかったはずのベンザからすればかなり不可解な行動なのだが、マイクへの逆恨みと取ればよいのだろうか。アクションシーンはさすがリドリー・スコットといったところで、陰影の使い方に独特な緊迫感がある。犯人と対話するマイクの目の部分にだけ光が当たる演出が面白い。しかし結末はあっけらかんとしていた。息子の代わりに人質になったマイク。ベンザの隙を見て妻が拳銃を手にし、そのままベンザを銃殺。う、嘘だろ…奥さんがやるのかよ…。テーマが重厚だとかそういう映画ではないのだろうけど、ここまで中身がないともはや笑ってしまう。しかも人質に取られたのが吊り橋効果になったのか、マイクは家族とやり直すことを決意する。奥さんはそれでいいのか?元警察とはいえ人殺しまでする羽目になって?浮気も有耶無耶なままで仲直り?マイクはまだクレアと連絡取ってるのに?

 

疑問が止まないまま、あまりにおかしな着地をしたため面食らってしまったが、1987年という時代を考えれば、一時の過ちで美人と結ばれその後家族と仲直りというのはそこまで変な物語でもないのかもしれない。もし2020年代だったら一般には全く受け入れられないだろうし、そもそも物語として全然起伏がないのも苦しいとは思うが。リドリー・スコットの他の作品に比べるとかなりマイナーなようなので、ぜひ多くの人に観てもらいたいなとは思う。残念ながら、自分はつまらない以上の気持ちを持つことはできなかった。リドリー・スコットの映画は映像美や画面の迫力に魅力があると思っていたのだが、現代劇だとさすがにその点は難しかった。

 

あとは楽曲もやたらかかっていて、なんだかなあという気持ちになってしまう。もちろん歌詞付きの楽曲がかかる映画でもいいものはあるのだけれど、この使い方はどうなんだろうなあ、と。感覚的なものなので好みはあると思うが、自分はすごく「ドラマ的」というか、「一般ウケを狙ったのかな」という印象を持った。洋楽には詳しくないので、もししっかりとした意図があったら大変申し訳ないのだけれども。ただ、BGMがノイズになっちゃってるなあみたいな、PVみたいになってる瞬間が映画の中にあったのは残念。冒頭で音楽を流しながら街の夜景を映すのはワクワクしてよかった。ただ映画全体の出来を知った後だと、あまり感動はしなかったかなあと。

 

好きな方には申し訳ないが、自分にはまるで刺さらなかった。やはりリドリー・スコットには想像力をフルに働かせるような画作りをしていてほしい。せめてサスペンスであればもっと楽しめたのだろうけども、あまりに都合のいいラブロマンスで残念だった。

 

 

誰かに見られてる

誰かに見られてる

  • ミミ・ロジャース
Amazon

 

 

映画『理想郷』ネタバレ感想

理想郷

 

『理想郷』というタイトルとは裏腹に、すごく悲惨で虚しい映画だった。それでいて作品の示す「理想郷」がどういうものなのかはしっかりと伝わってくる。だからこそ、理想郷に辿り着けなかった者達の想いが余計に虚しく感じられてしまう。苛立ちや苦しみばかりが続き、鉛のように重い空気が漂い続ける映画。私はそんな印象を持ったし、映画を観た多くの人はきっとそう感じているはずだ。

 

フランス人夫婦のアントワーヌとオルガがスペインの田舎町に移り住むも、風力発電所建設に伴う土地の譲渡問題によって近隣住民と敵対してしまうという物語。夫のアントワーヌ(海外の話なので仕方ないが風貌からは想像できないほど可憐な名前)はかつてこの土地の大自然に心を奪われ希望を宿し、村を再生することを目標に移住を決めた。しかし隣に住む兄弟は50代と40代にも関わらず、村で生涯を終えることに悩み、自由を得ることを願っている。土地を引き渡して金を手にし、新たな生活を夢見る彼等にとって、夫婦は余所者として以上に邪魔な存在。あの手この手で嫌がらせを続けるも、アントワーヌは一歳立ち退こうとしない。彼にとっては自らの心を救ってくれた土地を再生することこそが夢なのだ。そのために、半壊状態の家屋をボランティアで修繕している。アントワーヌと兄弟は土地に対して互いに相反する思いを抱いており、その対立はやがて悲劇を引き起こす。

 

隣人兄弟の嫌がらせはとにかく卑劣で吐き気さえ催してしまうほど。夫婦の酒を勝手に飲み、椅子に小便をかけ、夜にはカーテン越しに窓の外から寝室を覗く。終いには夫婦の使っている井戸にバッテリーを入れ、水を汚染して彼等の生活基盤である作物をダメにしてしまう。それでも認めようともせず悪びれもしない。こいつを村から追い出すことが人生の全てだというくらいに執拗に嫌がらせをし続ける。この兄弟役の俳優を私は知らなかったのだが、他の映画でどんな役で登場してもきっと嫌気が差してしまうだろう。それほどに説得力のあるクズ兄弟を見事に演じていた。

 

映画の舞台はスペインで、夫婦はフランス人だが、隣人との断絶というテーマは私達日本人にとっても身近なものである。引っ越した先の隣人に嫌がらせを受け続ければ気にも病むし、やがて攻撃的にもなるだろう。引っ越しは金額の面でも時間の面でも容易くできることではない。ましてアントワーヌのように明確な目標があれば尚更だ。前半はほとんどが隣人トラブルの映画なのだが、邦画とは描き方が明らかに異なる。これがもし邦画なら、隣人トラブルの場面を大袈裟に取り沙汰するだろう。しかしこの映画は嫌がらせを受ける夫婦を大自然の景色に収めながら、行為の悲惨さとアントワーヌの怒りを淡々と語っていく。そして妻のオルガの言葉によって観客はアントワーヌの行動もまた、敵意からくる「攻撃」にほかならないのだと悟るようになる。兄弟とのやり取りを盗撮する彼のやり方は、気持ちこそ分かるが褒められたものではない。そして原点に立ち返ってみると、そもそもアントワーヌの「村を再生したい」という思いは村での生活を厭う村人達に到底理解できるものではなく、それでいてアントワーヌは明確な説明を避け続けた。そこには「どうせこいつらには理解できないだろう」という諦観からくる差別意識があったのかもしれない。

 

何もない田舎で生涯を終えることへの不満は田舎育ちにしか分からないのだろう。外野から見てどれだけその土地が魅力的であろうと、住むとなれば話は別であり、まして勝手に住み着いたアントワーヌがこの場所を「故郷」などと言い出すのだからお笑い種である。主人公のアントワーヌは崇高な指名を持った人間に見えるが、実際には村人との和解を拒んだ野蛮人なのだ。隣人の嫌がらせがあまりに酷く、数を考えても一方的なイジメに見えるだけにどうしても同情してしまうが、この映画は彼を正義とはしていない。ではこの映画が示す「理想郷」とは何か。それは人の痛みに寄り添える世界である。

 

兄弟によってアントワーヌが殺されるという衝撃の展開。彼が意識を失ったシーンからすぐに時間が経ち、1人になったオルガが主人公として頭角を表す。夫を大して捜索もしない警察にも冷静に対応し、激昂する娘にも淡々と言葉を紡ぎ、ただ1人遺体を探し続けるオルガの姿は、隣人へ報復を試みたアントワーヌとは対照的であった。そしてアントワーヌの遺したビデオカメラが見つかり、いよいよ兄弟が逮捕されるという直前に、オルガはこれから1人になるであろう兄弟の母に「何かあったらいつでも呼んで」と声を掛けるのだ。暴力や嫌がらせや盗撮ではなく、心と心のやり取りをどこまでも重んじる彼女のやり方は見ていて清々しい。家族や隣人や警察に何かを強要することもせず、冷静に意見を述べて意思を伝える。オルガにとってこの場所がアントワーヌと同じくらい重要な場所だったのかどうかは定かではないが、彼女は移住を受け入れ、夫の死にも時間をかけて毅然とした態度で立ち向かった。彼女はどこまでも正しく在り続けようとしたのだろう。

 

田舎と都会の格差は日本にも存在している。それは賃金や働き口といった問題だけでなく、田舎での女性蔑視や小さな共同体故の他者との関わり方の違いにも表れる。都会の人間の多くは観光地として自然豊かな土地を楽しむが、定住するとなると話は変わってくる。都会育ちの自分にも、田舎に対して偏見がないと言えば嘘になる。逆に地方に住む人からしても、自分のような都会育ちはお高く止まって見えるのかもしれない。決して遠くないテーマを扱いながら、映画としてのエンタメ性は強く、何より居心地の悪い空気感に圧倒される。観ながら様々なことを考えさせられる素晴らしい映画だった。

 

 

理想郷

理想郷

  • ドゥニ・メノーシェ
Amazon

 

 

映画『FPS』ネタバレ感想

FPS

 

『きさらぎ駅』や『リゾートバイト』で一躍有名になったホラー映画監督、永江ニ朗。そんな彼の最新作は実験的アトラクションホラー作品。『きさらぎ駅』の後半と同様、観客は主人公と目線を共有することになる。60分という長さで上映規模もそこまで大きくなかった本作。評価を調べると、なんとどのサイトでも軒並み低い。上映時には観られなかったのでU-NEXTで鑑賞したのだが、この映画、かなり不当な評価を受けているように感じた。私はかなり怖く、とにかく恐ろしく、家で昼間に観たにも関わらず、スマホで調べ物をしながらでないとエンドロールまで辿り着けなかった。なので正直、この映画をきちんと鑑賞したとは言いにくい。しかし、間違いなくこの映画は怖い。それでいて評価が低いのはどうしてなのか。

 

答えは「ジャンプスケア」にある。いきなり大きな音を出して観客を驚かせる手法であり、力業でもあるためにこれを嫌う人は少なくない。実際私もあまり好きではない。なぜなら、必ず驚いてしまうからである。大きな音を出されればそりゃあ怖い。この映画は60分というタイトさにも関わらず、このジャンプスケアのつるべ打ち。というか怖いと思わされるシーンは軒並みジャンプスケアだったのではないだろうか。そのため、「真っ当なホラー映画ではなく、音がデカいだけ」という趣旨の感想が散見される。だがここには作り手と受け手の間で大きな隔たりがある。

 

私がこの映画を擁護もとい評価したい理由は2つある。まずもってして、「ジャンプスケアが卑怯な手段」という考え方には個人差がある。確かに「ほぼ確実にビックリする」という意味で大きい音を出すのは禁じ手のようにも思えるが、別に規制されている表現ではない。それにジャンプスケアの醍醐味は「雰囲気作り」にあるのだ。大きな音を立てるだけでなく、その大きな音を効果的に使うために、そこに至るまでのレールを敷く。「怖いシーンがいつ来るのか分からない」という状況に観客を陥れ、60分常に観客を恐怖のどん底に叩き込む手腕はもっと評価されていいのではないだろうか。実際、私は大きい音が鳴るのだろうと勘付いていても、それ以外のシーンがずっと怖かった。いつどこから何が飛び出すか分からない恐怖がこの映画にはあり、そういう意味で「雰囲気作り」はかなり巧みなように思う。もちろんジャンプスケアの多用が嫌われるのも分かるが、ジャンプスケアに至るまでの雰囲気をしっかりと作れていること、観客をジャンプスケアで怖がらせることに成功している点で、この映画はかなりすごい。「どうせデカい音出すだけだろ」と序盤で学んでも、結局驚いてしまうのだ。

 

次に、この映画がそもそも「POV的な体験型映画」であることを多くの人は忘れているように思う。公式自ら「ホラー映画ではない!ホラーゲームだ!」と宣伝しており、体感型アトラクションホラーと銘打っている。もちろん情報を調べてから鑑賞する人がそこまでいないというのは知っているが、この映画がそもそもお化け屋敷的な作りになっていると分かっていた私には、ジャンプスケア云々はあまり気にならなかった。というか、そういうものを観たい人用に作られた映画なのだと思う。アトラクション的だと事前に言ってあるのに、音がデカいだけで捻りのない映画と不満を述べられると、需要と供給が一致しなかったのだろうなとしか思えない。ラーメン二郎の店に入った人が「こんなに脂の多いものが食えるか!」と怒鳴っているような違和感がある。要は「こういう映画」だと宣伝されているのだし、自身に合う合わないはともかく、そこを批判の的にするのはお門違いな気がするという話である。ジャンプスケアが低俗な表現方法というのも個人の主観でしかないわけで。

 

そういう意味で、少し不当な扱いを受けているなと思った今作。私はこういった没入系のホラーが本当に苦手で、ホラーゲームもヘッドホンをしながらだと叫び続けてしまう人間なので、恐ろしくて堪らなかった。過去イチ怖かったかもしれない。それはジャンプスケアの程度によるものなのだけれど、ジャンプスケアだと分かっているのに恐ろしいという空間を作り出していることが凄い。映画館で観ていたら一体何度声を上げることになったのか。時期が合わず自宅での鑑賞に回して本当によかった。ただ、オチはあまり嬉しくないというか、体験型かつ一人称視点の没入型映画であることを考えると、異世界から戻ってきた主人公が実は別人になっているというあのエンドは、その没入感を一気に引き剥がすことになっちゃわないかなと考えてしまった。もちろん、鏡から彼女がフェードアウトしてうっすらと写った本物の主人公が「出して!」と叫び続ける描写は一人称視点と矛盾しないのだが。それでも、『きさらぎ駅』にも似たこの終わり方は不要だったかもなあと思ってしまう。そもそも60分という映画で異世界から抜け出すルールが明確になってもいなかったために、取ってつけたように見えてしまった。嫌いな終わり方ではないけれど、映画として収まりが悪い感じ。

 

とはいえ、全体的には好きな映画だった。ジャンプスケアと雰囲気作り以外の怖さがなく、永江監督らしい外連味が味わえなかったのは残念だが、60分でここまで恐ろしい映画を撮れるのは見事である。監督の新作にも期待したい。

 

 

 

FPS

FPS

  • 道本成美
Amazon

 

 

映画『レジェンド/光と闇の伝説』ネタバレ感想

レジェンド/光と闇の伝説(ディレクターズ・カット) [Blu-ray]

 

『エイリアン』を観た流れでリドリー・スコット作品を追っていくことに。フィルモグラフィーのうち未見かつサブスクで観られる中で最も古いものをということで、この『レジェンド 光と闇の伝説』をチョイスした。何も語ってないに等しい凡庸なタイトルから中身を想像することは難しかったが、観てみるとかなり正統派なファンタジー映画。主演のトム・クルーズがあまりに美しい。眉目秀麗とは正にこのこと。今やハリウッドの大スターであり、死と隣り合わせの危険なアクションを自らこなす超人っぷりで知られた彼だが、キャリアの初期にうっとりしてしまうような美少年を演じていたとは。揺れる長髪とキリッとした瞳は勇者の名に相応しく、圧倒的な主人公感を醸し出している。

 

そしてこの映画の最大の特徴が、どこを切り取っても絵画のように印象的なSFX。VFXなど発達していない1985年。特殊効果や特殊メイクだけでここまでファンタジー映画を成立させられるとは。角をつけただけの白馬をユニコーンと言い切る大胆さにも驚かされるが、魔王や小鬼の造形、そして異世界を見事に表現したセットにも目が釘付けになる。正直、ストーリーはそこまで面白くなく、魔王を倒し姫を助け世界を救う王道ファンタジーだが、ドキドキハラハラするようなシーンも少ないままにエンディングを迎えてしまう。しかしリドリー・スコットが『エイリアン』や『ブレードランナー』とはまるで違う新たな世界を映画の中に作り上げており、現代のVFXたっぷり映画に慣れた私の目には新鮮に映った。

 

美しい森、氷で閉ざされた土地、火の粉が飛び交う魔王の本拠地。場面転換毎に切り替わるセットが鮮やかで、舞台が変わるだけで不思議とワクワクしてしまう。リリーが悪魔の女王のような存在に取り憑かれるシーンは特にすごい。リリーが首飾りに魅入られていると、背後からいきなり女王が踊りながら登場する。バックには煌々と燃え上がる火。恐怖を感じるリリーの表情を映しながら、女王はリリーと一つになろうとする。いつの間にかリリーは踊る女王の手を取り、ダンスの相手に。白い服を着たリリーと陰になって顔の見えない女王のコントラストにうっとりしてしまうが、次の瞬間、2人は突然1人になる。芸術性を感じるリドリー・スコットの巧みな演出。掛かっている音楽の怪しげな魅力も素晴らしい。映画において脚本やストーリーは確かに重要だが、映画は決してそれだけに頼らないということを示してくれる。

 

主人公のジャックの仲間のエルフの登場シーンの演技も良かった。これもおそらく子役なのだが、セリフも彼が喋っているのだろうか。声優のアフレコに聞こえなくもないが、見た目とはまるで違うしっかりした声色で、表現力に驚かされる。そして魔王と小鬼の特殊メイク。魔王は『ドラゴンボール』のダーブラを彷彿とさせるが、黒々とした雄々しい角がとにかく印象的。最終決戦で角を壁に刺しジャックを追い詰めるのもなかなか良かった。調べると、この作品はアカデミー賞メイクアップ賞にノミネートされているらしい。アーティストの名前はロブ・ボッティン。後に『ロボコップ』なども手がける凄い人のようなのだが、名前は初めて聞いた。だがアカデミー賞ノミネートも納得の特殊メイク。正直、この怪物達の造形や表現力があるとないとでは、映画の評価もだいぶ変わってくるだろう。映画自体は子供向けと言ってもいいくらいに王道で癖のないファンタジーなのだが、特殊メイクの出来栄えは子ども達に畏怖を抱かせるようなおどろおどろしさに満ちている。本当なら主役さえも喰ってしまいそうなほどのインパクトを有しているにも関わらず、トム・クルーズの美少年っぷりでどうにかジャックは主役の座から滑り落ちないで済んでいるというわけだ。この特殊メイク陣にも負けず劣らずのトム・クルーズ。逆説的に彼の神がかった容姿にも注目がいく。

 

なお、映画の小ネタや事情に関しては尾崎一男さんのこちらの記事が詳しい。

ジャンルを先行しすぎた不運のファンタジー『レジェンド/光と闇の伝説』|洋画専門チャンネル ザ・シネマ

 

今作が間接的に『トップガン』にも繋がっていることが書かれており、非常に興味深かった。

 

総じて言うと確かに物語としての起伏はかなり貧しいのだが、映像美で充分にお釣りが来る映画だったと思う。アナログ特撮が大好きな人には堪らないのではないだろうか。なお、Blu-ray版にはサブスクにはないディレクターズ・カット版が収録されている。