【週報】2024/4/8~2024/4/21 キョウリュウとコロナとギアス

2週間ぶりの週報です。前回突発的に始めたくせにもう週一ペースすら守れていない。しかしこれには理由がある。言い訳をさせてもらいたい。コロナになりました。

 

正確にはコロナと診断されたわけじゃないのだけれど、状況や病状から判断してどう考えてもコロナだろうなと。濃厚接触者(という言い方ももう今の分類だと存在しないみたいです)になったことが判明した翌日には頭痛、発熱、激しい喉の痛み。普段熱が出てもせいぜい37度台なのに今回は39度までいった。その熱の高さゆえに、勝手ですがコロナに罹ったとしています。喉の痛みも酷く、口を開けなくてもずっとゴロゴロ違和感が。そんな状況だったにも関わらず、職場ではコロナはもう風邪と同じ扱いになっていたため、特別休暇などは一切なし。転職したばかりで有給の使えない自分はどれだけ熱が出ようと出勤せざるを得なかった。動かなければまあまあまあという具合だったのだけれど通勤がかなりキツかった。肉体的にも、あとこんな病状なのに電車乗っていいのかなという精神的にも。ただ代わりが見つからない限りは容易に休めないシフト制の現場なので、当日いきなり休みますということがなかなかできない。大した仕事量ではないけれど本当に連日頑張ったなと…。普段だったら速攻で休んでますね。

 

その上、4/21に応用情報の試験が控えていまして。半年に1度しかチャンスのない試験なのでこれを流せば次の機会は10月。もう勉強したくないし何としてもここで受かっておきたい…のに具合が悪い…治ってもなんか映画とか観るのは勉強から逃げてるみたいで罪悪感が…でも勉強したくない…という負のループに陥り、本当にただダラダラと過ごすだけの日々が続いていた。自分でもびっくりするくらい、昼まで寝て適当に外でご飯を買って食べ、また寝るという生産性ゼロの日々。自分ってこんなに堕落できるんだ…という発見があったのがせめてもの収穫でした。でも学生の時、テスト前とかもこんな感じだった気がする。勉強はしたくないけど他のことをするのも気が引けてしまって、結局ただただ時間が消えていく、という。大人になってまたこんな経験をすることになるとは。仕事の都合でこれからもまだまだ資格試験を受けることになりそうなので、次はせめて体調だけは整えたい。

 

何もしてね〜みたいに言いましたが、『獣電戦隊キョウリュウジャー』は見事観終わりました。いつも暇な時間をずっと視聴に費やして、途中ほぼ惰性で観てしまうために内容をまるで覚えていないというアホな結果になるのですが、1日4話という制限を設けてこれを見事に解決。4話くらいならじっくり楽しめますね。30分ものはこれからもなるべくこのペースでいくことにしようと思う。そして『キョウリュウジャー』、本当に面白かった。と同時に、この突き抜けた明るさは中学生の頃の擦れた自分には確かに合わなかったなあと実感。当時観たかったのは考えさせられるようなシリアスな作品だったし、今でもやっぱりそういう作品を求めてしまうのだけれど、『キョウリュウジャー』はどちらかというと勢いを重視していくような作品なので、肌に合わない人にはとことん合わないなあと。でもようやく楽しめるフェーズに来ました。ただ度々言われているように、レッド一強の意味合いが強い作品だなあとは相変わらず思っています。そもそも強化形態がレッドしかないのも当時の流れからすると驚きだったし。もちろんキングに負けないくらいの個性を全員が持っているのだけれど、それでもやっぱりキングを中心にした戦隊だなあという印象は拭えない。でも次々とキョウリュウジャーが出てきて最終的に10人になって終盤では力を受け継いだ面々までキョウリュウチェンジしちゃうノリはもう圧巻。この勢いはそう簡単に出せるものじゃない。『キングオージャー』の最終決戦でも同じことをやっていたけれど、やっぱり持つ熱量は段違いだった。あんまり言うと『キングオージャー』への攻撃みたくなっちゃうのでやめるが、そのキョウリュウチェンジにちゃんと感動が乗っかるのは嬉しかったですね。それと劇場版の『ガブリンチョ・オブ・ミュージック』とVシネの『100 YEARS AFTER』がめちゃくちゃ面白かった。特に劇場版に関してはきっと自分が幼稚園生くらいでこれを観ていたらきっと一生忘れられない作品になっただろうなあというくらい。アクションもミュージカルも敵の設定もトバスピノも最高だった。シナリオ的にも、この映画でメインとして扱われた「音楽」がキョウリュウジャーの大筋に繋がっていっていて、かなり分岐点的な劇場版だなあという印象を持った。最初の音楽要素は曲に合わせて踊りながら変身するくらいだったのに、地球のメロディにまで発展するとは。

 

そして『キョウリュウジャー』が終わったので続いては『コードギアス』を。新作の予習で久々に鑑賞しているが、これもまあ面白い。前に観たのは『復活のルルーシュ』公開前で、ロボットアニメを今でもほとんど知らないのでとにかく作品の持つ勢いというか推進力に圧倒されつつ一気に観たおかげで全然内容を覚えていなかったのだけれど、細かく観るとルルーシュ中二病っぷりと細かいことを気にせず未来へ突き進んでいくある種傲慢ですらある決断力にゲラゲラ笑ってしまった。『コードギアス』の魅力は細かいことを考えずとも楽しめるのに、細部にまでしっかり魂が宿った作品であるということだと思う。2周目の今回はじっくり観ていきたい。

 

他にもいろいろあった気がするのだけれど、何せもう日数が経過してしまっているので細かいところまで思い出せない。来週からはちゃんと書こうと思う、自分のためにも…。

【週報】2024/4/1~2024/4/7 オーメンとキョウリュウとヒロアカ

このブログでは主に映画やドラマの感想をまとめているのだけれど、それだけじゃあどうも面白くないよなあと思い、1週間毎に簡単な日記でも書こうかなと筆を執った。結構はてなブログ等を巡回していると同じことをやっていることが多くて、自分もやってみたいなあと興味を持ったというのもある。会ったこともない人のなんてことない一週間の記録が結構面白かったりするのだ。自分の一週間が面白くなるか、なったとしてそれを文章で面白く書けるのかというのは分からないけれども。ただ自分だけが見るための日記だと、筆不精の自分では続かない。ということでこのブログを活用することにした。

 

前々からこういうのはやってみたかったのだけれど、今年は4月1日が月曜日ということでかなりタイミングがいいじゃないかと見計らっていたのである。しかしまあ、結局4月9日に書いているのでダメだなあと思う。こういうのは少しずつ書いていくのがいいだろうに。とはいえここを逃したらもう始める気を失ってしまう可能性があるので、1日遅れながら書くことにした。

 

先週は何があっただろう…と思い返すと、やっぱり「新年度」だった。

1月から今の職場に配属された自分に、この春ようやく後輩ができたのである。最初2日間の教育係を任された時はあまりの荷の重さにくじけそうになり、3月終盤はそのことで頭がいっぱいだったが、非常に善良な好青年で心配は杞憂に終わった。たくさん話してくれるわけではないけれど、こちらが話したことや教えたことはちゃんと聞いてくれる丁度よさ。後輩を持つと、自分の「教育される側」としてのスタンスが正しかったのか答え合わせをしているような気分になる。こういう受け答えはできていたかなとか、ちゃんと分からないことを確認していたかな、とか。同時に、自分の中でまだ形になっていなかった仕事の流れも、他人に言語化することによって鮮明になってきたように思う。思うだけかもしれないけれど。

 

正直今の職場は成長性がなく今すぐにでも離れたいと前々から考えていたのだけれど、気軽に話せる後輩という存在のおかげで、少し職場を好きになれた気もする。配置変えもあって同じシフトで働く人も変わったのだが、以前ペアを組んでいた方よりずっと良いような気がした。井の中の蛙大海を知らずと言うが、シフトが変わっただけでこうも見える世界が変わるものか…と驚いた春だった。

 

映画は『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前編』と『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』を観た。ゴーバスについては感想を記事にもまとめたのだけれど、かなりガッカリしたというのが本音である。お祭ムービー的なノリのはずなのにアクションがショボくてショボくて…。前作『アフターライフ』が傑作だっただけに落差を感じてしまった。

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

 

対する『デデデ』(こう略すのが正しいのかは分からないけれど)、3月中に漫画を大人買いして一気に読んだらまあこれが面白くて面白くて。浅野いにおという作家を読まずしてちょっと敬遠していたわけだけれど、こんなことならもっと早く読んでおけばよかったと後悔。セカイ系のジャンルだしオタク的な言葉遣いが飛び交うタイプの作品だから好みは分かれそうだけど、このサブカルに肩まで浸かったような作風の中で、二人の少女の互いを「絶対的」に想い合う絆が美しく煌めく姿が本当に素晴らしかった。映画は原作者も関わっているらしいのだけれど、原作では後半に明かされた謎が既に前編で開示されて驚き。そこを変えるのかあという大胆さが良かった。自分の都合ではあるけれど、少し前に漫画を読んだばっかりの作品の映像化なんて正直漫画そのまんまだったら全然楽しめないので…。時系列に工夫を凝らしたり、オリジナル展開があったりしたほうが好きだったりする。そういう意味で後編が非常に楽しみ。きっとアクションも盛りだくさんになるだろうし。

 

自宅では「オーメン」シリーズをひたすら観ていた。新作というか前日譚がいよいよ公開になるので。1日に公開なのだけれど、9日現在、まだ観られていないし観る目途も立っていない。せっかく5作品も予習したのでちゃんと観たいんですけどね…。一応簡単に各作品の感想を述べておくと、1作目の『オーメン』はすごく面白かった。確か大学時代にも一度観ているのだけれど、あの時はガラス板で首がスパーンと飛ぶ死に方が衝撃的で、その印象だけが強烈に焼き付いていたのである。改めて観ると死に方博覧会みたいな映画で、とにかく人の死に方が印象的。悪魔の子ダミアンに関わると命を落とすという恐怖と、育ててきた子どもを殺さなければならなくなった男の葛藤。ドラマ性も強く、ホラー映画の金字塔となっているのも納得の出来でした。

 

続く2作目でダミアンは思春期に突入。共に育った幼馴染のような存在の少年との友情が描かれ、同時に「自分が悪魔の子であると知る」という一大イベントが待っている。1作目とはかなり趣が違うのだけれど、「何となく」でダミアンを嫌う身内のババアと養父母がいがみ合う構図が好きだった。ただ1作目のあまりのクオリティにちょっと押し黙ってしまうみたいなところはる。その次の3作目『最後の闘争』ではダミアンは大人になっており、大企業の社長に。ダミアンを殺せるメギドの短剣を持った7人の神父がダミアンを殺そうと躍起になるのだけれど、まあこれが本当にあっさりとやられていく。ダミアンもダミアンで自分を倒せる存在が生まれたことを知り、3月24日に生まれた乳児を次々に殺していくという怯えっぷり。ただ2作目までとは違い、信者がかなりの数いる様子。自分がこの3作目にして思ってしまったのは、「結局ダミアンって何がしたいの?」ということ。悪魔の子という触れ込みでスタートした1作目と、まだ思春期で社会に溶け込む途中だった2作目では、恐怖の根源は彼の「可能性」に内包されていた。要するに「この子は将来世界を滅ぼす」という恐怖である。関わる人物が次々と命を落とすことでその恐怖はリアリティを増していくのだけれど、3作目のダミアンはもう大人になってしまっている。不思議な力で敵を殺す…などではなくて、結構人力で殺人を犯していくのだ。信者に頼むだけ。こ、これが悪魔の子…となってしまう。ただの悪いおじさんではないだろうか。主人公のダミアンの葛藤や恐怖もしっかりと描かれかなり人間臭くなってしまっているため、正直どの辺がオカルト映画なのか分からない。これならいっそ超能力持ちで見ただけで人の命を奪えるとかそれくらいのほうが清々しい。7人の神父達も呆気なく倒されてしまい、緊迫感も薄い。と思いきや一人の女性が後ろからサラッと刺しただけでダミアンは命を落としてしまう。ホラー映画の続きってこういう風になりがちではあるけれど、1作目のクオリティが高いだけに非常に残念だった。

 

4作目はちょっと趣向が変わっている。ダミアンの死後新たに生まれた悪魔の子、今度は女の子の物語なのだ。しかしやっていることは1作目とほぼ同じ。何ならポケモンの赤と緑くらいの違いしかないという程度に同じなのである。オーメンモンスター ダミアン/ディーリアみたいな。もっと言うと、ディーリア版は殺人描写がややマイルドになっているかもしれない。後フィルムの質感が明るくなったので、雰囲気もそこまで暗くない。ただ話は一本調子なので見やすくはあるかなあ、と。そして最後はリメイクの『オーメン666』。これだけは今Amazon Primeで配信されているのだけれど、これがまんま1作目と同じ。本当に展開もほぼ変わっていないし画面の構図さえ全く同じの箇所がある。世代が一巡したということでもあるのだろうけど、こんなにも同じリメイクがこの世にあるんだ…と驚いてしまった。同じすぎて特に感想はない。強いて言えば吹き替え版の主人公の声優が東地宏樹さんだったので、海外ドラマ『スーパーナチュラル』のディーンを思い出しながら観ていた。オカルト用語が飛び交うので余計に意識してしまいました。

 

後は『獣電戦隊キョウリュウジャー』の視聴を始めました。もう通算3回目か4回目になる気がする。正直これまでは自分の好きなノリではないなあという気持ちが強くて、でも続編等の度に全話視聴していたのだけれど、今回はマジで面白いです。自分のキョウリュウジャーという作品に対しての向き合い方がまるで変わっている様子。三条脚本の小物使いの上手さに舌を巻きながら、序盤でも縦軸の物語がぐんぐん進むスピード感にひれ伏しています。キャラクターの分かりやすさも凄いし、恐竜と電池を掛け合わせた諸々のデザインにも惚れ惚れしてしまう。プレバンで予約受付中のガブリボルバーほかを買おうか真剣に検討しているくらい。

キングだけが優遇されている作品というイメージがすごく強かったし、それは今も結構感じるのだけれど、それでも竜星涼のキングにはやっぱりついていきたくなる気持ち良さがある。というかこの竜星涼の魅力に気付くまでに10年かかってしまった。リアルタイムでは分からなくても数年越しに観ると全然見え方が変わってきたりするので、やっぱりその時々で感想をしっかりまとめておくのは大切なことだよなあと改めて。これを書いている時点では13話まで観ました。もう追加戦士のゴールドが仲間入りを果たしているスピード感。本当に飽きさせないというか、こっちの脳みそにドバドバ情報叩き込んでくるのが快感でしょうがない。

 

最後に、『僕のヒーローアカデミア』の漫画を読み始めました。これももう何周かしているのだけれど、序盤が無料だったので改めて。95話まで。最初読んだ時はこれもノリがキツくて結構距離を取っていたのだけれど、いつの間にか涙ぐむくらいに自分の心を揺さぶる作品になっていた。学生時代全然友達がいなかった人間なので、A組が一丸となるノリが結構ついていけなかっただけなんですよね。でも大人になってそういうものと離れていくにつれて、徐々にその眩しさに胸を打たれるようになったというか。今でもギャグがちょっと子どもっぽいなとかは思うのだけれど、感動するシーンでは自然と涙を流しているくらい好きです。とはいえ定期購読中のジャンプを1年溜めているので全然展開にはついていけてないのだけれど…。夏に公開される映画ではオールマイトの「次は君だ」を自分のことだと受け取った男がダークマイトとして暴れ回るらしく、これが非常に楽しみ。ヒロアカは間違ったヒーローという部分にどんどん切り込んでいく作品なので、その集大成が観られると嬉しい。

 

とまあ最初の週報はこんな感じで。出不精なので結局観た映画の話ばかりになってしまうのが悲しい。多分来週も同じ話題が続きます。

映画『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』感想

 

最初に思ったのは、「みんな大人になってる!」だった。特にフィービー役のマッケナ・グレイス、ポッドキャスト役のローガン・キム。前作『アフターライフ』の頃はまだ子どもだったのに…。時の流れを感じさせてくる圧倒的成長。自分は特にこのシリーズに思い入れもないのだけれど、『アフターライフ』のジュブナイル感が凄く好きで当時劇場で観てかなり興奮した記憶がある。ストレンジャーシングス感というかIT感というか、少し前に流行したジュブナイルホラーの系譜としてとても面白かった。フィン・ウルフハードが出てるからそう思うだけだろと言われても全く反論はできない。『アフターライフ』の良かったところはオタクでクラスからも浮いていたフィービー含め、とにかく周囲に馴染めずにいたスペングラー家が一つとなってゴーストと戦うという構図。本当にこれに尽きる。多分自分が小学生でこの映画を劇場に観に行っていたら、一生忘れない体験になっていただろうなあという感触があった。今でこそこういう子ども向けの幽霊映画はあまり見なくなったが、その枠としてすごく真摯だし、シリーズの新作としても誠実な作品だなあと今でも思う。

 

その制作陣がほぼ続投ということで、過去作をちゃんと全部予習するくらいには期待していた。そんな中で2016年版の『ゴーストバスターズ』が結構今の自分の好みにドンピシャだったなあという発見もあったりした。あのバカなノリが愛しすぎる。話を『フローズン・サマー』に戻すと、ちょっと期待外れだったかなという印象。話自体はコンパクトにまとまっているし、複雑なことを考えなくていい、理解しやすい映画でその点は良かった。けれど同時にすごく取っ散らかってるというか、結局何が言いたいの?と小一時間問い詰めたくなってしまって、あまり面白くはなかった。

 

冒頭、スペングラー家が一家総出でゴースト退治に勤しんでいて深く感動する。彼等が市民権を得てこうして活動しているのだという事実に、『アフターライフ』に心を打たれた人間としてはかなり舞い上がってしまった。ドローン型の捕獲器にもテンションが上がり、前とは違い進化したゴーストバスターズ…ではあるのだけれど、やはりやっていることは街の破壊。過去の作品にも前作にもあった、滅茶苦茶やって街を破壊してしまうという描写だった。それはお約束なのかもしれないけれど、それでもやはり何度も観ると気が滅入ってしまう。またこれをやるのか、と。しかもそれが冒頭に一か所あるだけではなく、フィービーの行動がとにかく裏目に出続けてしまうという映画なのだ。まだ子どもであることを理由に、バスターズの仕事から降ろされてしまうフィービー。もちろん共感はできるのだけれど、いや彼女が周りから浮いてしまうっていう話はもう前作で観たじゃん…という。成長した彼女の姿が見られて嬉しいはずなのに、話は前回のテーマを繰り返すようにフィービーを不遇に扱う。このギャップが結構受け入れきれず、う~んとなってしまった。

 

孤独で押しつぶされそうになるフィービーが出会うのが、幽霊の少女。一緒にチェスをして仲良くなり、何かとこの幽霊がフィービーに接してくるのだが、その目的はフィービーを利用してガラッカを復活させることだった。復活させれば家族に会わせてもらえるという約束だったのである。家族と折り合いが悪くなった先で出会う幽霊の少女という王道さ。徐々に心を開いていくフィービーがとにかく愛くるしいが、このやり取りが映画において重要であるはずなのに、かなり表面的なのも気になってしまった。もっとこう、お互いのセリフの中から気付きを得るとか、二人の唯一無二感を出していくとか…。結果的に幽霊はフィービーを利用してガラッカを復活させてしまうのだけれど、それに対しての「ごめんなさい」がちゃんと感動を生むような構成にはなってなかったように思った。もっと「やりたくなかったの…感」を出してほしかったなあ、と。

 

また、この映画では子ども扱いされることに悩むフィービーの他にも、必死に父親になろうとするゲイリーと、いつまでも大人になりきれないレイモンドのストーリーも展開される。キャリーと恋仲になりゴーストバスターズとしても活動するが、まだ家族ではないゲイリーが、思春期のフィービーと向き合う物語。そしていつまでもオカルトに傾倒し続けるレイモンドの葛藤。しかしそれらはてんでバラバラであり、映画としてまるでまとまっていない。個々の物語として確かに過去作からの流れで彼等はそこに悩むべきなのだろうけれど、それが映画としてまるで成立していないのだ。レイモンドの葛藤は最終決戦でサラッと解決してしまうし、ゲイリーの悩みもラストにフィービーにパパと呼ばれただけで終わってしまう。そして何より時間を掛けてきた子ども扱いされるフィービーのモヤモヤですら、ちゃんとしたところに着地しない。

 

やることなすこと全てがここまで裏目に出てしまえば、最終決戦でフィービーが大活躍を果たし人望を取り戻すのが順当だと思うのだが、一切そんなことはなかった。彼女はまたも勝手に行動(特に誰に話すわけでもなく真鍮の武器を作る)し、それが結果として勝利の鍵にはなったものの、周りがそれを称賛するシーンはなかった。仮に称賛していたとしても、彼女の軽率な行動によってガラッカが復活してしまったことは紛れもない事実であって、そこに対する反省が一切されなかったのはあまりにも怖い。「私がやってしまったのだから私が倒さなくちゃ!」という焦燥に駆られるようなことさえなかった。何なら幽霊に裏切られたことへの悲しみさえ描写されない。もちろん急いでガラッカを倒さなければという流れになるのは分かるのだけれど、それでも映画としてはやはりフィービーの心のケアをしてあげなくてはならないと思う。ましてそれをメインテーマとしてずっと掲げていたなら尚更である。

 

結局ガラッカを倒した喜びで、かろうじて積み重ねてきた描写さえ全て台無しになったように見えてしまった。あと、ファイヤーマスターが全然要らない。世界を凍らせる敵に対して炎を操る戦士が対抗するというのは少年漫画的ですごく燃える展開だけれど、あのキャラクター自体がそもそも全然いらなかった。他のキャラと交流を深めるでもないし、特別な魅力があるわけでもない。正直彼がいなくても物語は全然成立したように思う。旧ゴーストバスターズが揃うのも、もはやお約束になってしまったのであまり感慨深くはない。というか、まだ彼等に頼らないといけないのか…と残念に思ってしまった。サポートや補佐として動くならともかく、ラストバトルにも関わってくるし、レイモンドに関してはちゃんと悩みまで抱えているという…。もちろん彼等のことが嫌いなはずはないのだけれど、新しいキャラクターにもっと時間を割いてもいいのではないかなあ、と。

 

極めつけはラストバトルのしょぼさ。ガラッカによって世界が氷漬けに…!という恐ろしい規模の脅威を描いているのに、それがいつもの拠点で解決してしまうのは一体どうしたのだろうか。予算がなかったのかと邪推してしまう。復活すぐのビーチ氷漬けのほうが全然映像として迫力があった。確かにいつもの拠点のゴースト達を解放するというガラッカの目的上ラストバトルの場として相応しくはあるのだが、それでも狭い倉庫でビーム撃ってるだけなのはちょっとなあ…。何なら「夏」ということも全然強調できていなかったので、氷漬けの異常感もあまり出せていない。まあこれは原題は「FROZEN EMPIRE」なのでいいのだけれど…。ただやっぱり氷の幽霊を出すのであれば、もっとそれを文学的に表現したり、テーマと絡めてほしかったなあと思う。恐怖で動けなかったキャラクターが勇気を振り絞って敵に立ち向かうとか、その程度でもいい。世界が凍るというのが本当にただの脅威でしかなくて、文脈がまるで乗っていなかったのが気になってしまった。一応幽霊が持っていたマッチが役立つという描写はあるが、あまりにしょぼい。

 

そして初代ぶりに厄介者のペックが市長になって出てくる。初代と同様にゴーストバスターズを忌み嫌い徹底的に潰そうとするのだが、これもなんだかなあ…と。別に脅威として描かれているわけでもないし、彼がバスターズを壊滅に追い込んだことが全然物語の中で機能していない。何なら取り上げられた武器もすぐ取り戻せてしまう。本当にゲスト以上の意味合いがなく、そういう辺りの雑さも色々と気になってしまった。映画としてかなりツギハギだし、個々の描写も全然テンションを上げてくれない。せっかく『アフターライフ』で新たな道を切り拓いたはずなのに、どうしてこうも雑なスペクタクルムービーになってしまったのだろう。トレヴァーに関してはほとんど触れられていなかったし、キャラクターのその後を描いた作品としてもかなり不誠実に思えてしまった。決定的なのはラストに流れるゴーストバスターズのテーマソングが全然似合わない作品になっていたこと。あの陽気さも、前作にあったジュブナイル感も薄れてしまい、何だか抜け殻のような作品だった。かなり残念。それでもマッケナ・グレイスの魅力はめちゃくちゃ出てるので、スクリーンで彼女の演技を堪能できたのは良かった。

 

 

 

 

映画『変な家』感想

映画『変な家』の公開に際して最も期待していたのは、この映画の予告編をもう劇場で観なくてもよくなる、という点だった。予告編ラストの「マジモンじゃねえかこれ!!」というセリフを劇場で聞くのがすごく恥ずかしかったのだ。「マジモン」なんて変な言葉を予告編ラストという大切な位置に配置してしまえる感性を持った人達の作品なんだなあという苦しさもある。そして何より、書籍版を読んだ私からすれば、本にないこの言葉がキラーフレーズのように耳に入ってきてしまうのが本当に辛かった。そんな辛い日々にピリオドを打ってくれた公開。公開日翌日の土曜日昼の回はほぼ満席。子どもから大人まで幅広い層で劇場が埋まっており、Jホラーの訴求力を強く感じることができた。

 

しかしこの作品の底力は、既存のホラーとは違う角度の魅力を持っていることだろう。変な間取りの家の謎を追うという発想はとても斬新で、実際にあった話としてネットに記事が出た時も大きな話題となった。

 

【不動産ミステリー】変な家 | オモコロ

 

実際私もこの記事に一気に引き込まれてしまったのである。築1年の中古物件に存在する、壁で覆われた謎の部屋。その部屋は一体何に使われていたのか。推測の域を出なかった話が、記事に書かれた以降の出来事によってどんどん現実味を帯びていく。ライターはYouTuberなどとしても活躍する雨穴さん。ホラー系の動画を漁っていれば自然とたどり着くくらいには有名になった方である。

 

書籍版は間取りの推理から話を展開するためかなり独特な読み心地となっているが、映画では登場人物達が実際に現場各地に足を運ぶという脚色があり、物語性が強められている。メディアミックスというのは往々にして媒体の強みを活かすべきなので、その試み自体は否定しない。しないが、肝心の物語があまりに拙い。どうしてこれを足したのかという点がよく分からず、結局のところ物語で言えば恐怖度はまるで増していない。しかし、視覚的な恐ろしさはしっかりと担保されている。そう、原作には登場しない「仮面」の力である。この映画は怖いかと聞かれるとそうでもないのだが、仮面のインパクトが強いのでビジュアルで恐怖を感じやすい人には辛いかもしれない。

 

結論から言うと、『変な家』の演出や雰囲気作りにはかなり感心させられた。監督は石川淳一さん。ドラマでは『リーガル・ハイ』、映画では『エイプリルフールズ』や『ミックス。』など、古沢良太脚本の作品を多く手掛けている。そのためホラーの方というイメージもあまりなかったのだけれど、小慣れているかのようにささっと演出する手腕が素晴らしい。恐怖や緊迫感を煽る描写も充分である。そして極め付けはあの仮面。あの仮面のビジュアル的な恐ろしさだけでもうこの映画は100点と言えるだろう。序盤、雨宮(間宮祥太朗)が自宅で襲われるシーン。そして「変な家」にて撮影された小学生くらいの子どもの写真。そして最後の仮面軍団。至る所で用いられたこの仮面は、能面のような不気味さだけでなく、絶妙な微笑みによって更に恐怖を醸し出していく。柚希(川栄李奈)の母親の家に仮面がサラッと飾られているシーンも凄かった。大きな音で驚かせるジャンプスケアとも違い、とにかくビジュアルの一点突破で向かってくるこの作品の姿勢はかなり攻めていると思う。だからこそその仮面自体にあまり意味が付与されていないこと、片淵家の側であることを示すだけの記号的な要素にしかなっていなかったのは非常に残念。

 

そしてここからはネタバレにもなるが、脚本、主に物語の面でかなり観ていて辛い部分があることにも触れておきたい。脚本を担当したのは丑尾健太郎さん。エンドロールでこの名前を見て真っ先に「アンタだったのか!」と思った。つい先日映画が公開されたりドラマ版の完結編が配信されたりと話題の『君と世界が終わる日に』。竹内涼真主演の国産ゾンビドラマなのだが、丑尾さんはこの作品の脚本も担当しているのである。しかしこのドラマは物語が全く面白くないというのが私の評価である。特に後半以降は綺麗事を言うだけのキャラクターが次々に登場し、「国産ゾンビドラマ」という一点以外では全く褒めることができないくらいに酷い。もちろん日本でこんなに簡単に人が命を落としていく残酷なドラマが観られるというのは凄いことだし、そういう他のドラマとは異なる部分がSeason5まで続いた要因なのかなとは思うのだけれど、本当に観るのが苦痛で仕方ないドラマだった。

 

そんな丑尾さんの名前をエンドロールで発見し、正直とても嬉しくなってしまったのである。この人の脚本だったらこれくらいだよな…と。まず『変な家』の重要な部分は映画化するに際して、記事から物語へと変貌を遂げている点。しかし物語としてのスタートとゴールが全くあやふやなのである。変な間取りの家を追う記事に無理矢理キャラクターを登場させたようなチグハグさになってしまっているのだ。冒頭、家族観について柳岡に問われた雨宮は家族や恋人というものに興味がなさそうな素振りを見せる。ああそこから人との絆を大切にしていく物語が展開されるのかなと思いきや、驚いたことにサラッと柳岡が自分の気になる物件の話を続けるのである。いやここは嘘でも柚希とのメロドラマになると予感させてほしかった。そういう邦画が嫌われるのも分かるが、せっかく映画オリジナルの造形として生み出した人間ドラマの部分がまるで機能していないことが不可解だった。

 

そしてラスト、雨宮が手首を切られそうになる絶体絶命のピンチで搾り出した言葉は「俺は祈らねえ!」。もちろん会話の文脈上は正しいのだけれど、その「祈らねえ」に至る思いが映画の中で全く描写されていない。単に残酷で恐ろしい因習を否定するだけの巻き込まれた男であり、彼自身の物語は映画の中に一切存在していないのだ。そのせいで片淵家に襲われるラストにも緊迫感がまるで生まれない。もっと雨宮なりの正義感とか価値観を打ち出す作品にしてほしかった。というよりも、そこの比重が高すぎて残念な結果に終わるホラー映画(恐怖よりも結局ドラマ性や恋愛要素を強調したがる)がやたら多い中で、そういう部分が逆に薄味な映画というのが目新しくて面食らってしまった。

 

ただ、映画では物語の結末や、因習の仕組みが大きく変わっている。本家や分家に関する話はやはり文字媒体でないと理解しづらい部分もあると思うので、そこを思い切って片淵家全体を因習に囚われた哀れな人々と描き切るのは割とよかったかもしれない。ただやはり、赤ちゃんと一緒に隠し部屋に身を潜めているのに全然泣いたりしないとか、あとラストで雨宮の家にも謎の部屋が存在していた…という陳腐なオチがあったりとかはすごくノイズになってしまっていた。薬漬けにするという設定も便利アイテムが唐突に出てきたようでよく分からなかったし、全体的に中学生くらいが喜びそうなアイデアが書籍版から追加されていて、確かに書籍版よりも映像的なインパクトを出したい意図は分かるのだが、それが上手く発動していないように思えてしまった。書籍版の体裁は実話モチーフということで過度に物語性を帯びていなかったのだが、映画では中途半端な物語性が付与されており、どうせやるならもっと盛ってほしかったなあというのが素直な思い。

 

変な間取りの家の謎からある恐ろしい因習にたどり着くダイナミックさがこの作品のウリで、書籍版にあったその面白さはしっかりと残っている。佐藤二郎の演技も抑えすぎず出しすぎずといったちょうどいい塩梅で、変人感がうまく醸し出されていた。ラストで雨宮にケチ扱いされていたのは、そういう描写がなかったのでよく分からなかったが。とはいえ動員数からすると大ヒットしそうではあるし、演出にくどさがなかったことは好感が持てる。こういうヒットが思わぬ特大Jホラーの誕生に繋がったりすることもあるので、出来は置いておいても、まずは動員を伸ばしてほしいなあと思っている。

 

最後にアイナ・ジ・エンドの主題歌『Frail』がかなり良かった。秘密と歪で韻を踏む辺りが最高。

 

書籍版は2作目も出ており、そのほか雨穴さんが監修を務めたテレビドラマ『何かおかしい』も似たテイストでかなり面白いので気になった方は是非。

 

 

 

 

 

 

 

 



Vシネクスト『仮面ライダーギーツ ジャマト・アウェイキング』感想 ヒーローになった吾妻道長について

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Vシネクスト『仮面ライダーギーツ ジャマト・アウェイキング』を観た。『ギーツ』本編はバトルロイヤルの連続によって構成される新鮮味に溢れた筋書きこそ好みだったし、「人々が自由に願いを叶えられる世界を創る」というライダー達のたどり着くゴールにも惹かれた。ただそもそもの舞台設定、「叶えられる願いの総量が決まっている」という土台に違和感を覚えてしまい、そこまで前のめりで鑑賞することができなかった記憶がある。ギーツ達の活躍によって世界が視聴者の生きている「今」とリンクした…的な構成ならもっと早くそう言ってくれればいいのになという思いも抱いていた。それでもデザイアグランプリを繰り返しメインのライダーでさえ脱落していく作劇は、視聴者を翻弄していく面白味に溢れていたと言える。前代未聞のストーリー展開であり、作り手の苦労も窺える作品であった。

 

そんな『ギーツ』のVシネ、素直に言うと本当に面白かった。本編が毎週放送される30分番組であるという自覚を持ち、開示する要素や進める展開のコントロールに苦心したであろうことを感じられる作品だったのに対し、劇場版がそうであったように、単発作品は非常にシンプルで力強い。「全ての人々が幸せになれるように」という単純明快なゴールが決まっているからこそ、愚直なまでに王道の物語が展開される気持ち良さ。本編がそれこそ狐のようにこちらを化かすことに特化した話運びだとするならば、劇場版とVシネは正に痛快娯楽作。思えば『仮面ライダーギーツ』はエゴのために戦い合う者たちが、自分達を利用する存在と向き合うことで、願いの呪縛から人々を救う存在へと変わっていく物語だった。だからこそ、そのゴールの先にあるVシネも、自然と王道ヒーロー作品になったのだろう。

 

劇場版で語られた、未来の人間は地球も肉体も捨てているという衝撃の事実。肉体さえ持たないまま宇宙の仮想空間に住むようになった地球人は娯楽に飢え、命に飢え、やがて人の生き死にが懸かったゲーム・デザイアグランプリに熱狂するようになる。命の概念が私達と大きく異なる未来人だからこそ、袮音が作られた人間だと知った時に激しく怒り、落胆したのだろう。これは一個人の生活や人生が「推し文化」として消費されていくことへの警鐘とも取れるが、「推し文化」をそのまま否定するのではなく、推したい存在を支える在り方を示唆する目線も持っているのが『ギーツ』の素敵なところだと思う。

話を戻すと、人類が形を変えてしまうことが前提条件としてサラッと明かされる辺りも、この作品の特異性だと言えるだろう。本来ヒーロー作品はヒーローがその未来を変えるべく動くのが定石であるが、『ギーツ』においてその部分は変えることのできない未来として位置付けられている。こんな冒険ができるのも仮面ライダーシリーズの受け皿の深さゆえである。

 

しかしその前提条件が、Vシネのあらすじとして膨らませられていく。地球を去った人類さえも滅ぼそうと襲い来るゴッドジャマト。その脅威を未然に防ぐために1000年後の浮世英寿が現代へと駆けつけるのだ。そう聞くと英寿がヒーローであるかのようだが、実際には現代の英寿や他のライダー達の前に敵となって立ち塞がる。『ガッチャード』の宝太郎は未来では声がDAIGOになり世界が滅亡しても諦めることなく、過去の自分を見て「さすが俺」と零してしまうような愛嬌に溢れたヒーローだったのに、未来の浮世英寿は大した説明もなく過去の仲間に牙を剥く。1000年と言う時間が彼の何かを変えてしまったのかもしれないが、そういうところに理屈を無理につけない辺りも「ギーツだなあ」と感じた。

 

思えば、このVシネのあらすじはかなり飛躍している。そもそもデザイアグランプリを軸にしていた本編からデザグラ要素を抜くとこんなにも別作品に見えるのかという発見があった。それは逆に言えば本編が時間を掛けて丁寧にデザイアグランプリという題材を描いてきたことの証左とも言えるだろう。根幹にデザグラやゲーム要素のない『ギーツ』に対して、こんなにも新鮮味を覚えるとは思わなかった。それと同時に、人類を追い込むことになるジャマトの脅威を描くというのはある意味セオリー通りであり、納得感もある。多くのライダーVシネのようなサブライダーのスピンオフという形ではなく、あくまで本編と地続きの物語として展開されている点も嬉しい。

 

まず驚いたのが、かなりホラーチックに始まる序盤。フィルムの質感もそうだが、古びた団地や謎の少年など、Jホラー的要素が散りばめられてホラー好きの私はかなり心を持って行かれた。パンフレットのインタビューによると脚本の高橋さんの提案らしいのだが、これが「人類が地球から去ることが決定づけられている」という悲劇的な方向に向かっていく物語とうまくリンクしている。そしてそこから展開されるストーリーは、驚くことに異種族間の愛を軸としていた。大智に育てられ、人間と仲を深めていくことで愛を知り、子を成したクイーンジャマト。ここの展開は井上脚本を堪能しているかのような妖しげな魅力を放っていた。何なら『仮面ライダーキバ』にこういう話があった気がする。

 

ゴッドジャマトの正体はある程度話運びで読めてしまうのだが、それは問題ではない。なぜならこの物語の芯はジャマトや人間という種族を飛び越えて、誰もを幸せにしたいという思いを道長が語る点だからだ。そう、このVシネは実質仮面ライダーバッファのスピンオフなのである。

 

吾妻道長は『ギーツ』本編において、他のライダーとの立ち位置やスタンスの違いが顕著に打ち出され非常に魅力的なキャラ造形を誇っていたものの、いろいろな意味で不遇だったなと感じている。彼が当初から主張していた「デザイアグランプリをぶっ潰す」という願いは、結果的に英寿を含めたメインライダー達の目的と重なっていくのだが、いつの間にか4人の主張として大きな流れに呑み込まれていってしまっていた。ジャマトグランプリで優勝し念願のライダーをぶっ潰す力を手に入れても、新フォームはマイナーチェンジに留まり、彼がジャマ神となったデザグラが進んだ先では、ギーツの創世の力の覚醒によってどんどん物語が違う方向へと向かっていってしまう。何より、尖り続けライダーを憎悪していた彼の価値観の変化も、英寿との共闘や景和の錯乱の中で自然に培われてしまい、バッファがフィーチャーされる回はほとんどなかった。序盤からどれだけ悪ぶっても人の良さが滲み出てしまう可愛げのあるキャラクターではあったが、物語の中での扱いは少し雑だったように思えてしまうのだ。1年で最も変化のあったキャラクターであるはずなのに、じゃあ彼を劇的に変えたものが何かと訊かれるとうまく答えられない。自分としても当初からかなり好きなキャラだっただけに、その点を凄くもどかしく感じている。

 

そんなバッファに、遂に活躍の機会が訪れたと言っていいだろう。もちろんベロバ撃破回などもあったが、それとはまた違った格別にバッファを、吾妻道長を堪能できる作品。それがこの『ジャマト:アウェイキング』なのだ。

まずは新フォームについて。エクスプロージョンは演じる杢代和人さんも言っているように、強敵として立ち塞がるドゥームズギーツの金色と対比になった銀色のバッファ。その色合いが美しいし、ギーツと肩を並べる存在としての神々しさが形に表れている。次に手で盆を模したようなバックル。思えば、ゾンビバックルにおいても手は重要なファクターであった。しかしそれは墓から這い出てくるゾンビ達の手であり、人々を地獄へと誘う禍々しい手だったのである。そんな彼が内なるジャマトの力を自分の武器として形にした新しいバックル、その意匠が人の願いや涙を取りこぼさないように手で盆を作ったように見えるデザインとなっていることが本当に素晴らしい。何ならこのバックルは道長と共鳴した英寿の創世の力によって生まれたそうなので、道長の新たな力として英寿が彼の本質を形にしたと考えるとそれだけで1年間『仮面ライダーギーツ』を観てきてよかったと思える。更に、変身後も大きな左手は盾として機能する。ひたすら剣もといチェーンソーで攻撃を重ねてきた彼の最強フォームの武器がまさかの盾になる大きな腕。道長の1年を通しての心情の変化がしっかりとデザインに落とし込まれていて感激してしまう。

 

序盤で「仕事の帰りだ」と、ぶっきらぼうに言い放つ道長。本当の悪人はそんなに素直に「帰り」とか「仕事」とか言ったりすることはない。やはり彼の言葉からは人柄の良さが滲み出てしまう。そしてドゥームズギーツの攻撃を喰らった時、英寿の姿をした相手に対して、景和が「何で俺達を!?」、袮音が「本当に英寿なの!?」と戸惑う中、誰よりも先に「お前誰だ!!」とこいつは英寿じゃないという判定を即座に下す道長。お前はどれだけギーツへの想いがデカいんだ。そういう節々から感じられる道長の可愛げを再び堪能できたことが素直に嬉しい。それだけでこのVシネを観る価値は充分にあった。アクションも坂本監督らしさが存分に発揮されている。舞台としてはそこまで広くない場なのだが、カメラワークと動きでとにかく魅力的で楽しい。ラストのタイクーン・ナーゴ・バッファのトリプル必殺技からの爆炎をバックに変身解除後の立ち姿…!本編では終盤までどうしてもギスギスしてしまっていた彼等がこうして共闘している様を堪能できて本当に良かった。

 

とまあ存外に本編とは別の角度から刺激をくれる作品だっただけにベタ褒めしてしまうのだが、やはり惜しいところもあった。まずは英寿が神になった後も結構な頻度で道長達の前に現れていそうなこと。劇場版では彼等が驚く描写があったが、今回はそれすらなし。道長の「ギーツが創った世界を守る」という決意表明がこの作品の肝なだけに、そもそも英寿が出てくれば解決しそうな雰囲気があるのはどうなのかなあ、と。実際ジャマトの力を形にしてくれたのはパンフレットによると英寿の創世の力のようで、結局神頼み的な側面があるのは残念だった。そもそも「神」とは言うが今の英寿に何ができて何ができないのかがよく分からない。OPのように未来の英寿に有刺鉄線で縛られるも、何だかあっさりと引きちぎって戻ってきたのはさすがにおかしいよな、と。そして最初にも触れたが、主役でありヒーローであった英寿が1000年の経過でどうして仲間達を傷つけるようになってしまったのか、というアンサーも特になかった。もちろんぼかしてもいい部分だとは思うし、むしろここが丁寧だと話の核がブレてしまいそうではある。ただやはり、主人公が未来でまるで別人になっていたという衝撃で話を動かすなら、適切なアンサーが欲しかったなあとは思った。

 

ただ短い尺で本編とはまた違った味の『仮面ライダーギーツ』を堪能できたのは本当に大きい。更に良かったのは、Vシネすぎる描写がなかったこと。やたら流血があったり、ちょっとセクシーな描写があったりという、見た目的なVシネ感・テレビじゃできない感のある演出が個人的にすごく苦手なので、そういう雰囲気が一切なかったのも好感が持てた。むしろ話の複雑さでカタルシスに欠けた本編よりもスカッとする爽快エンタメが出来上がっており、それが本編のデザイアグランプリを受けての物語としてしっかり成り立っている。『ギーツ』の物語がこれで終わってしまうことは悲しいが、いい閉幕だったなと心から思える素晴らしい作品だった。

 

 

 

 

 

 

スーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』総括 他人の祭になってしまったもどかしさと、シリーズの転換点になるという確信

スーパー戦隊シリーズ第47作目『王様戦隊キングオージャー』が最終回を迎えた。戦隊全員が王様で物語の舞台も我々の住む星とは違うチキュー。シリーズを観てきた者からすると考えられないくらい大きなスケールで物語が展開され、かなり意欲的で挑戦的な作品だったと改めて思う。だが、私は全く肌に合わない作品だった。いや全くと言うと嘘になる。正確には序盤から中盤までは何となく「斬新なことやってるな~」という感想を持ちつつフラットに観ていた。前番組の仮面ライダーが終わるとすぐにスマホであれこれ調べたり呟いたりしてしまうため、どうしても集中力が削がれる。なので本質的に『キングオージャー』の話の筋を理解できたのは数週間前に1話から復習を始めてからと言えるだろう。ただ、リアルタイムの時点で私の『キングオージャー』への興味はもう薄れていたのかもしれない。そう思う根拠は『機界戦隊ゼンカイジャー』や『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の時は画面に食らいついて観ていたからである。それほどまでの視聴意欲を継続できなかった時点で、私は既に篩に掛けられていたと言ってもいいだろう。そしてネットの評価に目を向けると、面白いことに『キングオージャー』という作品はかなり物議を醸しているらしい。賛否両論などは当然のことで、絶賛派と否定派の極端さがとてつもないことになっていた。戦隊シリーズがここまで荒れたことも珍しいかもしれない。そんな評価を横目に毎週視聴をし、いざ最終回前だからと復習をしたところ、私もこの物語の歪さに気付いてしまい、完全に目線が「諦め」になってしまった。

 

ただ、最終回同時視聴のイベントなど、これまでの戦隊シリーズではなされなかった試みが実現しているのも事実である。Blu-ray第1巻の初回限定盤も速攻で売り切れていたし、ネットでもトレンド1位になるほど多くの人が熱狂している。スーパー戦隊仮面ライダーよりも人気の面では劣るというイメージがあったが、このネットでの熱狂具合は完全に追い風が吹いている時の仮面ライダーである。私は『ドンブラザーズ』がかなり好きだったしネットでも好評価を多く見かけたが、それでもここまで大きな規模ではなかったように思う。もちろん作り手のSNSの使い方なども関係しているのかもしれないが、逆に言えばそういった層の熱狂を生み出す力を持つ番組だった、ということでもある。

 

とはいえ、フィクションに対しての感想は一個人が面白いと思ったかそうでないかのどちらかだと思うので、私は「なぜ世間にウケたか」なんて分析しようとは思わない。そのためここからの文章は、私が『王様戦隊キングオージャー』に対して一線を引いてしまった理由をつらつらと書いていったものであることを先に断っておきたい。シリーズの中でも稀に見るほどに画期的な画作りがなされた本作、私が感じたのは最初こそ違和感だったものの、視聴を続けていくうちに拒否感へと形を変えてしまった。

 

 

 

 

スーパー戦隊を手掛けるのは『獣電戦隊キョウリュウジャー』以来10年振りとなる大森P、斬新で独創的な画作りが評判の上堀内監督、そしてスーパー戦隊初参戦かつ特撮メインライターとしても初登板の脚本家高野さん。『ゼンカイジャー』『ドンブラザーズ』が平成仮面ライダーというブランドを築き上げた白倉Pに拠るものだったことを考えると、その「反逆」として敢えて若手を起用したのかなとも思える布陣である。スーパー戦隊存続の危機というのはネットでも度々盛り上がるが、やはり『ゼンカイジャー』と『ドンブラザーズ』はベテランが手掛けていただけあって、物語の面白さ以外にも作品内外の仕掛けを感じることができる作品だった。毎週の視聴を継続させていこうという思いが作品にも表れており、実際私にとってこの2作はかなり思い入れの深い作品になっている。

 

ただどちらもスーパー戦隊としては見た目の時点で型破りな戦隊。『ゼンカイジャー』はメイン5人の中に人間が一人しか存在せず、『ドンブラザーズ』はその狂ったようなネーミングセンスもさることながら、メンバーの中に極端に背の低い者と極端に背の高い者がいてCGが用いられていた。要は出オチなのだが、物語の牽引力でそれが出オチではなくきちんと「入口」になっているのが素晴らしい。「なんだこの変な戦隊は」という入り口を設けた後にも、そのインパクトに引けを取らない物語がちゃんと用意されているのだ。もちろんハマれない人はいるだろうが、それでも話題作りの面で「戦略」を感じさせる作りに、シリーズを長年観ている者としては興奮を覚えずにいられない。だがそれは逆に、後続作品のハードルを高めることでもある。

 

そこで出てきたのが『王様戦隊キングオージャー』。この端的な番組タイトルの中に「王」が3回も入っているのがまず凄い。正気とは思えないネーミングセンスだが、あらすじや設定は更にとんでもなかった。舞台はチキューという架空の星で、戦隊メンバーはそれぞれが一国の王様という斬新さ。スペースオペラを題材にした41作目の『宇宙戦隊キュウレンジャー』が、上からの指示で第1話から地球で物語を展開しろとされていたことに白倉Pが苦言を呈して最初数話は他の星での物語になったというのを耳にしたことがあるが、そこから6年、何とSFかつファンタジーの世界観でのスーパー戦隊が誕生したのである。

 

だがそれは決して設定上だけのものではない。テレビ番組である以上、視覚的に世界観に説得力を持たせる必要があるが、新技術の導入によって『キングオージャー』はそのハードルさえも越えてしまった。東映の番組サイトでも熱心に大森Pが紹介しているアセットやLEDウォール。『ゼンカイジャー』以降度々使われてきてはいるものの、『キングオージャー』は物語の大半がセット内で完結するという、これまでからは考えられないほどに驚異的な撮影方法を用いている。新しいことを一から始めることの難しさはそれこそ番組サイトでも語られているが、実際映像で観ても「なんだこれは!」と驚いてしまえるのが恐ろしい。中世のヨーロッパや江戸時代を舞台にした五王国が見事に映像に再現されているのだ。正直、日本のドラマではまず観ないし、映画でもこれほどのスケールの作品はなかなかないだろう。それほど映像的に斬新なものが毎週放送されていたというのは本当に凄いことだと思う。

 

加えて『キングオージャー』はスーパー戦隊では初めて、TVerで放送後に配信されるようになった。この功績に関しては大森Pがネットインタビューで語っている。

xtrend.nikkei.com

 

現代は番組を観ていなくともテレビ放送後にSNSで番組の情報が出回る時代。そのような状況下で、他のドラマと視覚的に差別化された『キングオージャー』のキャプション画像が目に入り、とりあえずTVerで今週分を観てみる…という動線もあったのかもしれない。何よりTVerは無料で観ることができる。社会人になるとつい年会費を払ってAmazon Prime等のサブスクに頼ってしまうが、お小遣いで生活している学生などにとっては家庭環境次第でそれさえも難しいはず。「映像作品にお金を掛けない世代」や「録画して観る程の意欲を持たない層」に対して1週間無料でアプローチができるというのは大きな強みなのだろう。個人的にはこうした戦隊新規もしくは戻ってきたファン層が生まれたということも、感想の多様性に一役買っているのではないかと考えている。

 

と、色々語ってしまったがここまでは「前提」である。『キングオージャー』という番組は映像のクオリティの高さゆえに視覚的なインパクトを強く打ち出すことができるのだ。そしてそれは、これまでにスーパー戦隊が作り上げてきた「子ども向け番組」という固定観念をあっさりと破壊することができる力だと思っている。子ども向けや大人向けという括りにはあまり意味を見出せていない(というか視聴者が言うことではなく、作り手がターゲット層を絞る時に使うべき言葉だと考えている)のだが、少なくとも「子ども向けの戦隊ものなんて観る気が起きない」という人に対して、こうした斬新な視覚的アプローチが出来るのは強い。シリーズの存続、その目的は新規層の開拓にこそある。そのため、「今の戦隊すごそう!」と思わせるだけで収穫はかなり大きい。興味のなかった層を一旦視聴にまで漕ぎつけさせるという意味では、『キングオージャー』ほど特化された作品は今のところないと言っていいだろう。視覚的な斬新さ。これはこの番組が持つ紛れもない武器なのである。

 

実際、第1話冒頭を観た時は心が震えた。いや実際、今でも感動してしまう。「どうだすごいだろ」と言わんばかりにじっくりと五王国を見せつけられ、そのあまりの作り込みに胸が熱くなるのだ。一時停止して細かく見ると、それぞれの国の特徴が細部にまで盛り込まれているのがよく分かる。ハリウッド映画を観ているとこのクオリティのCGは当たり前かもしれないが、五王国のデザインはハリウッドのようなスタイリッシュなものではなく、ニチアサの枠組みを外れないごちゃごちゃしたものなのだ。細かいことを言うとキリがないのだが、画面がかなり楽しくなり、モチーフをとにかく散りばめていくザ・ニチアサスタイル。一般的な映画だったらこうはならないというニチアサ独自の味わいが、最新の映像技術によって表現されていることがもう面白くて堪らない。

 

ただ、「第1話冒頭を」と書いたのには理由がある。ここからは『キングオージャー』の物語について触れていきたいと思う。私がこの作品についていけなくなったのは主に物語の面であり、正直ここからは苦言を呈するパートが続く。斬新な画作りがされていた作品だからこそ、物語から受ける感動が限りなく僅かだったことがすごく残念でもあり、熱狂している人の感想がタイムラインに流れてくる度に悔しくなってしまう。間違いなくスーパー戦隊の歴史において転換点もしくは特異点になるだろうという確信を抱くと同時に、それが自分の肌に合わなかった悲しみも強く存在しているのだ。

 

 

 

 

第1話。シュゴッダムの市民だったギラが「王は道具」と言い放つラクレスに対し、邪悪の王を名乗り反旗を翻すシーン。ファンの間でも印象的な場面としてよく語られ、脚本家の高野さんもここでギラに30秒程溜めさせてからセリフを言わせたことへ称賛を送っている。だが私の頭には疑問符が浮かんでしまった。

 

いや、ここで邪悪の王を自称する理由なくない???

 

邪知暴虐の限りを尽くす悪王に対して反旗を翻す存在が「反逆者」になる構図は分かる。ギラが反逆者にされ指名手配されるという理屈も理解できる。ギラが子ども達とのごっこ遊びで邪悪の王を名乗っているというのも確かに示されている。だが、ただ国王とその側近しかいない場において、自ら邪悪の王を自称するのは、あまりに都合が良すぎないか、と思ってしまったのだ。そもそも汚名を着せられそれを受け入れるという構図は、それ以上に護りたい何かがあってこそ成立するのが基本。逆に言えばラクレスは「ダグデドにいつチキューを滅ぼされるか分からないために、機が来るまで悪王を演じるしかなかった」(ここに関しても結構言いたいことはあるが後述)ため、汚名を着せられることを甘んじて受け入れる理由が分かる。だが、1話の時点でのギラには邪悪の王を名乗る程の説得力と意味合いを全く感じられなかったのだ。その後も度々「ギラは本当は優しいのに意味もなく悪ぶってしまう人物」というのが描かれるのだが、その根拠の乏しさにどうにも物語への没入感が削がれてしまった。あの場でなら「何が反逆者だ!うるせえ!」とラクレスに殴り掛かるくらいが普通な気がする。その殴り掛かった部分だけを切り取られて国民に放映され汚名を着せられたギラが、「いつでもコガネ達を消せるんだぞ」等とラクレスに脅された結果、邪悪の王を名乗る…という話運びなら分かるのだが、民さえもその場にいない状況、つまりは文字通り悪しかいない状況で自分が悪だと喧伝するギラが全く分からなかった。リアルタイムではちょっとした違和感だったのだが、改めて全話観るとこの1話の歪さが際立って見えてしまい、作品の、そして主人公のコンセプトを決める上でも非常に大事な場面であったがために本当に勿体なく思う。何より、「ああ、ギラを反逆者にしたいんだな」と、作り手の意識だけが透けて見えてしまった。

 

第1話から第5話までは各国の紹介も兼ねて、王様5人それぞれの物語が描かれる。それと同時に、ラクレスによってギラが指名手配され、五王国の王様がそれぞれギラと関わっていくことになる。『キングオージャー』は1話完結であることは滅多になく、スーパー戦隊には珍しく連続性の高い作品であるのだが、それは既に序盤から示されていた。五王国の紹介に留まらず、ギラの処遇やギラの正体、そしてラクレスの野望に加え、バグナラクの暗躍など、多くの物語が同時に展開されていくのだ。更には真意の読めないカグラギによって、話は更に複雑になる。出てきた怪人を倒すというこれまでの戦隊フォーマットから大きく逸脱したプロットはやはり斬新だと言えるだろう。だが非常に読み解き辛い上に、物語が複雑性を増して理解が追い付かなくなっていく。何より、キャラクターの動線がこの時点で既にほとんど機能していないように思えてしまった。

 

ラクレスを討ち倒したいギラは、指名手配され連行されることを望んでいる。つまり捕まってシュゴッダムに送還されるほうが早いのだ。にも拘わらず、別に王様達にそこまで監視されているわけでもないのに、何となく世界観光をしているギラがまるで理解できない。とっとと帰ってラクレスを倒すべきではないのだろうか。王様それぞれの個性がしっかりと炸裂しているだけに、ここについても「王様一人一人を見せていきたいんだろうな」という意図ばかりが先走って見えてしまう脚本を残念に思う。何ならキングオージャーを唯一動かせる人物なのだから、自分でいつでも帰ることはできるはずなのだ。それなのに特に目的もなく他の王に連れられて街ブラを楽しんでしまう。この時点で、ギラお前は何を考えているんだ…と私にはギラという人物が分からなくなってしまった。そして第5話、王様達の捜査によって、ギラがシュゴッダムの王子でありラクレスの弟だということが明かされる(実際には児童誌か何かで先にギラ・ハスティーというフルネームが明かされていたらしいが…)。主人公が王族であり、倒すべき因縁の相手の弟というのはかなり衝撃的な事実…のはずなのだが、この種明かしが種明かしで終わってしまっているのも非常に残念。

 

ギラが弟だと聞いてまずこちらが思い浮かべるのは、「なぜギラはそれを覚えていないのかorなぜ言わなかったのか」だろう。これについては幼い頃に食べさせられたレインボージュルリラの副作用によって凶暴化し記憶が失われたということが後々明かされる。だが、その時のギラ自身は「なんかラクレスに励まされた時のことは覚えてる」(by決闘シーン)くらいのノリで済ませてしまう。普通なら「なぜ僕はそれを知らなかったんだろう…」という流れになるし、仮にギラが天然だとしてもリタ達が「どうして言わなかった?」となるはずである。それと同時に、キングオージャーを動かせるギラの奪取は、それぞれの国力増強のために五王国の王様としても悲願だったはず。ギラがシュゴッダムの王家だと分かれば他の国王達は迂闊にギラを手に入れることが難しくなる…なんて動きも想像できるのに、その一切が『キングオージャー』という番組には存在していない。

 

私にはこれらが、「ギラはラクレスの弟だった」と言いたいだけの展開に見えてしまったのだ。主人公が宿敵の弟という展開は確かに燃える展開になるパターンだが、『キングオージャー』自体はその衝撃度を描写していないように思う。もちろん、それによりギラが罪人ではなくなったという一応の決着はつくのだけれど、ラクレスの弟であると判明したなら、もっと物語に動きが出てもよくないか?と思ってしまうのだ。もちろんこれが気にならない人はきっといるだろうし、私の考えを番組に押し付けているだけとも言えるかもしれない。ただ『キングオージャー』はこういったように「こっちが想定しているもの」をかなりハズしてくることが多いのである。あくまで個人の感想ではあるが。

 

その後、確か第6話で、ラクレスが秘密裏にもう一体のゴッドクワガタを作っていたことが明かされる。つまりギラの特権であったキングオージャーを操る力を、ラクレスも自由に扱うことができることが分かった。これによりシュゴッダムは他の国に比べて、軍事力の面で一歩リードした形になる。他の国は一刻も早く対策を立てなければならない状況に陥った…はずなのだが。バグナラクを打ち倒したキングオージャーが、ギラと手を取り合ったゴッドスコーピオンに攻撃されたことで、ギラは遂に民にも悪人扱いされてしまう。何故ゴッドスコーピオンがそのような攻撃をしたのか…と謎を残し、第7話へと突入する。いや、ちょっと待ってほしい。まずはラクレスが動かしたキングオージャーのことをやってほしいのだ。これはスピンオフで触れられているからとか、そういう問題ではない。その場に居合わせその事実を知ったキャラクター達の心情を捉え、動線を引いてほしいという意味である。

 

 

 

 

確かにゴッドスコーピオンの攻撃(余談だがゴッドスコーピオンの毒、マジで色々な状況で武器として使われてるの悲しすぎる)ですぐに分解できる程度の合体ではあったが、シュゴッダムが秘密裏にシュゴッドを作り出していたというのは他の国王にとってはかなりまずいことなのではないのだろうか。何より当の本人であるラクレスはシュゴッダム及び全世界を支配しようとしている(少なくともこの時点ではそう思われている)のだ。そんな奴が自分達のロボを自由に操れるかもしれないというのはかなり恐ろしい状況と言えるだろう。それなのに第7話では、ゴッドスコーピオン(サソリーヌ)がどうしてキングオージャーを攻撃したのかが話の核になる。6話のラストではもう一体のゴッドクワガタに対して「お前誰だ!?」とまで言っていたギラも、反逆者扱いによってコガネ達との物語を展開してしまう。カグラギとリタがこの事態の危険性に言及する場面(ラクレスはゴッドクワガタを作っていたから同盟を破ったのだろうと気付く)もあるのだが、第7話は何故か傷ついたシュゴッドを修理するか治療するかで対立するヤンマとヒメノの物語になる。

 

もちろんこれが悪いことではないし、シュゴッド達を救わなくてはというのも分かる。そしてゴッドスコーピオンがどうしてこんなことをしたかという話をやるのも別に大問題というわけではない。ただ、優先順位がどうしても歪なのだ。リタとカグラギが状況に危機意識を感じて動いたのなら、ヤンマやヒメノの立場がない。何より視聴者の意識も「あのゴッドクワガタの正体は!?」という方向に向いていてそれを捜査することがキャラクターの動きとして全く違和感のないものなのに、そうしようと努める存在が皆無なことに、どうしても「作り手の存在」を感じてしまう。おまけにギラはコガネ達を人質に取られ、決闘裁判を強いられる。この場面も形だけ見たら直接的に民に寄ってきた分、カグラギやリタのほうがラクレスより悪人に見えなくもない。オオクワガタオージャーの販促もあるだろうし、これからも度々起こる兄弟対決の第一戦として第8話が重要なのはよく分かる。よく分かるのだけれど、一方で作劇自体が「決闘裁判をやるために強引に物語が進められている」と感じてしまうのだ。もちろんそれをスピーディーな展開と捉える人もいるかもしれないが。

 

そして第8話では決闘裁判が行われるのだが、これに関しては王様達が出来レースを企てていた。ゴッドスコーピオンの毒をカグラギからラクレスに渡しておき、ラクレスならこれを使って卑怯な手で勝とうとするだろうと考えたのである。目的は「ギラを死んだことにする」ため。カグラギ達がラクレスと話し合った時にはゴッドスコーピオンが仲間かどうかもまだ判別がつかなかったのにこの手を使うのはどうなんだろうという歪さもあるが、ギラにとっての一大対決であるはずの展開が、実は仕組まれていました~というのは肩透かしに思えてしまった。ギラにとっては人生を変え、一国を変える程の対決であるのに、それが王様達の策略に過ぎず、何よりその策略さえもバグナラクの介入で狂ってしまう。結果的に崖から落とすだけなら別に毒のエピソードは一切いらないだろう。もちろんそれによってラクレスがギラの死体捜索に躍起になるのだが、それ自体もお前急所外してるしそもそもギラを殺す気ないのだから別にいいだろ…と思ってしまうのだ。構成が無駄に複雑になっているというか、毒を使うなどという変な前提に拘るのであれば、きちんとギラとラクレスの心情をクローズアップしてほしかったというのが本音である。何より、ラクレスは何か真意がありそうだしカグラギも本音は分からないし物語は重要そうなことを保留にするしで、真面目に向き合うことが難しくなってしまった。「どうせ衝撃の事実っぽいことを出して、こちらの裏をかこうとしてるんだろうな」と、作り手を信用できなくなってしまったのである。

 

本来のスーパー戦隊は毎週必ず怪人を倒すというノルマを課すことで複雑な動線を一本にまとめることができていたのだが、フォーマットから逸脱した『キングオージャー』は、逸脱だけではなくキャラクターの言動が今後の展開を示唆する「含み」なのか脚本上の「欠陥」なのかも判別がつかないままに、とにかく強引に話が進められていく。各話に触れていくとキリがないが、「主人公が王家の血筋」「宿敵が兄」「悪(バグナラク)は本当は悪ではなかった」「ギラはラスボスのダグデドによって作られた存在」「悪役を演じ続けていた男」「全員参加のクライマックスバトル」などなど。これら本来エモーショナルにできる場面が、ことごとく積み重ねのないものでスベっているように私には見えてしまったのである。もちろん事前に考えていた設定もあるのだろうけれど、『キングオージャー』はその一つ一つに焦点を当てる時間が少ないままに、衝撃度が高そうな事実や展開ばかりを披露していた。視聴者である私達は『キングオージャー』で初めてフィクションに触れるわけではないはず(子どもの中にはそういう子もいるかもしれないが)。そのため「宿敵が兄」などの要素は確かに辛く苦しいものに見えるし、例えば作品を知らない人に対して「主人公が倒そうとしてるのは実の兄なの」と説明したら、悲劇的な物語を連想してくれるだろう。だがその悲嘆をゼロから生み出せるだけの積み重ねは、『キングオージャー』には存在していない。例えば孤児院で育ったギラ(そもそも誘拐ってなんだよとは思っているが)がずっと家族との再会を夢見ていた…という設定があれば、倒すべき敵が兄であることの重みは生まれるし、まして自分を生んだのがダグデドだったと知った時の衝撃はかなりのものだろう。何ならそこから、両親を殺されたヒメノや妹を溺愛するカグラギ、母親想いのジェラミーとの関係性も「家族」を軸として紡ぐことができるかもしれない。それなのにこの作品は「ギラはラクレスの弟でした!」「ギラはダグデドに作られた存在でした!」とただ設定を語るのみに留まっている。弟だったから無罪になった、ダグデドに作られたからシュゴッドの言葉を理解できた、という「納得」は生まれるが、そこに「感動」を見出すことは私にはできない。

 

これはあくまで私の見方なのだが、物語というのは受け手の心情をどれだけ丁寧に誘導するかがカギだと思っている。「衝撃の事実」として種明かしをするのなら、事実を開示するだけでなく、そこに感情を肉付けなければならない。キャラクターの感情がなければそれはただの「事実」でしかなく、「衝撃」は生まれないのである。すごく簡単な例にすると、「自分の親友と自分の妹が付き合っている」と知ったら誰しも衝撃を受けるだろう。しかし「自分の知らない隣の県の学校の〇〇さんと△△さんが付き合っている」と聞かされても、誰も興味は持てないはずだ。その「隣の県」を如何に「親友と妹」レベルの距離へと近づけられるかどうかが、事実に衝撃を付与していくということなのである。

 

そういう意味で、『キングオージャー』は事実や設定の開示にばかり注力し、それにより各登場人物の考えがどう変わるかをほとんど描かない、もしくは描いていてもあまりに積み重ねが足らない。おそらく作品で最も力を注がれていたであろう「ラクレスは実はダグデドを倒すために邪知暴虐の王を演じていた」という設定も、辻褄合わせこそできているものの、感情移入することは一切できなかった。似たような設定で『ハリー・ポッター』シリーズのスネイプ先生を思い浮かべる方も多いはず。ハリーに常に嫌味を投げ掛けるスリザリンの担任だが、実際にはハリーの母親を死後も愛し続け、彼女の息子であるハリーをずっと見守り続けていたということが終盤で明かされる。これが感動を生むのは、スネイプがハリーを実際にずっと虐げてきたという土台を積み重ねてきたからこそだろう。時にねちねちと嫌味を言い続け、時にハリーを貶めようとしているように思えた彼の言動が、実は全て彼を守るためのものだったと明かされたからこそ衝撃度は大きくなる。しかしラクレスは最悪の王とレッテルを貼られながらも、直接的に人の命を脅かすようなシーンは本編ではほとんどない。民を道具と言ってはいたし、民のピンチにも出動しないことがあったし、ンコソパが侵略されたりもしたが、正直シュゴッダム国王としてはそこまでの邪悪さはなかったと思う。もっと言うと、ラクレスがダグデドを倒すことを決意し、悪に身を落とすことを考えた理由も、「神の怒り」の一辺倒で片付けられ、ラクレス個人の重みが存在していないのが残念であった。両親を殺されたようなものなのだから、普通に両親の仇でよかったと思う。

 

この「設定に重きを置く」タイプの作劇は前作の『ドンブラザーズ』の脚本を手掛けた井上敏樹さんのスタイルとは真逆なので、『ドンブラザーズ』に心酔していた私が『キングオージャー』にハマれないのも必然なのかなと若干は考えている。最悪積み重ねはなくてもいいのだけれど、『キングオージャー』は事実開示後の物語の展開も非常にこじんまりとしている。ダグデドを倒すためにラクレスは民を虐げてまで悪王を演じてきた…のならば、ダグデドが復活してしまった時に彼が感じる衝撃はもっと大きなものなのではないだろうか。バグナラクは歴史によって悪にされてきたと知ったのならば、ジェラミー以外の全員が、自分達がこれまでバグナラクを倒してきたことに何かを感じたりはしないのだろうか。まるで「出したら終わり」というような設定の出し方が凄く不親切なように思えたのも、私がハマれなかった一因だろう。物語の設計図を眺めているような感覚というか、未完成品を観ているような感覚に陥ってしまったのである。

 

ここまで物語の「設定」について話したが、次はもっと根本的なことに触れていきたい。それは簡単に言えばシリーズにおける独自性についてである。スーパー戦隊シリーズは第47作目だが、毎回手を変え品を変え、自分達のカラーを打ち出してくる。そしてそれは往々にして作品コンセプトとマッチしている。忍者、恐竜、車、列車。様々なモチーフが存在する中で、『キングオージャー』が選んだのは「王様」と「虫」。架空の惑星を舞台に全員が一国の王であるという斬新な物語設定と、意外にも単体でのモチーフは初めての虫。今考えると女性キャラクターにカマキリをあてがう辺りもかなり冒険だなと思う。そして虫の王道であるカブトムシを敢えてヒーロー達から外してくる辺りも潔い。何より、虫モチーフは仮面ライダーの十八番であるにも関わらず、堂々と打ち出してくるのだからすごいものである。ただ、正直『キングオージャー』は虫とはあまり関係ない物語なので、虫に関しては割愛させてもらいたい。ちなみに、虫はそのままだと嫌悪感を持ってしまう人もいそうなため、機械で改造された虫型の守護神をロボとして出したのはかなり正解だなと思っている。それをヤンマ1人でやりましたというのはちょっとパワーバランス的に驚きだが。

 

私が言いたいのは、王様のほう。そう、「お前ら王様の器じゃなくね?」問題である。もちろん作品内で彼等は幾度となく王様であることを強調し、民のためだと言って行動し、悪を討ち滅ぼそうと励んでいる。実際彼等は紛れもなく王の地位に就いているのだが、果たして王とは何なのだろうか。民主主義の国に生まれた私達日本人にとって王様というのはあまり馴染み深い概念ではない。唯一カグラギは大殿様だが、江戸時代を体験していない私達にとっては他の国とそう変わらないだろう。だからこそ、王という身近に居ない存在をモチーフにする英断は素晴らしいと思う。だが、王の話をする上で彼等が何故王なのかと問われた時、「王の器があるから」ではなく、単に「前の王に認められたから」で大概のメンバーが済ませられてしまうのはかなり苦しかったと言える。そして何より、「王様戦隊」を自称しながら、この物語は民の存在が希薄なのだ。

 

『キングオージャー』では第1話から「王が国を守ってくれるから民が身近な人々を守ることができる」というセリフが語られる。この視点は非常にいいと思ったのだが…どうやらこのセリフは「民一個人を守るのではなくあくまで国のことに目を向ける」というような意味で使われていた節がある。いや、そうではないのだろうけど、そうなのではないかと邪推してしまうほどに、『キングオージャー』における「王様」という概念は残念な描写に留まっている。というのも彼等の多くが、民意が反映された結果での王ではないのだ。ヤンマはンコソパを立て直した実力者として周囲に認められている節がある。カグラギもイロキを倒した功績が認められたと言えるだろう。しかしそれ以外のメンバーはあくまで「前王から認められた」だけである。ヒメノは両親の死によって仕方のない就任ではあったが、どちらにせよ民意が反映されたとは思えない。彼等は年齢もかなり若いし、政治に長けたわけでもない。むしろ王様らしくない一面ばかりが強調されている作劇が多かったと言えるだろう。何より、打倒ラクレスや打倒ダグデドに関しての意見交換や対立をすることはあっても、自国のことは特徴くらいしか語らない。

 

彼等と民とが直接対話する場面があまりに少ないため、こちらは王としての振る舞いを想像することしかできないのだ。もちろん実際の歴史においても民が王に近づくことなど難しかったのかもしれない。しかしそれでも、フィクションで王様をやる以上は民を描くことが重要である。その上で『キングオージャー』の民の描き方はかなり一面的だった。ゴローゲが大きい声で何かを叫ぶだけでシュゴッダムの民の心情は一意に決まり、民意はよからぬ方向へと流れていく。ギラが反逆者という設定を際立たせるための装置でしかないのである。最初こそゴローゲのキャラクターを面白がっていたのだが、段々とゴローゲの一言で全てが決まるこの民達に嫌気が差してしまった。そして民を描かないということは即ち王を描けていないということでもあると言える。彼等は人の上に立つ器かどうかということを気にせず、前線に赴く。それを「迷いのないかっこいい王様」と好意的に解釈することもできるのだろうが、独善的で時に自分の国の崩壊(ンコソパ崩壊後にヒメノの結婚相手に立候補するヤンマなど)さえ招いてしまう彼等が、人の上に立つことは許されるのか?という方向に気持ちがいってしまった。もっと簡単に言うと、こんな人達が自分の国を支えていると思った時に不安しか感じなかったのである。

 

もちろん王鎧武装できる時点で脅威から民を護る能力は保有しているのだけれど、実際王様が果たす役割というのはそれだけではないはず。民の生活のために様々にできることがあるはずだ。ギラなんかは孤児院育ちなのだから、孤児院の環境を整えるとか。そういう、民に寄り添った話をもっと展開していってもよかったのではないだろうか。『キングオージャー』は結局敵との戦いへの比重が大きく、正直彼等の自称する「王様」という肩書が非常に形骸的なものに感じられてしまったのである。王になる物語だと言っていたのに、単に悪い王様を倒せば王になれるというのは何だか違和感がある。まして前王が最悪の王だったのだから民の目も厳しいものになっているはず。それなのに敵を倒せばそのまま王になるギラ。元々王子だったとはいえ、あまりに民意が画一的すぎるのではないだろうか。もちろん王に対して異を唱える存在が全くいなかったかと言われるとそういうわけではないのだが、彼等が王を名乗るに値するほどの描写はなかったかなと思う。

 

何より、五王国それぞれの王様という壮大な設定なのに、結局やっていることは頻繁に集まって敵を倒す作戦を企画するという、「いつものスーパー戦隊」になっていることが気になった。当初は自国の利益を優先する王様達が気持ちを一つにするなどありえない、みたいなコンセプトがあったと思うのだが、大きな脅威を前にそうも言ってられず、カグラギがたまに暗躍しているというくらいで、戦隊としての方向性はかなり一致してしまっていた。もちろん医療やインフラといった各国の特色は出ているのだが、私は正直彼等が王様である必要は全くなかったように思う。むしろ王国はシュゴッダム1つにして、王子、技術班長、医療班長、裁判長、交渉人くらいに分けるくらいが妥当だったかもしれない。それなら自然とラクレスに反旗を翻す「反逆者」の構図も効いてくる。もちろんたらればの話をしても仕方がないのだけれど、5人が王様である必然性が私にはまるで感じられなかった。

 

それぞれが王様というのなら、国交的な問題をもっと抱えていてほしかったのである。例えば国交が断たれれば自国が苦しむことになるため4人の王様達はラクレスに反逆することができずもどかしい思いをしていたものの、反逆者ギラの登場で一気に風向きが変わっていくなど。5人の気持ちがなかなか一つにならないというのは、戦隊メンバーが現実に全然揃わないという話をやっていた『ドンブラザーズ』と似通ってしまっているし、実際気持ちがなかなか重ならないというのもほとんど描写されなかった。個性が強いからバラバラになってしまうというのは個性同士を擦り合わせた結果によって見えてくるものであって、「彼等は自国のことしか考えていないので気持ちがバラバラなんです!」というのをそのまま出されても言葉に詰まってしまう。何よりそのバラバラを解消していくのがスーパー戦隊の醍醐味であったはずが、バラバラを強く打ち出してきた上で割と早い段階で5人の密談パートが常に挿入されるようになってしまったのは本当に勿体ない。前述もしているが、これもやはり「積み重ねが足らない問題」と同じである。彼等は王様であることを言葉で殊更に強調するものの、じゃあ結局王として何をしてきたのかという背景が「ラクレスやダグデドを倒す算段をつけてます」しかないのである。

 

ただ民を描かない分、側近達の存在が非常に価値あるものとなっているのはとても良かったと思う。脚本家の高野さんはMOOK本で「側近のキャラ付けまで任されて大変だった」と語っているが、実際キャラクターの立て方に関しては文句のつけようがないほど上手いと言えるだろう。王様達が何となく相談できる相手として身近な存在がいるというのはとても心強いし、リタとモルフォーニャなんかは特にうまく機能していた。逆に言えば側近さえいなければもっと王達が城下に赴いて自国のトラブルを片付けるような話も観られたのかもしれないな…と残念には思うのだが、それでも側近と王様との物語や関係性には結構好きな部分が多い。

 

とはいえそんなに身近な人物との対話で事足りるというのであれば、尚更彼等が王様である必然性に欠けると言えるだろう。私は先日まで「この番組はもう王様というかただのヒーロー番組と変わらない」という印象を持っていたのだが、最終回前日の高野さんのインタビューによると「王様だからヒーローになっちゃいけない」というのを掲げていたらしく、この乖離が楽しめなかった原因か…とも思った。

 

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「王様だから時にドライな選択をすることもある」とも仰っているのだが、そのドライな選択に関して全く理由付けがされていないことが多々あったなと私は感じている。LEDウォールのおかげで見応えは例年と異なるものになっていたが、実際6人がシュゴッダム等で計画を練っている辺りは例年とあまり変わらないというか。むしろその掛け合いに遊びの要素が少ない分、少々劣化しているような手応えさえあった。

 

次は「テーマ」について述べていきたい。私は多少つまらない作品でもその作品が訴えるテーマに共感する部分があれば結構好きになれるのだが、『キングオージャー』には正直、一年を通じてのテーマが一切感じられなかった。というとさすがに直球なので他作品の例を示していきたいと思う。例えば宝石をモチーフにした『魔進戦隊キラメイジャー』は、誰しもが自分のやり方で輝けるということを説く物語だった。『機界戦隊ゼンカイジャー』は並行世界をギアで閉じていったトジテンドに対し、何事も全力でぶつかるヒーロー達が可能性を開いていくことの喜びを訴えてくれていた。『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』は、御伽噺の桃太郎のようにめでたしめでたしの大団円を迎え、桃太郎とお供という関係性から人と人との縁を描いていた。では、『キングオージャー』はどうだったか。

 

ヒーロー特撮においては、訴えたいテーマを正義側の主張とし、それの反証という形で悪を設定するというのがオーソドックスな形である。その意味で言うならば、『キングオージャー』の巨悪であるダグデドは、人を殺し宇宙を滅ぼすことを「遊び」としてしか捉えていないというキャラクターで、それに反するテーマが王様達の掲げるもの、つまりは作品のテーマとして浮かび上がってくる。しかし、こない。『キングオージャー』はあくまで民を守るために戦っているだけであり、ダグデドとの対立は結果的なものでしかないのである。実際「遊び」で人を傷つける敵というのは過去の特撮でも何度か登場している。『仮面ライダークウガ』では殺人ゲームを楽しむ怪人との戦いを通して「非暴力」が訴えられていた。『動物戦隊ジュウオウジャー』でもゲームとして星を滅ぼす存在が悪として設定されている。

 

とはいえ、すぐに「テーマはない」とするのは早計なため、もう少し考えてみたい。ダグデドの特徴を「遊び」とするならば、反するテーマは「責任」などではないだろうか。確かに王という立場に伴う責任は相当なものだろう。しかし『キングオージャー』は前述した通り王様である必然性が薄く、言葉では色々と口にするものの「責任」を訴えるほどの論拠を示してはいない。もう1つ『キングオージャー』の特徴として挙げられるのが、「反逆」である。君主に背き信念に従うその強い意志を描いている…と言えば聞こえはいいかもしれない。実際OPの「全力キング」の歌詞にも「反逆者」という言葉が使われていることから、このコンセプトはかなり初期段階から物語に組み込まれていたと考えて差し支えないだろう。だがこの反逆者という肩書も、前述の通り私はうまく呑み込めていない。それに何より、「世間で正しいとされている風潮に負けず、自分の道を突き進もうぜ」というように反逆という言葉からテーマを連想するにしても、『キングオージャー』はそういう話ではなかったように思う。

 

などと最終回放送前日まで考えていたのだが、最終回の訴えとして『キングオージャー』がピックアップしたのはダグデドの「不死」の部分だった。この作品では終盤からやたらと不死能力者が続出したが、死なないことよりも限りある命を燃やし尽くすことの素晴らしさを説くオーソドックスな着地。ただ、少し前のヒメノとジェラミーの話でもうそれは終わっていたような気もする。ダグデドだけでなくグローディも不死だったのがややこしい。

このテーマ自体は国民的作品となった『鬼滅の刃』も同じことを言っているが、正直『キングオージャー』にとってはとってつけたようなテーマだなと思ってしまった。物語の中で命の儚さや多様性はほとんど訴えられてこなかったのに、終盤になっていきなり概念が生えてくる。物語の結末をどうするのかが気になっていたのに、こんなに不誠実な形で綺麗事を訴えられるのは本当にキツかった。先に紹介したインタビューで高野さんは「子供向けだからこそ、綺麗事が本気で言える」と語っていたが、それは違うと思う。対象年齢に関わらず、物語を紡ぐということは訴えたいことに説得力を生むことでもあるはずだ。むしろヒーロー番組というのはヒーローが絶対正義であるというパターンが多い以上、一般的な作品よりも綺麗事を言わせることに対して敏感でなくてはならないのではないだろうか。ヒーローという立場から耳障りの良い台詞を吐かせることが簡単にできてしまうからこそ、その言葉に整合性を持たせ重みをつけていくことが重要なはずだ。もちろんこれは一個人の意見なので価値観の違いでしかないのだけれど、実際に最終回を観て出てきたものが本当に「綺麗事」でしかなかったので驚いてしまった。多様な価値観を認め合える世界についての希望を最後のジェラミーのナレーションで語ってもいたが、理由も大して説明せず王が民に命を差し出させ、それにあっさり従う民という画一的な構図の後に多様性を説かれてもな…と辟易してしまった。ただそういう節操のなさこそが『キングオージャー』の魅力なのかもしれない。

 

しばらく考えたのだが、結論として私の中では「『キングオージャー』は物語の進行を楽しむ作品であって、明確なテーマは存在しない」というアンサーに至った。最終回で一応の着地はできたのかもしれないが、1年を掛けてこれを表現してきたのだなあという大きなテーマは感じ取ることができなかったのである。色々なインタビューにも目を通したのだが、設定やキャラクター、脚本や映像表現に関しての話が多く、この物語が何を言いたいのかという根本的なことにはあまり触れられていなかった。むしろ「ここにはこう書いてありましたよ!」というのがあったら教えてもらいたい。テーマが明確になることで番組への解像度がぐっと上がっていくということがニチアサには往々にしてあるからである。

 

不死というキーワードが終盤度々使われており、敵と王様達を対比させる構図が全く存在していないというわけではないのに、メインテーマとしてその対比が驚くほど機能していないことが残念でならない。何なら五道化が登場した時にはダグデドも含めてキングオージャー6人とそれぞれを上手く対比させて物語を進めていくのかと思っていた(丁度五道化それぞれが王国を支配してもいたし)。それなのに全くそんなことはなく、五道化とキングオージャーが因縁を作るでもない上に、倒される時には下級怪人と同じくらいの扱いであっさりと倒されていく。「俺の国を壊滅させやがって!」でもう因縁はできるし強敵を倒すカタルシスも充分に生まれるのに、それを敢えてハズしてきたのはさすがに驚いてしまった。もっと言うと、グローディが大体の元凶であるのもちょっと比重がよく分からない。何なら最終回でダグデドが急に弱くなったように思えてしまったし、不死を倒す力が既にオージャカリバーに宿っているのに、ダグデドを倒すロジックとして民から命をもらって巨大なキングオージャーを完成させようというのも全く分からない。ダグデドが巨大化するかはもうダグデド次第としか言いようがないのに、それがキングオージャーの作戦の根幹に据えられていて、それが完成しないからこそ民達だけ逃がそうとしていた…?目頭を熱くした方には申し訳ないが、私には理論が全く理解できなかった。そしてその疑問は当然、感動を妨げる要因となっている。

 

とはいえ物語には絶対にテーマが必要というものではないし、何より『キングオージャー』はキャラクターの個性が格段に強い。おそらくそれを踏まえての「多様性」への着地でもあるのだろう。そのキャラクター達の心の動きが私には時折理解できなくなり視聴意欲をごっそり持っていかれてしまったが、ああいうメリハリの利いたキャラクターが魅力的に映るというのは私にも分かる。何より高野さんの脚本は名乗り口上のようなセリフが良い。五音や七音を巧みに使い、つい口にしたくなるような、何かの歌詞から抜き取ったかのような素敵な表現は聞いていて非常に心地が良かった。だからこそ、そういう口上を普段からサラリと出せる一話完結型のいつもの戦隊フォーマットのほうが輝いていたのではないか…とも思うのだけれど、それはまたいつか未来に期待したい。

 

という理由で自分にはこの作品が全く合わなかった。本当にここまでスーパー戦隊が合わないということは初めてかもしれない。仮面ライダーでも微妙に感じてしまった作品は多いが、それらを超えるくらいにハマれずかなり動揺している。ただ、47作もあれば自分が置き去りにされることもあるはずで、それは『キングオージャー』が最終回で言っていた多様性にも繋がってくる。シリーズ全てが自分の趣味の範疇に収まるとは思っていないし、むしろ遠ざけたいくらいの作品が存在することこそがシリーズの存続には不可欠なのである。それに『キングオージャー』は実際熱狂的なファンも生み出している。コンテンツを支えてくれている人々がちゃんと感動できているということは、届けるべき層には届いたということだろう。それはファンを裏切らないという意味で素晴らしいことであり、独自性を貫いた姿勢は本当に素晴らしいと思っている。それと同時に、この祭を外から眺めることしかできなかったのが非常に悔しい。

 

何より映像表現においてはシリーズにおける革命が起きているし、今回培ったノウハウはこれからも戦隊やライダー、更には邦画界を盛り上げるきっかけになるかもしれない。そういう意味でやはり『キングオージャー』はシリーズの転換点もしくは異色作になるであろう可能性を多分に秘めており、簡単に「つまらなかった」で済ませられない何かを持つ作品なのである。スーパー戦隊がこんなにスケールの大きな作品に挑戦したという事実は、後続の作品に大きな影響を及ぼしていくだろう。撮影技術の進歩は視覚的な変化だけでなく、スケジュール調整などの面でも役立ち、コンテンツに新たな展開を生むきっかけにさえなってくれるかもしれない。

 

そして最後にとってつけたように言うのは少し卑怯かもしれないが、私は第28話「シャッフル・キングス!」がかなりツボにハマった。この回だけは戦隊史上屈指の面白さと言ってもいいかもしれない。スーパー戦隊ではお馴染みの入れ替わり回なのだが、6人全員の演技力と解像度が高すぎる。カグラギ入りのヒメノを演じる村上愛花さんの豪胆さにとにかく笑ってしまった。普通こういう回なら女性の精神が入った屈強な大男であるヒメノ入りカグラギが面白くなっていくはずなのに、村上さんの演技力が突出していてとにかく面白いのである。リタとヤンマもそれぞれ特徴を捉えていて、きっと役者陣はたくさん話し合ったのだろうなと現場の暖かさを感じることができた。そしてジェラミー入りのギラを演じる酒井大成が凄い。いつもニコニコしているジェラミーの表情の完コピが素晴らしい出来栄えで、イジっているのではないかというくらいに絶妙なツボを突いてくる。もうこのモノマネが6人の中で鉄板ネタになっているんじゃないかというくらい面白いから不思議だ。この第28話だけは役者陣の演技力の賜物で途轍もない出来栄えなので、絶対に後世に語り継いでいきたい。何なら第2部はずっと入れ替わりでもいいというくらいハマっていた。

 

最終回を迎えたが、『キングオージャー』の物語は4月に予定されているVシネクストへと続いていく。『ドンブラザーズ』が関わっていながら井上脚本でないのは残念なのだが、『キョウリュウジャー』に関しては竜星涼や飯豊まりえまで揃うというのだから、リアルタイムで観ていた人間としてさすがに期待せざるを得ない。複雑な思いを抱き続けた1年間だったが、それでも1年間毎週観ていれば愛着も湧く。数年後には懐かしくなってまた視聴するかもしれないし、その時には今と違った角度で観ることができるかもしれない。何はともあれ、1年間本当にお疲れさまでした。

 

 

 

 

 

映画『身代わり忠臣蔵』感想 めちゃくちゃ笑った首ラグビー

数か月に一度公開されるコメディ風の時代劇映画がかなり好きになってきている。直近だと神木隆之介の『大名倒産』だろうか。戦が云々という血生臭い話よりも会話劇の面白味に注力したり、展開のテンポが早かったりと、時代劇に馴染みのない若者にも受け入れてもらえるようにという努力が垣間見えるし、実際それが自分にはとてもハマっているような気がする。私は時代劇が地上波で覇権を取っていたような時代に生まれていないし大河ドラマを観る習慣もないので本当に歴史ドラマに疎い。忠臣蔵についてもこの映画で赤穂浪士のことだと知った。単語自体は聞いたことがあっても、それが歴史上のどの出来事なのかを結び付けることができていない。きっと上の年代なら忠臣蔵と聞いただけで題材にした代表作をいくつも挙げることができるのだろう。何なら『身代わり忠臣蔵』と聞けばある程度この物語の筋を理解できてしまうのかもしれない。

 

ひとまず原作をと思い、土橋章宏先生の小説を読む。『超高速!参勤交代』もタイトルだけは知っていたので、界隈では有名な方なのだろうなあと何となくフワッとした先入観を持って読んだ。思えば時代小説を読むのは初めてかもしれない。そこで忠臣蔵赤穂浪士の物語だと分かり、ネットで忠臣蔵の基礎知識を入れながらも1日で読破してしまった。素直に面白い。重要な登場人物のうち2人が女好きということもあってちょっと下世話な部分が多いかなという感想は抱いてしまったが、結果的に対立する立場にあった2人の友情の物語へと帰結していく様は読んでいて清々しかった。歴史上の出来事を基にした作品は史実をどう解釈するかという点も大きなポイントだと思うのだけれど、赤穂浪士についてほとんど知らない私でも、これがかなり大胆な作品であることは分かった。吉良上野介は実は最初に死んでおり、身代わりだった…というのは、忠臣蔵をよく知る人々にとってはとても目新しい導入なのだろう。

 

正直映画館でリラックスしながら2時間近く過ごせればいいかなという軽い気持ちで向かったので、実際映画を鑑賞してかなり驚いた。原作と…全然違う…!!!しかもエンドクレジットを見れば脚本も原作の土橋先生が担当している…!原作にかなり大胆なアレンジを加えたなあこっちのほうが好みかもなあ映像向きだなあなんて思っていたら、アレンジどころか本人が映像化への最適解を導き出していたとは…。

ネットを漁ると、正に映像化するに際してのあれこれを土橋先生が語っているインタビューが見つかった。

screenonline.jp

 

ちょっとご時世もあって安易に原作とか脚本だとかを引き合いにだすことが躊躇われるのだけれど、私はこの『身代わり忠臣蔵』はかなりすごい映像化作品だなあと思う。小説では2人の友情が文学的なものに感じられたが、映画を観るとしっかりとエンターテインメント性が強固なものになっている。映像的な面白可笑しさも加わっているし、物語の筋もだいぶ変わっている。更に言えば主演のムロツヨシのおかげで全体的に柔和な空気感が醸し出され、人を殺すか否かという物騒な物語であるにも関わらず、コメディとしてとても面白く観られるのが素晴らしい。ムロツヨシといえばアドリブという印象だが、その良さがかなり引き立っていたのではないだろうか。

 

原作では孝証よりも先に永山瑛太演じる大石内蔵助が相手の正体を知ることになる。しかしそれも切りかかった最中のことであり、直後には2人で話し合い事の真相を共有する運びに。その結果、亡くなった吉良本人の遺体を使って仇討ちを成し遂げたことにしてしまおう…という形で物語が進んでいく。もちろん当日大石が少し出遅れるなどのアクシデントはあるものの、この約束が果たされるか否かという点に焦点が絞られていた。

かたや映画では孝証のほうが先に大石達の正体を知り、仇討ちの可能性が濃厚であることに気付き怯える描写が生まれている。そして原作に存在していた孝証の病の存在は消え去り、兄の遺体の所在も孝証は知らないため、大石達だけでなく自分の家臣を守るために彼は一人死を決意する。しかし大石もその覚悟を受け止めきれず迷いが生まれ…という、武士道に則ったような孝証の心情を軸に終盤の展開が構成されている。敵同士でありながら奇妙な友情を築いてしまった2人の男の物語であることは共通しているものの、ディティールはかなり違っており、小説と映画で受ける印象もだいぶ異なっていると言えるだろう。

 

主演のムロツヨシが素晴らしいのはもちろんだが、他の面々も引けを取らない。林遣都のMっ気のある家臣の演技も良かった。川口春奈の暖かみのある存在感も素晴らしかったし、無論もう一人の主人公とも言える永山瑛太の、上と下の板挟みになって苦しむ姿もすごく様になっていた。演技力もだが、脚本でそれぞれのキャラクターに小説以上の個性が付与されていたのも良かったのではないだろうか。林遣都の漬物なんかは忘れた頃に伏線として機能する仕掛けになっていて、死体を漬物にしていたという面白可笑しさも含めて満点。というかムロツヨシが2人並んでいるというのがもう映像的に面白すぎる。ただ一番笑ったのはやっぱり「首ラグビー」。首をパスしながら街中を逃げ回る姿に「もうこれラグビーだろ」と思っていたらホイッスルの音までし始めて本当にラグビーをやり始めたのでさすがに笑ってしまった。場内でもかなりウケていたような気がする。男が一人死の覚悟をした後なのに、人の首でラグビーをしてこんなに貪欲に笑いを取りにくるような映画はさすがになかなかない体験である。ともすればB級のホラー映画が好んでやりそうなのに、こんなに万人受けしそうなコメディ時代劇でそれをやっているのが面白い。これ北野武の『首』でもやってよかったんじゃないだろうか。

 

土橋さんのインタビューにもあったが、若い人のほとんどはおそらく時代劇に触れてきていない。20代である私も実際そうだった。そして今後も積極的に触れようと思うには、あまりにコンテンツが世界にありすぎて追いつかない。どうしても優先順位は低くなってしまうだろう。しかし知られていないからこそ、改めて時代劇をやる意義はあるのだと思う。それこそファッションなんかは数年の周期で同じものが流行しているとも言うし、何かが大きく跳ねれば時代劇が流行の先端になることもあるのではないだろうか。自分としてもこうしたコメディ時代劇はかなり入りやすいので、継続的に映画になっていってほしい。とりあえず『超高速!参勤交代!』を観なければなと思った。