スーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』総括 他人の祭になってしまったもどかしさと、シリーズの転換点になるという確信

スーパー戦隊シリーズ第47作目『王様戦隊キングオージャー』が最終回を迎えた。戦隊全員が王様で物語の舞台も我々の住む星とは違うチキュー。シリーズを観てきた者からすると考えられないくらい大きなスケールで物語が展開され、かなり意欲的で挑戦的な作品だったと改めて思う。だが、私は全く肌に合わない作品だった。いや全くと言うと嘘になる。正確には序盤から中盤までは何となく「斬新なことやってるな~」という感想を持ちつつフラットに観ていた。前番組の仮面ライダーが終わるとすぐにスマホであれこれ調べたり呟いたりしてしまうため、どうしても集中力が削がれる。なので本質的に『キングオージャー』の話の筋を理解できたのは数週間前に1話から復習を始めてからと言えるだろう。ただ、リアルタイムの時点で私の『キングオージャー』への興味はもう薄れていたのかもしれない。そう思う根拠は『機界戦隊ゼンカイジャー』や『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の時は画面に食らいついて観ていたからである。それほどまでの視聴意欲を継続できなかった時点で、私は既に篩に掛けられていたと言ってもいいだろう。そしてネットの評価に目を向けると、面白いことに『キングオージャー』という作品はかなり物議を醸しているらしい。賛否両論などは当然のことで、絶賛派と否定派の極端さがとてつもないことになっていた。戦隊シリーズがここまで荒れたことも珍しいかもしれない。そんな評価を横目に毎週視聴をし、いざ最終回前だからと復習をしたところ、私もこの物語の歪さに気付いてしまい、完全に目線が「諦め」になってしまった。

 

ただ、最終回同時視聴のイベントなど、これまでの戦隊シリーズではなされなかった試みが実現しているのも事実である。Blu-ray第1巻の初回限定盤も速攻で売り切れていたし、ネットでもトレンド1位になるほど多くの人が熱狂している。スーパー戦隊仮面ライダーよりも人気の面では劣るというイメージがあったが、このネットでの熱狂具合は完全に追い風が吹いている時の仮面ライダーである。私は『ドンブラザーズ』がかなり好きだったしネットでも好評価を多く見かけたが、それでもここまで大きな規模ではなかったように思う。もちろん作り手のSNSの使い方なども関係しているのかもしれないが、逆に言えばそういった層の熱狂を生み出す力を持つ番組だった、ということでもある。

 

とはいえ、フィクションに対しての感想は一個人が面白いと思ったかそうでないかのどちらかだと思うので、私は「なぜ世間にウケたか」なんて分析しようとは思わない。そのためここからの文章は、私が『王様戦隊キングオージャー』に対して一線を引いてしまった理由をつらつらと書いていったものであることを先に断っておきたい。シリーズの中でも稀に見るほどに画期的な画作りがなされた本作、私が感じたのは最初こそ違和感だったものの、視聴を続けていくうちに拒否感へと形を変えてしまった。

 

 

 

 

スーパー戦隊を手掛けるのは『獣電戦隊キョウリュウジャー』以来10年振りとなる大森P、斬新で独創的な画作りが評判の上堀内監督、そしてスーパー戦隊初参戦かつ特撮メインライターとしても初登板の脚本家高野さん。『ゼンカイジャー』『ドンブラザーズ』が平成仮面ライダーというブランドを築き上げた白倉Pに拠るものだったことを考えると、その「反逆」として敢えて若手を起用したのかなとも思える布陣である。スーパー戦隊存続の危機というのはネットでも度々盛り上がるが、やはり『ゼンカイジャー』と『ドンブラザーズ』はベテランが手掛けていただけあって、物語の面白さ以外にも作品内外の仕掛けを感じることができる作品だった。毎週の視聴を継続させていこうという思いが作品にも表れており、実際私にとってこの2作はかなり思い入れの深い作品になっている。

 

ただどちらもスーパー戦隊としては見た目の時点で型破りな戦隊。『ゼンカイジャー』はメイン5人の中に人間が一人しか存在せず、『ドンブラザーズ』はその狂ったようなネーミングセンスもさることながら、メンバーの中に極端に背の低い者と極端に背の高い者がいてCGが用いられていた。要は出オチなのだが、物語の牽引力でそれが出オチではなくきちんと「入口」になっているのが素晴らしい。「なんだこの変な戦隊は」という入り口を設けた後にも、そのインパクトに引けを取らない物語がちゃんと用意されているのだ。もちろんハマれない人はいるだろうが、それでも話題作りの面で「戦略」を感じさせる作りに、シリーズを長年観ている者としては興奮を覚えずにいられない。だがそれは逆に、後続作品のハードルを高めることでもある。

 

そこで出てきたのが『王様戦隊キングオージャー』。この端的な番組タイトルの中に「王」が3回も入っているのがまず凄い。正気とは思えないネーミングセンスだが、あらすじや設定は更にとんでもなかった。舞台はチキューという架空の星で、戦隊メンバーはそれぞれが一国の王様という斬新さ。スペースオペラを題材にした41作目の『宇宙戦隊キュウレンジャー』が、上からの指示で第1話から地球で物語を展開しろとされていたことに白倉Pが苦言を呈して最初数話は他の星での物語になったというのを耳にしたことがあるが、そこから6年、何とSFかつファンタジーの世界観でのスーパー戦隊が誕生したのである。

 

だがそれは決して設定上だけのものではない。テレビ番組である以上、視覚的に世界観に説得力を持たせる必要があるが、新技術の導入によって『キングオージャー』はそのハードルさえも越えてしまった。東映の番組サイトでも熱心に大森Pが紹介しているアセットやLEDウォール。『ゼンカイジャー』以降度々使われてきてはいるものの、『キングオージャー』は物語の大半がセット内で完結するという、これまでからは考えられないほどに驚異的な撮影方法を用いている。新しいことを一から始めることの難しさはそれこそ番組サイトでも語られているが、実際映像で観ても「なんだこれは!」と驚いてしまえるのが恐ろしい。中世のヨーロッパや江戸時代を舞台にした五王国が見事に映像に再現されているのだ。正直、日本のドラマではまず観ないし、映画でもこれほどのスケールの作品はなかなかないだろう。それほど映像的に斬新なものが毎週放送されていたというのは本当に凄いことだと思う。

 

加えて『キングオージャー』はスーパー戦隊では初めて、TVerで放送後に配信されるようになった。この功績に関しては大森Pがネットインタビューで語っている。

xtrend.nikkei.com

 

現代は番組を観ていなくともテレビ放送後にSNSで番組の情報が出回る時代。そのような状況下で、他のドラマと視覚的に差別化された『キングオージャー』のキャプション画像が目に入り、とりあえずTVerで今週分を観てみる…という動線もあったのかもしれない。何よりTVerは無料で観ることができる。社会人になるとつい年会費を払ってAmazon Prime等のサブスクに頼ってしまうが、お小遣いで生活している学生などにとっては家庭環境次第でそれさえも難しいはず。「映像作品にお金を掛けない世代」や「録画して観る程の意欲を持たない層」に対して1週間無料でアプローチができるというのは大きな強みなのだろう。個人的にはこうした戦隊新規もしくは戻ってきたファン層が生まれたということも、感想の多様性に一役買っているのではないかと考えている。

 

と、色々語ってしまったがここまでは「前提」である。『キングオージャー』という番組は映像のクオリティの高さゆえに視覚的なインパクトを強く打ち出すことができるのだ。そしてそれは、これまでにスーパー戦隊が作り上げてきた「子ども向け番組」という固定観念をあっさりと破壊することができる力だと思っている。子ども向けや大人向けという括りにはあまり意味を見出せていない(というか視聴者が言うことではなく、作り手がターゲット層を絞る時に使うべき言葉だと考えている)のだが、少なくとも「子ども向けの戦隊ものなんて観る気が起きない」という人に対して、こうした斬新な視覚的アプローチが出来るのは強い。シリーズの存続、その目的は新規層の開拓にこそある。そのため、「今の戦隊すごそう!」と思わせるだけで収穫はかなり大きい。興味のなかった層を一旦視聴にまで漕ぎつけさせるという意味では、『キングオージャー』ほど特化された作品は今のところないと言っていいだろう。視覚的な斬新さ。これはこの番組が持つ紛れもない武器なのである。

 

実際、第1話冒頭を観た時は心が震えた。いや実際、今でも感動してしまう。「どうだすごいだろ」と言わんばかりにじっくりと五王国を見せつけられ、そのあまりの作り込みに胸が熱くなるのだ。一時停止して細かく見ると、それぞれの国の特徴が細部にまで盛り込まれているのがよく分かる。ハリウッド映画を観ているとこのクオリティのCGは当たり前かもしれないが、五王国のデザインはハリウッドのようなスタイリッシュなものではなく、ニチアサの枠組みを外れないごちゃごちゃしたものなのだ。細かいことを言うとキリがないのだが、画面がかなり楽しくなり、モチーフをとにかく散りばめていくザ・ニチアサスタイル。一般的な映画だったらこうはならないというニチアサ独自の味わいが、最新の映像技術によって表現されていることがもう面白くて堪らない。

 

ただ、「第1話冒頭を」と書いたのには理由がある。ここからは『キングオージャー』の物語について触れていきたいと思う。私がこの作品についていけなくなったのは主に物語の面であり、正直ここからは苦言を呈するパートが続く。斬新な画作りがされていた作品だからこそ、物語から受ける感動が限りなく僅かだったことがすごく残念でもあり、熱狂している人の感想がタイムラインに流れてくる度に悔しくなってしまう。間違いなくスーパー戦隊の歴史において転換点もしくは特異点になるだろうという確信を抱くと同時に、それが自分の肌に合わなかった悲しみも強く存在しているのだ。

 

 

 

 

第1話。シュゴッダムの市民だったギラが「王は道具」と言い放つラクレスに対し、邪悪の王を名乗り反旗を翻すシーン。ファンの間でも印象的な場面としてよく語られ、脚本家の高野さんもここでギラに30秒程溜めさせてからセリフを言わせたことへ称賛を送っている。だが私の頭には疑問符が浮かんでしまった。

 

いや、ここで邪悪の王を自称する理由なくない???

 

邪知暴虐の限りを尽くす悪王に対して反旗を翻す存在が「反逆者」になる構図は分かる。ギラが反逆者にされ指名手配されるという理屈も理解できる。ギラが子ども達とのごっこ遊びで邪悪の王を名乗っているというのも確かに示されている。だが、ただ国王とその側近しかいない場において、自ら邪悪の王を自称するのは、あまりに都合が良すぎないか、と思ってしまったのだ。そもそも汚名を着せられそれを受け入れるという構図は、それ以上に護りたい何かがあってこそ成立するのが基本。逆に言えばラクレスは「ダグデドにいつチキューを滅ぼされるか分からないために、機が来るまで悪王を演じるしかなかった」(ここに関しても結構言いたいことはあるが後述)ため、汚名を着せられることを甘んじて受け入れる理由が分かる。だが、1話の時点でのギラには邪悪の王を名乗る程の説得力と意味合いを全く感じられなかったのだ。その後も度々「ギラは本当は優しいのに意味もなく悪ぶってしまう人物」というのが描かれるのだが、その根拠の乏しさにどうにも物語への没入感が削がれてしまった。あの場でなら「何が反逆者だ!うるせえ!」とラクレスに殴り掛かるくらいが普通な気がする。その殴り掛かった部分だけを切り取られて国民に放映され汚名を着せられたギラが、「いつでもコガネ達を消せるんだぞ」等とラクレスに脅された結果、邪悪の王を名乗る…という話運びなら分かるのだが、民さえもその場にいない状況、つまりは文字通り悪しかいない状況で自分が悪だと喧伝するギラが全く分からなかった。リアルタイムではちょっとした違和感だったのだが、改めて全話観るとこの1話の歪さが際立って見えてしまい、作品の、そして主人公のコンセプトを決める上でも非常に大事な場面であったがために本当に勿体なく思う。何より、「ああ、ギラを反逆者にしたいんだな」と、作り手の意識だけが透けて見えてしまった。

 

第1話から第5話までは各国の紹介も兼ねて、王様5人それぞれの物語が描かれる。それと同時に、ラクレスによってギラが指名手配され、五王国の王様がそれぞれギラと関わっていくことになる。『キングオージャー』は1話完結であることは滅多になく、スーパー戦隊には珍しく連続性の高い作品であるのだが、それは既に序盤から示されていた。五王国の紹介に留まらず、ギラの処遇やギラの正体、そしてラクレスの野望に加え、バグナラクの暗躍など、多くの物語が同時に展開されていくのだ。更には真意の読めないカグラギによって、話は更に複雑になる。出てきた怪人を倒すというこれまでの戦隊フォーマットから大きく逸脱したプロットはやはり斬新だと言えるだろう。だが非常に読み解き辛い上に、物語が複雑性を増して理解が追い付かなくなっていく。何より、キャラクターの動線がこの時点で既にほとんど機能していないように思えてしまった。

 

ラクレスを討ち倒したいギラは、指名手配され連行されることを望んでいる。つまり捕まってシュゴッダムに送還されるほうが早いのだ。にも拘わらず、別に王様達にそこまで監視されているわけでもないのに、何となく世界観光をしているギラがまるで理解できない。とっとと帰ってラクレスを倒すべきではないのだろうか。王様それぞれの個性がしっかりと炸裂しているだけに、ここについても「王様一人一人を見せていきたいんだろうな」という意図ばかりが先走って見えてしまう脚本を残念に思う。何ならキングオージャーを唯一動かせる人物なのだから、自分でいつでも帰ることはできるはずなのだ。それなのに特に目的もなく他の王に連れられて街ブラを楽しんでしまう。この時点で、ギラお前は何を考えているんだ…と私にはギラという人物が分からなくなってしまった。そして第5話、王様達の捜査によって、ギラがシュゴッダムの王子でありラクレスの弟だということが明かされる(実際には児童誌か何かで先にギラ・ハスティーというフルネームが明かされていたらしいが…)。主人公が王族であり、倒すべき因縁の相手の弟というのはかなり衝撃的な事実…のはずなのだが、この種明かしが種明かしで終わってしまっているのも非常に残念。

 

ギラが弟だと聞いてまずこちらが思い浮かべるのは、「なぜギラはそれを覚えていないのかorなぜ言わなかったのか」だろう。これについては幼い頃に食べさせられたレインボージュルリラの副作用によって凶暴化し記憶が失われたということが後々明かされる。だが、その時のギラ自身は「なんかラクレスに励まされた時のことは覚えてる」(by決闘シーン)くらいのノリで済ませてしまう。普通なら「なぜ僕はそれを知らなかったんだろう…」という流れになるし、仮にギラが天然だとしてもリタ達が「どうして言わなかった?」となるはずである。それと同時に、キングオージャーを動かせるギラの奪取は、それぞれの国力増強のために五王国の王様としても悲願だったはず。ギラがシュゴッダムの王家だと分かれば他の国王達は迂闊にギラを手に入れることが難しくなる…なんて動きも想像できるのに、その一切が『キングオージャー』という番組には存在していない。

 

私にはこれらが、「ギラはラクレスの弟だった」と言いたいだけの展開に見えてしまったのだ。主人公が宿敵の弟という展開は確かに燃える展開になるパターンだが、『キングオージャー』自体はその衝撃度を描写していないように思う。もちろん、それによりギラが罪人ではなくなったという一応の決着はつくのだけれど、ラクレスの弟であると判明したなら、もっと物語に動きが出てもよくないか?と思ってしまうのだ。もちろんこれが気にならない人はきっといるだろうし、私の考えを番組に押し付けているだけとも言えるかもしれない。ただ『キングオージャー』はこういったように「こっちが想定しているもの」をかなりハズしてくることが多いのである。あくまで個人の感想ではあるが。

 

その後、確か第6話で、ラクレスが秘密裏にもう一体のゴッドクワガタを作っていたことが明かされる。つまりギラの特権であったキングオージャーを操る力を、ラクレスも自由に扱うことができることが分かった。これによりシュゴッダムは他の国に比べて、軍事力の面で一歩リードした形になる。他の国は一刻も早く対策を立てなければならない状況に陥った…はずなのだが。バグナラクを打ち倒したキングオージャーが、ギラと手を取り合ったゴッドスコーピオンに攻撃されたことで、ギラは遂に民にも悪人扱いされてしまう。何故ゴッドスコーピオンがそのような攻撃をしたのか…と謎を残し、第7話へと突入する。いや、ちょっと待ってほしい。まずはラクレスが動かしたキングオージャーのことをやってほしいのだ。これはスピンオフで触れられているからとか、そういう問題ではない。その場に居合わせその事実を知ったキャラクター達の心情を捉え、動線を引いてほしいという意味である。

 

 

 

 

確かにゴッドスコーピオンの攻撃(余談だがゴッドスコーピオンの毒、マジで色々な状況で武器として使われてるの悲しすぎる)ですぐに分解できる程度の合体ではあったが、シュゴッダムが秘密裏にシュゴッドを作り出していたというのは他の国王にとってはかなりまずいことなのではないのだろうか。何より当の本人であるラクレスはシュゴッダム及び全世界を支配しようとしている(少なくともこの時点ではそう思われている)のだ。そんな奴が自分達のロボを自由に操れるかもしれないというのはかなり恐ろしい状況と言えるだろう。それなのに第7話では、ゴッドスコーピオン(サソリーヌ)がどうしてキングオージャーを攻撃したのかが話の核になる。6話のラストではもう一体のゴッドクワガタに対して「お前誰だ!?」とまで言っていたギラも、反逆者扱いによってコガネ達との物語を展開してしまう。カグラギとリタがこの事態の危険性に言及する場面(ラクレスはゴッドクワガタを作っていたから同盟を破ったのだろうと気付く)もあるのだが、第7話は何故か傷ついたシュゴッドを修理するか治療するかで対立するヤンマとヒメノの物語になる。

 

もちろんこれが悪いことではないし、シュゴッド達を救わなくてはというのも分かる。そしてゴッドスコーピオンがどうしてこんなことをしたかという話をやるのも別に大問題というわけではない。ただ、優先順位がどうしても歪なのだ。リタとカグラギが状況に危機意識を感じて動いたのなら、ヤンマやヒメノの立場がない。何より視聴者の意識も「あのゴッドクワガタの正体は!?」という方向に向いていてそれを捜査することがキャラクターの動きとして全く違和感のないものなのに、そうしようと努める存在が皆無なことに、どうしても「作り手の存在」を感じてしまう。おまけにギラはコガネ達を人質に取られ、決闘裁判を強いられる。この場面も形だけ見たら直接的に民に寄ってきた分、カグラギやリタのほうがラクレスより悪人に見えなくもない。オオクワガタオージャーの販促もあるだろうし、これからも度々起こる兄弟対決の第一戦として第8話が重要なのはよく分かる。よく分かるのだけれど、一方で作劇自体が「決闘裁判をやるために強引に物語が進められている」と感じてしまうのだ。もちろんそれをスピーディーな展開と捉える人もいるかもしれないが。

 

そして第8話では決闘裁判が行われるのだが、これに関しては王様達が出来レースを企てていた。ゴッドスコーピオンの毒をカグラギからラクレスに渡しておき、ラクレスならこれを使って卑怯な手で勝とうとするだろうと考えたのである。目的は「ギラを死んだことにする」ため。カグラギ達がラクレスと話し合った時にはゴッドスコーピオンが仲間かどうかもまだ判別がつかなかったのにこの手を使うのはどうなんだろうという歪さもあるが、ギラにとっての一大対決であるはずの展開が、実は仕組まれていました~というのは肩透かしに思えてしまった。ギラにとっては人生を変え、一国を変える程の対決であるのに、それが王様達の策略に過ぎず、何よりその策略さえもバグナラクの介入で狂ってしまう。結果的に崖から落とすだけなら別に毒のエピソードは一切いらないだろう。もちろんそれによってラクレスがギラの死体捜索に躍起になるのだが、それ自体もお前急所外してるしそもそもギラを殺す気ないのだから別にいいだろ…と思ってしまうのだ。構成が無駄に複雑になっているというか、毒を使うなどという変な前提に拘るのであれば、きちんとギラとラクレスの心情をクローズアップしてほしかったというのが本音である。何より、ラクレスは何か真意がありそうだしカグラギも本音は分からないし物語は重要そうなことを保留にするしで、真面目に向き合うことが難しくなってしまった。「どうせ衝撃の事実っぽいことを出して、こちらの裏をかこうとしてるんだろうな」と、作り手を信用できなくなってしまったのである。

 

本来のスーパー戦隊は毎週必ず怪人を倒すというノルマを課すことで複雑な動線を一本にまとめることができていたのだが、フォーマットから逸脱した『キングオージャー』は、逸脱だけではなくキャラクターの言動が今後の展開を示唆する「含み」なのか脚本上の「欠陥」なのかも判別がつかないままに、とにかく強引に話が進められていく。各話に触れていくとキリがないが、「主人公が王家の血筋」「宿敵が兄」「悪(バグナラク)は本当は悪ではなかった」「ギラはラスボスのダグデドによって作られた存在」「悪役を演じ続けていた男」「全員参加のクライマックスバトル」などなど。これら本来エモーショナルにできる場面が、ことごとく積み重ねのないものでスベっているように私には見えてしまったのである。もちろん事前に考えていた設定もあるのだろうけれど、『キングオージャー』はその一つ一つに焦点を当てる時間が少ないままに、衝撃度が高そうな事実や展開ばかりを披露していた。視聴者である私達は『キングオージャー』で初めてフィクションに触れるわけではないはず(子どもの中にはそういう子もいるかもしれないが)。そのため「宿敵が兄」などの要素は確かに辛く苦しいものに見えるし、例えば作品を知らない人に対して「主人公が倒そうとしてるのは実の兄なの」と説明したら、悲劇的な物語を連想してくれるだろう。だがその悲嘆をゼロから生み出せるだけの積み重ねは、『キングオージャー』には存在していない。例えば孤児院で育ったギラ(そもそも誘拐ってなんだよとは思っているが)がずっと家族との再会を夢見ていた…という設定があれば、倒すべき敵が兄であることの重みは生まれるし、まして自分を生んだのがダグデドだったと知った時の衝撃はかなりのものだろう。何ならそこから、両親を殺されたヒメノや妹を溺愛するカグラギ、母親想いのジェラミーとの関係性も「家族」を軸として紡ぐことができるかもしれない。それなのにこの作品は「ギラはラクレスの弟でした!」「ギラはダグデドに作られた存在でした!」とただ設定を語るのみに留まっている。弟だったから無罪になった、ダグデドに作られたからシュゴッドの言葉を理解できた、という「納得」は生まれるが、そこに「感動」を見出すことは私にはできない。

 

これはあくまで私の見方なのだが、物語というのは受け手の心情をどれだけ丁寧に誘導するかがカギだと思っている。「衝撃の事実」として種明かしをするのなら、事実を開示するだけでなく、そこに感情を肉付けなければならない。キャラクターの感情がなければそれはただの「事実」でしかなく、「衝撃」は生まれないのである。すごく簡単な例にすると、「自分の親友と自分の妹が付き合っている」と知ったら誰しも衝撃を受けるだろう。しかし「自分の知らない隣の県の学校の〇〇さんと△△さんが付き合っている」と聞かされても、誰も興味は持てないはずだ。その「隣の県」を如何に「親友と妹」レベルの距離へと近づけられるかどうかが、事実に衝撃を付与していくということなのである。

 

そういう意味で、『キングオージャー』は事実や設定の開示にばかり注力し、それにより各登場人物の考えがどう変わるかをほとんど描かない、もしくは描いていてもあまりに積み重ねが足らない。おそらく作品で最も力を注がれていたであろう「ラクレスは実はダグデドを倒すために邪知暴虐の王を演じていた」という設定も、辻褄合わせこそできているものの、感情移入することは一切できなかった。似たような設定で『ハリー・ポッター』シリーズのスネイプ先生を思い浮かべる方も多いはず。ハリーに常に嫌味を投げ掛けるスリザリンの担任だが、実際にはハリーの母親を死後も愛し続け、彼女の息子であるハリーをずっと見守り続けていたということが終盤で明かされる。これが感動を生むのは、スネイプがハリーを実際にずっと虐げてきたという土台を積み重ねてきたからこそだろう。時にねちねちと嫌味を言い続け、時にハリーを貶めようとしているように思えた彼の言動が、実は全て彼を守るためのものだったと明かされたからこそ衝撃度は大きくなる。しかしラクレスは最悪の王とレッテルを貼られながらも、直接的に人の命を脅かすようなシーンは本編ではほとんどない。民を道具と言ってはいたし、民のピンチにも出動しないことがあったし、ンコソパが侵略されたりもしたが、正直シュゴッダム国王としてはそこまでの邪悪さはなかったと思う。もっと言うと、ラクレスがダグデドを倒すことを決意し、悪に身を落とすことを考えた理由も、「神の怒り」の一辺倒で片付けられ、ラクレス個人の重みが存在していないのが残念であった。両親を殺されたようなものなのだから、普通に両親の仇でよかったと思う。

 

この「設定に重きを置く」タイプの作劇は前作の『ドンブラザーズ』の脚本を手掛けた井上敏樹さんのスタイルとは真逆なので、『ドンブラザーズ』に心酔していた私が『キングオージャー』にハマれないのも必然なのかなと若干は考えている。最悪積み重ねはなくてもいいのだけれど、『キングオージャー』は事実開示後の物語の展開も非常にこじんまりとしている。ダグデドを倒すためにラクレスは民を虐げてまで悪王を演じてきた…のならば、ダグデドが復活してしまった時に彼が感じる衝撃はもっと大きなものなのではないだろうか。バグナラクは歴史によって悪にされてきたと知ったのならば、ジェラミー以外の全員が、自分達がこれまでバグナラクを倒してきたことに何かを感じたりはしないのだろうか。まるで「出したら終わり」というような設定の出し方が凄く不親切なように思えたのも、私がハマれなかった一因だろう。物語の設計図を眺めているような感覚というか、未完成品を観ているような感覚に陥ってしまったのである。

 

ここまで物語の「設定」について話したが、次はもっと根本的なことに触れていきたい。それは簡単に言えばシリーズにおける独自性についてである。スーパー戦隊シリーズは第47作目だが、毎回手を変え品を変え、自分達のカラーを打ち出してくる。そしてそれは往々にして作品コンセプトとマッチしている。忍者、恐竜、車、列車。様々なモチーフが存在する中で、『キングオージャー』が選んだのは「王様」と「虫」。架空の惑星を舞台に全員が一国の王であるという斬新な物語設定と、意外にも単体でのモチーフは初めての虫。今考えると女性キャラクターにカマキリをあてがう辺りもかなり冒険だなと思う。そして虫の王道であるカブトムシを敢えてヒーロー達から外してくる辺りも潔い。何より、虫モチーフは仮面ライダーの十八番であるにも関わらず、堂々と打ち出してくるのだからすごいものである。ただ、正直『キングオージャー』は虫とはあまり関係ない物語なので、虫に関しては割愛させてもらいたい。ちなみに、虫はそのままだと嫌悪感を持ってしまう人もいそうなため、機械で改造された虫型の守護神をロボとして出したのはかなり正解だなと思っている。それをヤンマ1人でやりましたというのはちょっとパワーバランス的に驚きだが。

 

私が言いたいのは、王様のほう。そう、「お前ら王様の器じゃなくね?」問題である。もちろん作品内で彼等は幾度となく王様であることを強調し、民のためだと言って行動し、悪を討ち滅ぼそうと励んでいる。実際彼等は紛れもなく王の地位に就いているのだが、果たして王とは何なのだろうか。民主主義の国に生まれた私達日本人にとって王様というのはあまり馴染み深い概念ではない。唯一カグラギは大殿様だが、江戸時代を体験していない私達にとっては他の国とそう変わらないだろう。だからこそ、王という身近に居ない存在をモチーフにする英断は素晴らしいと思う。だが、王の話をする上で彼等が何故王なのかと問われた時、「王の器があるから」ではなく、単に「前の王に認められたから」で大概のメンバーが済ませられてしまうのはかなり苦しかったと言える。そして何より、「王様戦隊」を自称しながら、この物語は民の存在が希薄なのだ。

 

『キングオージャー』では第1話から「王が国を守ってくれるから民が身近な人々を守ることができる」というセリフが語られる。この視点は非常にいいと思ったのだが…どうやらこのセリフは「民一個人を守るのではなくあくまで国のことに目を向ける」というような意味で使われていた節がある。いや、そうではないのだろうけど、そうなのではないかと邪推してしまうほどに、『キングオージャー』における「王様」という概念は残念な描写に留まっている。というのも彼等の多くが、民意が反映された結果での王ではないのだ。ヤンマはンコソパを立て直した実力者として周囲に認められている節がある。カグラギもイロキを倒した功績が認められたと言えるだろう。しかしそれ以外のメンバーはあくまで「前王から認められた」だけである。ヒメノは両親の死によって仕方のない就任ではあったが、どちらにせよ民意が反映されたとは思えない。彼等は年齢もかなり若いし、政治に長けたわけでもない。むしろ王様らしくない一面ばかりが強調されている作劇が多かったと言えるだろう。何より、打倒ラクレスや打倒ダグデドに関しての意見交換や対立をすることはあっても、自国のことは特徴くらいしか語らない。

 

彼等と民とが直接対話する場面があまりに少ないため、こちらは王としての振る舞いを想像することしかできないのだ。もちろん実際の歴史においても民が王に近づくことなど難しかったのかもしれない。しかしそれでも、フィクションで王様をやる以上は民を描くことが重要である。その上で『キングオージャー』の民の描き方はかなり一面的だった。ゴローゲが大きい声で何かを叫ぶだけでシュゴッダムの民の心情は一意に決まり、民意はよからぬ方向へと流れていく。ギラが反逆者という設定を際立たせるための装置でしかないのである。最初こそゴローゲのキャラクターを面白がっていたのだが、段々とゴローゲの一言で全てが決まるこの民達に嫌気が差してしまった。そして民を描かないということは即ち王を描けていないということでもあると言える。彼等は人の上に立つ器かどうかということを気にせず、前線に赴く。それを「迷いのないかっこいい王様」と好意的に解釈することもできるのだろうが、独善的で時に自分の国の崩壊(ンコソパ崩壊後にヒメノの結婚相手に立候補するヤンマなど)さえ招いてしまう彼等が、人の上に立つことは許されるのか?という方向に気持ちがいってしまった。もっと簡単に言うと、こんな人達が自分の国を支えていると思った時に不安しか感じなかったのである。

 

もちろん王鎧武装できる時点で脅威から民を護る能力は保有しているのだけれど、実際王様が果たす役割というのはそれだけではないはず。民の生活のために様々にできることがあるはずだ。ギラなんかは孤児院育ちなのだから、孤児院の環境を整えるとか。そういう、民に寄り添った話をもっと展開していってもよかったのではないだろうか。『キングオージャー』は結局敵との戦いへの比重が大きく、正直彼等の自称する「王様」という肩書が非常に形骸的なものに感じられてしまったのである。王になる物語だと言っていたのに、単に悪い王様を倒せば王になれるというのは何だか違和感がある。まして前王が最悪の王だったのだから民の目も厳しいものになっているはず。それなのに敵を倒せばそのまま王になるギラ。元々王子だったとはいえ、あまりに民意が画一的すぎるのではないだろうか。もちろん王に対して異を唱える存在が全くいなかったかと言われるとそういうわけではないのだが、彼等が王を名乗るに値するほどの描写はなかったかなと思う。

 

何より、五王国それぞれの王様という壮大な設定なのに、結局やっていることは頻繁に集まって敵を倒す作戦を企画するという、「いつものスーパー戦隊」になっていることが気になった。当初は自国の利益を優先する王様達が気持ちを一つにするなどありえない、みたいなコンセプトがあったと思うのだが、大きな脅威を前にそうも言ってられず、カグラギがたまに暗躍しているというくらいで、戦隊としての方向性はかなり一致してしまっていた。もちろん医療やインフラといった各国の特色は出ているのだが、私は正直彼等が王様である必要は全くなかったように思う。むしろ王国はシュゴッダム1つにして、王子、技術班長、医療班長、裁判長、交渉人くらいに分けるくらいが妥当だったかもしれない。それなら自然とラクレスに反旗を翻す「反逆者」の構図も効いてくる。もちろんたらればの話をしても仕方がないのだけれど、5人が王様である必然性が私にはまるで感じられなかった。

 

それぞれが王様というのなら、国交的な問題をもっと抱えていてほしかったのである。例えば国交が断たれれば自国が苦しむことになるため4人の王様達はラクレスに反逆することができずもどかしい思いをしていたものの、反逆者ギラの登場で一気に風向きが変わっていくなど。5人の気持ちがなかなか一つにならないというのは、戦隊メンバーが現実に全然揃わないという話をやっていた『ドンブラザーズ』と似通ってしまっているし、実際気持ちがなかなか重ならないというのもほとんど描写されなかった。個性が強いからバラバラになってしまうというのは個性同士を擦り合わせた結果によって見えてくるものであって、「彼等は自国のことしか考えていないので気持ちがバラバラなんです!」というのをそのまま出されても言葉に詰まってしまう。何よりそのバラバラを解消していくのがスーパー戦隊の醍醐味であったはずが、バラバラを強く打ち出してきた上で割と早い段階で5人の密談パートが常に挿入されるようになってしまったのは本当に勿体ない。前述もしているが、これもやはり「積み重ねが足らない問題」と同じである。彼等は王様であることを言葉で殊更に強調するものの、じゃあ結局王として何をしてきたのかという背景が「ラクレスやダグデドを倒す算段をつけてます」しかないのである。

 

ただ民を描かない分、側近達の存在が非常に価値あるものとなっているのはとても良かったと思う。脚本家の高野さんはMOOK本で「側近のキャラ付けまで任されて大変だった」と語っているが、実際キャラクターの立て方に関しては文句のつけようがないほど上手いと言えるだろう。王様達が何となく相談できる相手として身近な存在がいるというのはとても心強いし、リタとモルフォーニャなんかは特にうまく機能していた。逆に言えば側近さえいなければもっと王達が城下に赴いて自国のトラブルを片付けるような話も観られたのかもしれないな…と残念には思うのだが、それでも側近と王様との物語や関係性には結構好きな部分が多い。

 

とはいえそんなに身近な人物との対話で事足りるというのであれば、尚更彼等が王様である必然性に欠けると言えるだろう。私は先日まで「この番組はもう王様というかただのヒーロー番組と変わらない」という印象を持っていたのだが、最終回前日の高野さんのインタビューによると「王様だからヒーローになっちゃいけない」というのを掲げていたらしく、この乖離が楽しめなかった原因か…とも思った。

 

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「王様だから時にドライな選択をすることもある」とも仰っているのだが、そのドライな選択に関して全く理由付けがされていないことが多々あったなと私は感じている。LEDウォールのおかげで見応えは例年と異なるものになっていたが、実際6人がシュゴッダム等で計画を練っている辺りは例年とあまり変わらないというか。むしろその掛け合いに遊びの要素が少ない分、少々劣化しているような手応えさえあった。

 

次は「テーマ」について述べていきたい。私は多少つまらない作品でもその作品が訴えるテーマに共感する部分があれば結構好きになれるのだが、『キングオージャー』には正直、一年を通じてのテーマが一切感じられなかった。というとさすがに直球なので他作品の例を示していきたいと思う。例えば宝石をモチーフにした『魔進戦隊キラメイジャー』は、誰しもが自分のやり方で輝けるということを説く物語だった。『機界戦隊ゼンカイジャー』は並行世界をギアで閉じていったトジテンドに対し、何事も全力でぶつかるヒーロー達が可能性を開いていくことの喜びを訴えてくれていた。『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』は、御伽噺の桃太郎のようにめでたしめでたしの大団円を迎え、桃太郎とお供という関係性から人と人との縁を描いていた。では、『キングオージャー』はどうだったか。

 

ヒーロー特撮においては、訴えたいテーマを正義側の主張とし、それの反証という形で悪を設定するというのがオーソドックスな形である。その意味で言うならば、『キングオージャー』の巨悪であるダグデドは、人を殺し宇宙を滅ぼすことを「遊び」としてしか捉えていないというキャラクターで、それに反するテーマが王様達の掲げるもの、つまりは作品のテーマとして浮かび上がってくる。しかし、こない。『キングオージャー』はあくまで民を守るために戦っているだけであり、ダグデドとの対立は結果的なものでしかないのである。実際「遊び」で人を傷つける敵というのは過去の特撮でも何度か登場している。『仮面ライダークウガ』では殺人ゲームを楽しむ怪人との戦いを通して「非暴力」が訴えられていた。『動物戦隊ジュウオウジャー』でもゲームとして星を滅ぼす存在が悪として設定されている。

 

とはいえ、すぐに「テーマはない」とするのは早計なため、もう少し考えてみたい。ダグデドの特徴を「遊び」とするならば、反するテーマは「責任」などではないだろうか。確かに王という立場に伴う責任は相当なものだろう。しかし『キングオージャー』は前述した通り王様である必然性が薄く、言葉では色々と口にするものの「責任」を訴えるほどの論拠を示してはいない。もう1つ『キングオージャー』の特徴として挙げられるのが、「反逆」である。君主に背き信念に従うその強い意志を描いている…と言えば聞こえはいいかもしれない。実際OPの「全力キング」の歌詞にも「反逆者」という言葉が使われていることから、このコンセプトはかなり初期段階から物語に組み込まれていたと考えて差し支えないだろう。だがこの反逆者という肩書も、前述の通り私はうまく呑み込めていない。それに何より、「世間で正しいとされている風潮に負けず、自分の道を突き進もうぜ」というように反逆という言葉からテーマを連想するにしても、『キングオージャー』はそういう話ではなかったように思う。

 

などと最終回放送前日まで考えていたのだが、最終回の訴えとして『キングオージャー』がピックアップしたのはダグデドの「不死」の部分だった。この作品では終盤からやたらと不死能力者が続出したが、死なないことよりも限りある命を燃やし尽くすことの素晴らしさを説くオーソドックスな着地。ただ、少し前のヒメノとジェラミーの話でもうそれは終わっていたような気もする。ダグデドだけでなくグローディも不死だったのがややこしい。

このテーマ自体は国民的作品となった『鬼滅の刃』も同じことを言っているが、正直『キングオージャー』にとってはとってつけたようなテーマだなと思ってしまった。物語の中で命の儚さや多様性はほとんど訴えられてこなかったのに、終盤になっていきなり概念が生えてくる。物語の結末をどうするのかが気になっていたのに、こんなに不誠実な形で綺麗事を訴えられるのは本当にキツかった。先に紹介したインタビューで高野さんは「子供向けだからこそ、綺麗事が本気で言える」と語っていたが、それは違うと思う。対象年齢に関わらず、物語を紡ぐということは訴えたいことに説得力を生むことでもあるはずだ。むしろヒーロー番組というのはヒーローが絶対正義であるというパターンが多い以上、一般的な作品よりも綺麗事を言わせることに対して敏感でなくてはならないのではないだろうか。ヒーローという立場から耳障りの良い台詞を吐かせることが簡単にできてしまうからこそ、その言葉に整合性を持たせ重みをつけていくことが重要なはずだ。もちろんこれは一個人の意見なので価値観の違いでしかないのだけれど、実際に最終回を観て出てきたものが本当に「綺麗事」でしかなかったので驚いてしまった。多様な価値観を認め合える世界についての希望を最後のジェラミーのナレーションで語ってもいたが、理由も大して説明せず王が民に命を差し出させ、それにあっさり従う民という画一的な構図の後に多様性を説かれてもな…と辟易してしまった。ただそういう節操のなさこそが『キングオージャー』の魅力なのかもしれない。

 

しばらく考えたのだが、結論として私の中では「『キングオージャー』は物語の進行を楽しむ作品であって、明確なテーマは存在しない」というアンサーに至った。最終回で一応の着地はできたのかもしれないが、1年を掛けてこれを表現してきたのだなあという大きなテーマは感じ取ることができなかったのである。色々なインタビューにも目を通したのだが、設定やキャラクター、脚本や映像表現に関しての話が多く、この物語が何を言いたいのかという根本的なことにはあまり触れられていなかった。むしろ「ここにはこう書いてありましたよ!」というのがあったら教えてもらいたい。テーマが明確になることで番組への解像度がぐっと上がっていくということがニチアサには往々にしてあるからである。

 

不死というキーワードが終盤度々使われており、敵と王様達を対比させる構図が全く存在していないというわけではないのに、メインテーマとしてその対比が驚くほど機能していないことが残念でならない。何なら五道化が登場した時にはダグデドも含めてキングオージャー6人とそれぞれを上手く対比させて物語を進めていくのかと思っていた(丁度五道化それぞれが王国を支配してもいたし)。それなのに全くそんなことはなく、五道化とキングオージャーが因縁を作るでもない上に、倒される時には下級怪人と同じくらいの扱いであっさりと倒されていく。「俺の国を壊滅させやがって!」でもう因縁はできるし強敵を倒すカタルシスも充分に生まれるのに、それを敢えてハズしてきたのはさすがに驚いてしまった。もっと言うと、グローディが大体の元凶であるのもちょっと比重がよく分からない。何なら最終回でダグデドが急に弱くなったように思えてしまったし、不死を倒す力が既にオージャカリバーに宿っているのに、ダグデドを倒すロジックとして民から命をもらって巨大なキングオージャーを完成させようというのも全く分からない。ダグデドが巨大化するかはもうダグデド次第としか言いようがないのに、それがキングオージャーの作戦の根幹に据えられていて、それが完成しないからこそ民達だけ逃がそうとしていた…?目頭を熱くした方には申し訳ないが、私には理論が全く理解できなかった。そしてその疑問は当然、感動を妨げる要因となっている。

 

とはいえ物語には絶対にテーマが必要というものではないし、何より『キングオージャー』はキャラクターの個性が格段に強い。おそらくそれを踏まえての「多様性」への着地でもあるのだろう。そのキャラクター達の心の動きが私には時折理解できなくなり視聴意欲をごっそり持っていかれてしまったが、ああいうメリハリの利いたキャラクターが魅力的に映るというのは私にも分かる。何より高野さんの脚本は名乗り口上のようなセリフが良い。五音や七音を巧みに使い、つい口にしたくなるような、何かの歌詞から抜き取ったかのような素敵な表現は聞いていて非常に心地が良かった。だからこそ、そういう口上を普段からサラリと出せる一話完結型のいつもの戦隊フォーマットのほうが輝いていたのではないか…とも思うのだけれど、それはまたいつか未来に期待したい。

 

という理由で自分にはこの作品が全く合わなかった。本当にここまでスーパー戦隊が合わないということは初めてかもしれない。仮面ライダーでも微妙に感じてしまった作品は多いが、それらを超えるくらいにハマれずかなり動揺している。ただ、47作もあれば自分が置き去りにされることもあるはずで、それは『キングオージャー』が最終回で言っていた多様性にも繋がってくる。シリーズ全てが自分の趣味の範疇に収まるとは思っていないし、むしろ遠ざけたいくらいの作品が存在することこそがシリーズの存続には不可欠なのである。それに『キングオージャー』は実際熱狂的なファンも生み出している。コンテンツを支えてくれている人々がちゃんと感動できているということは、届けるべき層には届いたということだろう。それはファンを裏切らないという意味で素晴らしいことであり、独自性を貫いた姿勢は本当に素晴らしいと思っている。それと同時に、この祭を外から眺めることしかできなかったのが非常に悔しい。

 

何より映像表現においてはシリーズにおける革命が起きているし、今回培ったノウハウはこれからも戦隊やライダー、更には邦画界を盛り上げるきっかけになるかもしれない。そういう意味でやはり『キングオージャー』はシリーズの転換点もしくは異色作になるであろう可能性を多分に秘めており、簡単に「つまらなかった」で済ませられない何かを持つ作品なのである。スーパー戦隊がこんなにスケールの大きな作品に挑戦したという事実は、後続の作品に大きな影響を及ぼしていくだろう。撮影技術の進歩は視覚的な変化だけでなく、スケジュール調整などの面でも役立ち、コンテンツに新たな展開を生むきっかけにさえなってくれるかもしれない。

 

そして最後にとってつけたように言うのは少し卑怯かもしれないが、私は第28話「シャッフル・キングス!」がかなりツボにハマった。この回だけは戦隊史上屈指の面白さと言ってもいいかもしれない。スーパー戦隊ではお馴染みの入れ替わり回なのだが、6人全員の演技力と解像度が高すぎる。カグラギ入りのヒメノを演じる村上愛花さんの豪胆さにとにかく笑ってしまった。普通こういう回なら女性の精神が入った屈強な大男であるヒメノ入りカグラギが面白くなっていくはずなのに、村上さんの演技力が突出していてとにかく面白いのである。リタとヤンマもそれぞれ特徴を捉えていて、きっと役者陣はたくさん話し合ったのだろうなと現場の暖かさを感じることができた。そしてジェラミー入りのギラを演じる酒井大成が凄い。いつもニコニコしているジェラミーの表情の完コピが素晴らしい出来栄えで、イジっているのではないかというくらいに絶妙なツボを突いてくる。もうこのモノマネが6人の中で鉄板ネタになっているんじゃないかというくらい面白いから不思議だ。この第28話だけは役者陣の演技力の賜物で途轍もない出来栄えなので、絶対に後世に語り継いでいきたい。何なら第2部はずっと入れ替わりでもいいというくらいハマっていた。

 

最終回を迎えたが、『キングオージャー』の物語は4月に予定されているVシネクストへと続いていく。『ドンブラザーズ』が関わっていながら井上脚本でないのは残念なのだが、『キョウリュウジャー』に関しては竜星涼や飯豊まりえまで揃うというのだから、リアルタイムで観ていた人間としてさすがに期待せざるを得ない。複雑な思いを抱き続けた1年間だったが、それでも1年間毎週観ていれば愛着も湧く。数年後には懐かしくなってまた視聴するかもしれないし、その時には今と違った角度で観ることができるかもしれない。何はともあれ、1年間本当にお疲れさまでした。