『仮面ライダーリバイス』感想 ダークではなくハートフルな脚本で送る、「悪魔」との物語

2022年8月28日、『仮面ライダーバイス』最終回が放送された。

令和ライダー3作目のこの作品に対して、私のスタンスは「面白がっていたから楽しかったけど、面白くはなかった」となった。心から楽しんで観ている方には本当に申し訳ないのだが、私にはツッコミどころがあまりにも多い作品で、純粋に楽しむことができなかったのが事実である。

 

時たま作り手側の倫理観や常識を疑ってしまうこともあった。それでも毎週物語が大きく動き、新ライダーや新フォームもとにかく多いため、話題性には事欠かなかった気がする。『仮面ライダーゼロワン』以降の令和ライダーは、どこかのタイミングで5話近く録画を溜めてしまうこともあったのだが、リバイスは溜めても2話分くらいだったし、ホーリーライブ登場辺りからは毎週放送日のうちには観るようにしていた。だから、楽しめていたのだとは思う。

 

それでも「この作品にお金を落とそう」、「リバイスのここが心に残った」とは今はまだ言えない。私は東映の奴隷なのでライダーのTVシリーズBlu-rayはほとんど揃えてきたのだが、『リバイス』に関してはまだ購入を躊躇している。どうしても、理性が邪魔をしてしまう。

 

「宇宙船」や映画のパンフなど、雑誌のキャスト・スタッフインタビューにもなるべく目を通した。『リバイスミステリー』は未見だが、短編映画や超バトルDVD、『仮面ライダーベイル』、『バトルファミリア』、『東映産直シアター』、その他もろもろのスピンオフもとりあえず観た。ここまで躍起になっているのはどこか「リバイスを面白いと言いたい」という、肯定したい気持ちがあったのかもしれない。だが、最終回放送から数日経過した今でも、胸を張ってそうは言えない自分がいる。むしろ最終回を観たせいで、『リバイス』というものが余計に分からなくなってしまったかもしれない。そう、全てはキングカズのせいである。

 

というのは半ば冗談で、やはりこちらが予測していたものと、実際に提供されたもののギャップが強かったという気持ちが大きい。

「悪魔」というワードや序盤の不穏な雰囲気から連想していたダークな物語ではなく、非常にハートフルな「家族」の物語が展開されていたことが、一番の違和感だったなと思うのだ。

 

 

 

 

それではここから、私が『仮面ライダーバイス』を面白いと思えない件について、長々と述べたいと思う。

 

1つ目が、「悪魔」という存在。というか、『リバイス』が減点方式でどんどんマイナスを加速させていったのは、このワードの比重が非常に高い。元々『仮面ライダーバイス』は、「人間の内なる存在である”悪魔”を、人間と悪魔のコンビが倒していく」物語だと把握していた。実際にはギフやウィークエンド、デッドマンズ、その他多くの組織や人物の思惑が重なり合ってより複雑な物語になっているが、ヒーロー番組のあらすじとしては、この理解で概ね間違っていないと思う。

 

今回の仮面ライダーは、「悪魔」と共に「悪魔」と戦う。それが『リバイス』の最大の特徴だったはずだ。コンビライダーというのは過去に例があるが、「1人で2人の仮面ライダー」というコンセプトを打ち出し、「リバイ」と「バイス」で「リバイス」という、タイトルにもテーマが干渉してくるレベルの強み。仮面ライダーシリーズは力の出自が怪人と同じところにあるという点が注目されることが多い。それは初代仮面ライダーがショッカーの改造人間として生み出された流れの継承でもあり、その方が玩具出しやすいという玩具メーカーの思惑も見え隠れしている。

 

そのために怪人の力を持つライダー、もしくは怪人かつライダーというのが結構いるわけだが、リバイスもそれに倣った形である。他の作品と明確に異なるのは、作品独自の種族名などを付けず「悪魔」と言い切ったこと。これには発表当時、大きく驚かされた。「悪魔」は宗教的意味合いも強く持っており、ヒーロー番組で直接的に怪人の属性として使うべきワードではないと思っていたからである。今思うと考えすぎだったかもしれない。ただ、「悪魔」という誰にでも分かりやすい明確な「悪」をヒーローの敵として据えたことに、オリジナリティを感じたのだ。

 

しかし、結果的にはそれが裏目に出てしまった。「悪魔」は最早、多義語だったのだ。

宗教的モチーフとして、天使と対で語られる「悪魔」。

そこから派生して、『カイジ』などでお馴染みのフレーズとして使われる、誘惑と同じ意味合いの「悪魔」。

他人のことを一切考えず、平気で非道を行うサイコパスに対して使われる「悪魔」。

ちょっと悪い子という意味の「小悪魔」など。

 

元をたどれば宗教の悪魔なのだろうが、「悪魔」というワードから各々が連想するものは結構異なってくると思う。しかしそれだけでなく、『リバイス』の悪魔は更にルールを複雑にした。

 

バイスタンプというアイテムがあり、それを体に打つとその人の中にいる「悪魔」が実体化し、暴れ出す

 

これは言わば、『W』のガイアメモリや『フォーゼ』のゾディアーツスイッチと似たタイプで、2作と異なるのはその人自身が怪人になるのではなく、その人から怪人=悪魔が生み出される点。

この時点で『リバイス』における悪魔が「抑圧された自身の感情」であると受け取ることができる。人間は誰もが心の中に悪魔を飼っており、バイスタンプを体に押印することで、その存在が実体を持つ。理屈は分かる。

そのため、第1話で主人公の五十嵐一輝がバイスタンプを押し、バイスを実体化させた時も、「母親を食べようとする」という行為から、多くの視聴者が今後の展開を予想していた。サッカーを辞めたのには何か親からの抑圧があったのではないか…という風に。

 

その後、第3話と第4話(だったはず…)ですぐに、悪魔との上級契約という概念が出てくる。一輝の初恋の女性が、悪魔と一体化するという契約を結んでしまうのだ。しかもこの契約をすると、二度と人間に戻ることはできない。かなりのリスクを伴う「契約」であるが、悪魔は確かに契約を持ち掛けてくるイメージがあるので、比較的すんなり入ってくる。

 

ただ、リバイとバイスのライダーキックならその契約を解くことができるというのはよく分からなかった。リミックスにそういうギミックを持たせて、毎週リミックスする必然性を作るならまだ分かるが、ライダーキックはオーソドックスな必殺技だし、そもそも「ライダーキックで解決できる」に全くドラマがなかったのも気になった。例えばバイスが一輝との共闘を拒否して、でも人々の契約解除にはバイスが必要だから説得や和解に励むなどのドラマも作れただろうに。この辺りから「リバイス、なんか下手だな…」と思うようになってしまった。決して悪いことではないのだけど、「ん?」という違和感が物語より先に来てしまうのだ。

 

その後、大二の弟の悪魔であるカゲロウが登場したことで、より悪魔への理解は深まっていく。一見温厚で兄想いの正義感溢れる大二に、兄である一輝を疎ましく思う感情が強く存在しており、そこからカゲロウが生まれたというエピソードはなかなか衝撃的。初期のTTFCのコメンタリーでは、「家族の在り方」についても言及していたので、一見仲良さそうに見える五十嵐家の負の面が、ここに来てようやく可視化されたのが嬉しかった。この辺りは後で言及しようと思う。

 

次に門田ヒロミ。彼は作中でもその善性と正義感が大きく取り上げられていた。1話の変身失敗により、彼の中に既に悪魔はいない。しかし、「悪魔がいないから正義感が強い」という流れになるわけでもなく、ただただデモンズドライバーの負荷により、体が傷ついていく限界キャラへと進化していく。

 

その後は五十嵐さくら。三兄妹の末っ子である彼女の悪魔・ラブコフは、彼女の弱さが実体化したもの。そう、お気づきの通り、既に「悪魔=抑圧された感情」という認識では、リバイスの世界観を掴めなくなっているのだ。ジャンヌ変身のエピソードは、そこまで嫌いではない。自分を無敵だと言い張るさくらが、兄たちに守ってもらうばかりの生活に耐えきれず、変身を遂げる。色々粗はあったものの、三兄妹ライダーというのは初なので、このコンセプトには素直に好感を持てた。

 

だが、ラブコフの存在はバイスやカゲロウとは全く異なる。そこでリバイスにおける悪魔の定義を、「人間の負の側面」くらいに留めておくのが良いということにした。宿主の感情ではなく、「何か悪い部分」レベルまで曖昧にすることで、リバイスの「悪魔」という概念を説明することができる。

 

ここからはあまりはっきり覚えていないのと、そもそも丁寧に語ったところで、と思うので省略したい。結果的に言うと、悪魔の親玉(魔王的な?)だと序盤で私が思っていたギフは、悪魔を主食とする、宇宙から来た生命体だった。あまりの飛躍に、かなりの衝撃を受けたのを覚えている。デッドマンズがあれほど復活と言っていたから、魔王が封印されているニュアンスだと思っていたのだ。

 

そして五十嵐三兄弟はギフの末裔であり、バイス、カゲロウ、ラブコフは他の人間の体内にいる悪魔とは一線を画す存在であることも明らかに。と、まあ設定だけなら後からでもどんどん付け足せる。確かに、バイス達はこれまで戦ってきた悪魔とは明らかに異なり、自我を持つ存在だった。そこにちゃんと意味を発生させたことはよかったと思う。

 

だが、バイスとカゲロウとラブコフの3体の時点で見た目も目的も大きく異なっている。また、「他と違う」という説明はされたが、それにより引き起こされることの想定が一切できない状況だったので、こちらとしてはあまり悲劇的に感じられない。そもそもこの「特別である」というのも、3人がライダーに変身できる理由を作りたかっただけなのだろう。

 

長くなってしまったが、話を戻したい。『仮面ライダーバイス』は、自身の内なる悪魔を相棒とし、人々から生まれる悪魔を倒し、人々が自身の負の側面と向き合うことを促す物語だと思っていた。しかし実際には、「悪魔を食べる宇宙生命体の末裔である主人公が、悪魔と共にそいつを倒す」話だったのである。その上、「悪魔」というのが具体的に何で、どういう基準の存在なのか、全く語られない。「悪魔と言えば、悪い奴!あと契約!」くらいのノリで決まったとしか思えない。

 

仮面ライダーがヒーローであるのは、それに対する悪がいるからである。その悪が人間を滅ぼそうとする巨悪ならヒーローの善性が際立つし、人間味のある哀しき存在なら善と悪に留まらないドラマが成立する。しかし、『リバイス』は作中の悪の定義を疎かにし、「悪魔」という既存のワードのイメージに頼り切ったことで、結果的に作品のテーマすら見えづらくなってしまったのではないだろうか。

 

主人公と人外の相棒というのだと、やはりイマジンのモモタロスやグリードのアンクなどが思い浮かぶ。そしてイマジンにもグリードにも、定義と目的とギミックがしっかりと与えられ、劇中で説明されていた。

例えばイマジンは未来からやって来た存在で、人間に憑依して実体化する。そこで望みを聞き、その”契約”を歪な形で果たすことで、その人物が最も思い入れのある過去へ飛ぶことができる。そこで大暴れし、過去を変えることで未来を破壊するのがイマジンの目的である(厳密にはここにカイと桜井侑斗の話が乗っかるが、複雑になるので物語当初の簡単な理解でいく)。

その上で、過去で大暴れするよりも、電王として戦うことに快感を覚えたモモタロスという個性が際立つ。また、芯の強い良太郎が「勝手をするような奴とは一緒に戦わない」と決意したことで、モモタロスの「ごめんなさああああああああああい」が炸裂し、その関係性が、本来の人間とイマジンという関係性と一線を画す形を取った。

 

またアンクは、メダルを集めて復活を果たすためならどんな手段も厭わないという欲望まみれのグリードだが、右腕だけという不完全な復活のせいで、映司の手を借りざるを得ない状況に陥る。人助けをしたい映司とメダルを集めたいアンクの利害が、打倒グリード・ヤミーで一致し、戦いを続ける中で2人の絆が育まれることが、作品の面白味になっていた。

 

正反対の存在が、共に困難を乗り越えていくうちに、お互いを認め合っていく。バディ物の王道ではあるが、全ての作品がそうでなければならないというわけではない。しかし、「悪魔と共に戦う」というコンセプトを打ち出した『リバイス』が、結局「悪魔」という存在の定義や目的をふわふわさせたまま、パブリックイメージに頼って番組をスタートさせたのは、かなりの悪手だったように思う。

 

初期のバイスモモタロスのような「暴れたい」を打ち出したキャラになっていて、そこに「人を食べたい」というかなり危ない欲求まで加わっていた。だが、それは悪魔本来の気質ではなく、あくまでバイス個人の性格。第1話の時点で「主人公から生まれた悪魔が母親を食べようとした…!つまり母親に対して一輝は何か思うところがあるんだ!」と考察していた人も多かったが、作り手側にはそんな意図はなかったらしい。というか、バイスが「一輝の負の側面」として描かれていたかどうかも怪しい。一輝がバイスのそうした行動に対して、「俺から生まれた悪魔なんだよな…」と不思議に思うシーンすら挿入されなかったということは、多分作り手は何となく主人公から怪人を出してみましたくらいの勢いだったのだろう。

 

一応第2話の時点で「俺が死んだらお前も死ぬ!困るだろ!だけどお前が俺の言うことを聞かないなら変身しないからな!でもお節介な俺は戦いはするんだ!ほら!死ぬぞ!ちゃんと言うこと聞け!」と、一輝とバイスの関係性が定義づけられるのだが、先に挙げた電王やオーズに比べるとあまりにお粗末。これは第2話という早いペースで、しかも1話完結でやってしまったことも問題ではないだろうか。

 

一輝はお節介だから目の前で困っている人がいるなら助けたい、というキャラ造形は何となくわかる。これにも言いたいことはあるが、後述。ただ、何にでも首を突っ込めばいいという問題ではない。怪人が暴れてるから止めなくちゃと、逃げるよりも戦う方に身体が動くことは立派ではあるものの、生身で戦うのは結果としてただの自殺行為でしかない。まして大暴れしようとするバイスを食い止める理由にはなり得ないと思う。そもそも生身で戦うのなら、『リバイス』にはフェニックスという組織が存在するので、一輝が頑張る理由は一切ない。

 

この辺り『オーズ』はめちゃくちゃ上手かった。主人公はとにかく人を救いたいから、オーズであろうがなかろうが関係ない。自分の手の届く範囲で困っている人がいたらとにかく力になるのが火野映司だと、序盤から執拗に視聴者にアピールしてきた。メダルを持つアンクが近くにいなくとも、周囲の人を逃がして、被害を食い止めようとする描写がしっかりとされていた。だからこそ、彼の欲望が明かされ、アンクと敵対した時に大きくこちらの心が動かされた。

 

しかし『リバイス』の一輝は、ただ怪人に殴られるのみ。もちろんコロナでモブを出すことすら難しいのは重々承知の上だが、だとしたら何か他の見せ方はなかったのだろうか。一輝がそうしたキャラクターなら、他のキャラがそこに言及するとかもできただろう。それによりキャラクターの深味も出せるし、立ち位置も露わになってくる。しかし、そうしたフォローは一切なかった。そういう違和感の一つ一つがどうしてもノイズとなり、物語への没入感がどんどん削がれていってしまう。正直第2話までは、全く面白いと思えなかった。

 

そうして「悪魔」の定義をふわふわさせたままに、リバイス最大の謎であった一輝が写真から消滅するという謎の正体が、「バイスとの契約により、変身して戦う度に家族の記憶を失っていく」であったことが明かされる。主人公が家族の記憶を失うのに写真から主人公だけが消えるギミックが全く理解できなかったが、ここで立ち止まってはならないので、気にしないことにする。『リバイス』における「悪魔との契約」は、不可逆な悪魔との一体化や怪人化のことを指しているだけと思っていたところに、突然の事実が明かされ、困惑した。

 

そもそも悪魔は人間誰しもが宿しているのに、なぜバイスだけがそんな変な契約を一輝と交わしているのか。それをしてないのに変身してる大二やさくらは何なのか。そもそも悪魔が居ないのに戦ってる花や玉置は何なのか。しかも狩崎編で大二とさくらも契約をしていることが明らかに。最終2話では、「契約満了」という新概念が登場…。しかもその最終2話は丸々、その契約の穴を突く形で一輝が家族との記憶を取り戻すエピソードに。

 

こういう盲点を突いて解決を図る系のエピソードは、そのルールがどれだけしっかりと定義されているかがポイントなはず。言わば心理戦の領域である。例えば『デスノート』の夜神月なんかはノートのルールを実験を重ね完全に掌握していた。その上で、その穴となる部分を突いたり、時にルールを利用したりしていく。その大胆な戦略が驚きと感動を生んでいたのである。

とはいえ『デスノート』は心理戦に特化した作品なのでこれを出すのは卑怯。分かりやすい例だと、『仮面ライダー剣』の最終回だろう。バトルファイトにおいて、最後に生き残ったのがジョーカーであった場合、世界は滅びる。つまり戦友である始を封印しなければ、ローチが無限に湧き続け世界は滅びてしまう。『剣』が序盤から殊更に強調してきた「バトルファイト」。始を取るか、世界を取るか。その二者択一を迫られた剣崎が最終的に導き出した答えは、「自らもジョーカーとなりバトルファイトを再開させる」という選択だった。

 

これは『剣』がバトルファイトのルールと、ジョーカーが生き残ることの恐ろしさ、そしてそれでも始を封印したくないという剣崎達の心情を丁寧に紡いでいったからこそ、素晴らしい最終回となっている。例えば最終回で急に剣崎のアンデッド化の進行が明かされたり、バトルファイトのルールが説明されたりすれば、一気に興醒めだろう。言わばこの最終回に向けて丁寧に前フリをしていたのだ。

それを一切せずに新要素を追加しての一輝の記憶の復活。あまりのお粗末さに閉口することしかできなかった。もっと言うと、バイスが消えたことで契約満了になって契約そのものがなくなり家族の記憶が戻るなら、バイスを家族とみなしていた一輝はバイスのことも思い出せそうなものだが…。この辺りはもう考えても負けだと思い、そういうものだと受け止めることにした。

 

第46話。本当に何の因縁すらないまま迎えたギフとの最終決戦で、五十嵐三兄妹は、「人間には悪魔が必要だ」と説く。これをそもそも悪魔を主食としている(けど、今の人類はそのせいで滅びそうだから一旦リセットしようとしている)ギフに説くのもよく分からないが、それを言えるほどの土台を全く築いていないことで、非常に空虚なセリフとなってしまっていた。

中には『リバイス』が伝えたかったことはこの一言に集約されている、「自分の悪性から目を逸らさず、向き合った上でどう生きていくか」というのが作品のテーマだと言っている方もいたのだが、だとしたらあまりに酷い話運びだったと思う。

 

そもそも一輝達は人々の悪魔を平気で倒していたわけで。ヒロミや玉置など、味方の戦力にも既に悪魔がいないキャラクターがいるわけで。なんなら五十嵐家の悪魔は他と違って結果的に良い奴ばかりなわけで。そんな中で「悪魔は必要だ!」と言うのって、もうただのエゴにしか聞こえないのではないか、と。正直このセリフに関しては、当初私はかなり怒りを覚えた。

 

前作の『セイバー』でも、「キャラクターがただ正論を言うだけ」ということが結構多かった。これは『ゴースト』の中盤以降もそうだったので、きっとヒーロー番組経験の少ない福田卓郎さんの癖なのかなとも思う。要はキャラクターの出自や信念から出た言葉ではなく、「世間一般で何となく良いとされていること」を説くセリフが多いのだ。『ゴースト』だと、タケル殿が執拗に命についての大切さを説くのだが、それについてはまだ分からなくもない。幼い頃に父親を亡くし、自身も死の瀬戸際に居るという過去や今があってこそ、響く。しかし段々と正論ばかりを言う空虚化が進み、道徳番組にしか思えなくなってしまっていた。

 

『セイバー』は飛羽真のキャラクター自体が弱いため、「それは間違ってる!」と相手の言うことを否定し、ただ正論を言うだけの主人公が出来上がっていた。しかしそれでも人望は集まり、作中ではかなり認められているため、非常に不思議な空気感を味わうことができる。『リバイス』が『セイバー』と異なるのは、ただの正論だけではなく、もうキャラクターがなんでも言うことである。耳障りの良いことだけではないし、もう誰が何を言い始めてもおかしくないレベル。そのためにこちらは、「このセリフは今後裏を返すために言っているのか、それとも脚本家の倫理観が自分と違い過ぎるのか」問題に挑むことになる。大二を無理矢理諭そうとする、大二暴走編は特にそれが顕著だった。それでいて瞬間のエモーショナルさを取ることにも失敗しているので、その点は本当にどうしようもないなと思う。

 

だが、『リバイス』第46話の「悪魔が必要」というニュアンスの台詞は、悪魔をテーマに扱いながら、悪魔というものの定義をずっと怠ってきた制作陣による、社会的価値観に迎合するかのような姿勢が本当に無理だった。

一輝の悪魔であるリバイは元から一輝が大好きで、常に一輝をサポートし助けてくれる、「ただのいい奴」。

大二の悪魔であるカゲロウは一時期こそ人を傷つけたものの、大二の心の支えであり続け、彼の窮地を救った「救世主」。

そしてさくらの悪魔であるラブコフは弱さの象徴であるが故に「無害」。

何より、ギフの末裔である五十嵐三兄妹の悪魔は全員他の人間の悪魔とは違い、特殊。

 

そんな先天的に強みを持った彼らが、他の悪魔に目を向けることなく、クソデカ主語で「悪魔は必要!」と言い放ち、それが作品のテーマや倫理観にも聞こえてしまうというのが本当に耐えられなかった。ただ悪魔を倒し続けてきたやつらに、画一的な価値観を「正解」として押し付けられるのは苦痛でしかない。ましてそれを突きつける相手がギフなのも微妙。

正直『リバイス』のテーマがここにあるのなら、本当にこの作品が無理になってしまうかもしれない。思えば同じ望月Pの『宇宙戦隊キュウレンジャー』も、せっかく9人(最終的に12人)のヒーローがいるのに、大体がレッドの価値観だけで進んでそれが是とされる世界観だった。『キュウレンジャー』のことはほとんど覚えていないが、そのカルト宗教みたいな雰囲気に結構苦手意識があった記憶がある。

 

長くなってしまったが、未見の人に「リバイスって何と戦っているの?」と聞かれて「悪魔」と答えようにもその悪魔の定義が明確でないというのは、ヒーロー番組のコンセプトとしてかなり致命的だったと思う。

 

 

 

 

2つ目に、一輝があまりにも底の浅いキャラクターになっていること。

序盤から言われていた「お節介」というキャラづけですら、あまり成功しているようには思えなかった。

 

そもそもヒーロー作品の主人公は、大概が人のために戦う「お節介」である。それをわざわざ主人公の個性として持ってくること自体、疑問を持たざるを得ない。もっと言うとこの「お節介」というキャラクター性は、助けるべき市井の人々を出さなければ成り立たない。何度も例に出してしまって恐縮だが、「人を助けたい」という欲望を持つ主人公を『オーズ』がしっかりと描けたのは、2話完結の人助けフォーマットがうまくハマっていたからだろう。

 

最終回後に公開されたスタッフ座談会のインタビューで望月Pは、その2話完結のお悩み相談フォーマットをやりたかったと言っていた。実際、『リバイス』にはその目的の名残のようなものが感じられる回もある。おそらくは空気階段ゲスト回のようなものを繰り返すことで、一輝のキャラを強調していこうとしていたのだろう。

だが、『リバイス』本編は結果として縦軸をぐんぐん進める形となった。コロナ禍で安易にゲストを呼ぶことができないというのが大きいだろうが、それは『ゼロワン』と『セイバー』で既に経験していたこと。だからこそこの2作は、思う通りにいかない中での作品作りを強いられていたと思う。

 

望月Pも先の座談会でコロナ禍での制限を憂いているのだが、「それは既に分かっていたことでは?」と言わざるを得ない。もちろん比較的外出制限が緩和されたりと、徐々に日常生活が戻ってきていたという事実は否めないが、だとしても「コロナ禍という制限を抱えた中で、どうしてそこに真正面から抵触してしまうようなことをやろうと思ったのだろう」という疑問は湧いてしまう。現に『ゼンカイジャー』や『ドンブラザーズ』はその点を強く意識しつつ、面白い作品を作ろうという試行錯誤が垣間見える。撮影中に突然コロナ禍に襲われたわけでもないのにこの結果と言うのは、あまりに先見性がなさすぎるのではないだろうか。

 

話を戻して一輝の「お節介」について。本編では「一輝はお節介だからね」というセリフこそ多いものの、それを明確に示すようなエピソードはほとんどなかったように思う。フレーズだけが独り歩きして、「お節介だからこういうことをする」という行動や目的意識が、全く見えてこなかった。どこにでもいる「明るいあんちゃん」レベルに留まってしまったのは非常に残念である。

 

「お節介」の肉付けこそ甘かったが、『リバイス』序盤の不穏な雰囲気はかなり好きだった。バイスがいきなり母親を襲ったことも、人から好かれる一輝を疎ましく感じる大二という構図も、牛島家の暗躍も。一見幸せそうな家族やご近所さんが心の内に抱えている闇や二面性。そうしたものをモチーフである「悪魔」になぞらえて引き出していく物語なのかなと、大筋にはかなり期待していた。特にライブ登場までの大二の一輝への嫉妬、そして工藤との戦いにおける「お節介じゃなくてエゴイストだろ」という問いかけに関しては、すごく良かったと思う。一輝の精神性にアンチテーゼを突きつけるキャラクターだったからこそ、工藤の早期退場は本当に惜しい。

 

ヒーロー番組の主人公だからこそ、視聴者に好かれるためにある程度「完璧超人」でなくてはならない。そんな不文律を破壊してやろうという気概まで見えたし、散りばめられていく不穏な謎にワクワクしていた。弟が嫉妬して悪魔を生み出してしまうくらい、一輝は足元がお留守で、「鈍感」なのではないか…。そんな風に思っていたのだが、どうやら観ている私と作り手とでは、どうもそこにギャップがあったらしい。

 

『リバイス』に関してはバイスの性格など、路線変更を余儀なくされたと考えざるを得ない方向転換が多数発生している。そのため序盤と中盤で一輝の性格も多少変化があったかもしれない。だが、序盤の不穏な雰囲気が好きだった私にとって、「エゴイストではないか?」という鋭い問いを投げかけられた一輝の葛藤が、「バイスによる励まし」で解決してしまったのは、残念だった。これは、バイスを一輝から生まれた悪魔として捉えていたのもあるし、何より人との関わりでなく、「内なる自分」とも言える存在から肯定されただけであっさり解決してしまう流れが、あまりに独善的すぎてきつかった。

 

その上『リバイス』は大二がライブに変身して以降、一輝達の新フォーム登場回などで、ひたすらにその「一輝の自問自答とバイスの励まし」を繰り返す。そんな程度で終わるなら、もう悩むことなんてないだろ…と思ってしまうし、やはり他人からの指摘に対し悪魔からの励ましで元気を取り戻すのは、どうなのだろうと首を傾げてしまう。「肯定してくれる良き相棒」というバイスの属性は強調されるものの、正直ここには「悪魔のささやき」的な展開を期待していたのもあって、がっかりしてしまった。

 

一輝のお節介はゲストや家族だけでなく、他のレギュラーメンバーにも発生していく。しかし、人の心情に寄り添うような描写はあまりなく、ここでも自己啓発本のように一般論を説き続ける。「家族を大切にしている」という背景があるならもっと言えることがあっただろうし、主人公として「俺もこういう経験があったから…」という語り口がほしかったところ。実際、ただ優しいだけの男に成り下がってしまったのは残念。

 

もっとこう、人を助けるためならルールや法律まで破るとか、自分の身を犠牲にして利益も顧みないとか。そうした「異常性」で善性を強調するやり方もあったと思う。『オーズ』の映司なんかは正にそうだった。しかし一輝にはそうした場面は乏しい。ただただ作中評価での「お節介」が主張され、本人も「お節介だからな」で片付ける。そのお節介が裏目に出ているというエピソードも、大二とカゲロウの物語に留まってしまった。もっと表現や演出で、一輝の「お節介」を見せてほしかったのが本音だし、何より「自分がお節介だから」なんて理由で平気で人を諭すようなキャラクターはあまり好きにはなれない。

 

記憶を失うことが強調されてからの一輝は、何かとデリカシーに欠ける発言が多かった。大二とさくらのことを忘れてしまったのは分かるが、親しげに話し掛けてきた2人を見て、バイスに「この人たち、誰?」と聞くのは、あまりにむごい。最終回でバイスが消えた後も、バイス顔のアヒルの玩具を平気で捨てようとする。別に捨てることまではないだろうに。

そうしたそもそもの”ヤバさ”が、記憶が消えてからの一輝にはあるのだが、これを作り手がわざとやっているのか、それともこちらだけが”ヤバさ”を感じているのかは分からない。こうした作り手とこちらの認識に齟齬やギャップが生まれ、「見せたいものと見えているものが違っている」状態が『リバイス』には何度も発生している。

 

一輝が記憶を失う悲壮感、赤石についていった大二の気持ち、ギフに裏切られたアギレラの葛藤。悩み迷い感動を生めるシチュエーションは多数用意しておきながらも、そのどれもが視聴者の感情誘導に失敗している気がしてならないのだ。しかしインタビュー等を読むと、スタッフはかなりドヤ顔をしているようなのでモヤモヤしてしまう。もちろん、番組の途中で「あれは失敗でした」なんて言えないだろうから、ここだけで評価するのは早計。今後のインタビュー等での発言や答え合わせに期待したい。

 

 

 

 

最後に、やはり物語の整合性である。『リバイス』は1年という長丁場での試合ではなく、1話30分での一勝負に全てを懸けているのではないか…と邪推してしまうくらいに、設定や心情がコロコロ変わる。もちろん、ファスト映画などが取り沙汰される昨今において、物語の連続性をしっかりと保つことは、コストパフォーマンスの悪いやり方なのかもしれない。私やファンは毎週観ているだろうが、実際には飛び飛びで観ていたり、物語よりもアクションや戦いを優先する子どもたちという層がかなりいるはずなのだから。

 

新規ファンを獲得するためには、やはり「途中からでも観られる」というのは大きな強みになる。2話完結フォーマットをやろうとしていたのも、これが理由だったのかもしれない。ただ、私はやはり「1年間続く作品」という日本においてライダーと戦隊と大河ドラマくらいしか現存しなくなってしまったこの貴重な遺産から、連続性を奪ってしまうのは酷かなとも思う。

 

一輝とバイスの関係性や設定面もそうだったが、やはり決定的なのは大二だろう。カゲロウを失った後、ギフの力に圧倒され、赤石長官の下に与する。正直ライブ変身からのカゲロウ消滅で、大二のそうした葛藤については既に終わったと思っていたので、終盤をほぼ丸々大二の「暴走」に使ってしまうのは驚いた。当初は予定になかった新フォームも生まれ、作り手としても気合の入った作劇だったと思う。だが、連続して視聴するとあまりに展開が行き当たりばったりすぎて、どうしてもそのノイズが物語を純粋に見させてくれない。

 

元々カゲロウの消滅ということ自体、「そんな必要あったか?」と思えるくらいに唐突で、ジョージが急に用意した新アイテムを使うためには大二とカゲロウが戦わなければならない、その果てに片方は消滅する…という謎設定。その後に「大二より一心同体感が強いから、一輝とバイスなら両方消えるかうまくパワーアップするかのどっちかだ!」と狩崎が謎理論で押し切るのも含めて、全く意味の分からない展開だった。後は普通にカゲロウが結構好きなキャラクターだったので退場が悲しかったというのもある。

 

結果的にカゲロウはどこか大二に想いを託すようなイメージで、消滅していった。ただここにもホーリーライブに変身する必然性が全く感じられない。ホーリーライブに変身しなければ勝てない敵が存在するわけでもなく、ただ単にパワーアップのためだけの消滅。ましてその後オルテカと戦うのはサンダーゲイルスタンプで変身した仮面ライダーバイスになってしまい、ホーリーライブは大した活躍すらなかった。見た目は好きだったので本当に残念としか言いようがない。

 

しかしこの「カゲロウ消滅」は大二にとってかなりのショックだったようで。「カゲロウを消滅させてまで力を得たのに、ギフには全く敵わない」というのが、大二の暴走の原因だったらしい。そもそもカゲロウを消滅させたのもジョージの言いなりになっただけだし、違う方法を模索しつつも「それしかない」と信じてそうしたなら分かるのだが、言われた通りにそれをやっただけの大二の情緒がどうも分からない。ジョージにキレるとかしてもよかったと思う。

 

「ギフは歪んだ形とはいえ人類の存続を望んでいるわけだから、赤石と共にギフに与するのが正解なのではないか」という心情は分かる。一輝を元々疎ましく思っていた大二だからこそ、一輝達の盲目的な打倒ギフに一石を投じることができる。ただそこで、朱美さんという概念が発生してしまう。赤石によって怪人化させられた彼女を、大二は何とかして救いたかった。一輝達もそれは同じ。だからこそ、バリッドレックスの力で一旦冷凍しようという対策を立てる。正直どうして朱美さんがここまで五十嵐家の信頼を得ているのかは分からないが、そこは敢えて言うまい。しかし、冷凍作戦を「朱美さんを犠牲にしようとしてる!」と勘違いした大二がモニターの映像だけで現地に向かう。すると一足早くそこに赤石が出現し、一輝とさくらの見ていないうちに冷凍状態の朱美を始末する。すぐに立ち去る赤石。到着し、一輝達が朱美さんを殺害したと勘違いして激昂する大二。突然朱美さんが死んで戸惑う一輝…。そこに出現するヒロミ。その後一切触れられることのなかった朱美さん…。

 

書いていて頭が痛くなるほどに、この朱美さん問題は根が深い。やりたいこととしては、一輝と大二の情報量の差と価値観や立場の違いから生まれる齟齬を描きたかったのだと思う。これは『ドンブラザーズ』の脚本家である井上敏樹が得意とする手法だ。その勘違いが悲劇の連鎖やコミカルさを生む一方で、内輪揉めが長引く要因でもある。どちらにしても、キャラクターの個性や違いを浮き彫りに出来るやり方ではあるのだろう。しかし、『リバイス』は「一輝が気付かなかっただけ」という浅はかさ、その上で実質真後ろで殺されてたというチープさ、大二の朱美さんへの謎の執着などなど、気になる点が多すぎて全くこちらの感情の誘導になっていなかったように思う。一番怖いのは、この件が明らかに一輝と大二のわだかまりの大きな要因となったにも関わらず、その後一切朱美さんの話をしなくなることだ。朱美さんも悪魔と契約して他人から記憶が消えるような設定になっていたのだろうか…。

 

その後、引き続き暴走し続ける大二に対し、さくらが嘆き、一輝が「兄弟喧嘩だ!」と戦いを持ち掛け、源太が悪魔と共存することを説く。正直そのどれもが大二の心情を無視し、「お前は間違っているぞ!」と言うだけの内容であることに恐怖を覚えた。大二が欲しかった言葉は、自分を認めてくれる存在だったのだと思う。というか仮にギフ側が正しいとしても、あれだけ「間違ってる!戻ってこい!」と言われ続けたらどんどん精神が不安定になるに決まっている。その上で一輝の「お節介」の鈍感さに切り込みを入れていくような、心情を汲み取れないことで大二が暴走してしまうような話運びなのだろうと思っていた。

 

しかし実際には、「カゲロウに助けを求める」が正解だったらしい。大二が自分の間違いを認め、消滅させた悪魔に助けを請うことが救いとなり、「実はホーリーバイスタンプの中にいて、大二が声を掛けてくれるのをずっと待っていた」、文字通り悪魔的なカゲロウが、全てを終わらせてくれた。消滅したはずのキャラクターが復活という展開は確かにアツいが、消滅の時にもそもそも納得いく形ではなかったし、「実は生きてました」という設定ならジョージの言っていたことは何だったんだと思うし、「カゲロウがいないから大二がああなったのでは?」と他のキャラが誰一人考えなかったのも、物語の地盤を緩くしている。

 

他のメンバーが大二を咎めるだけの中、一輝だけがカゲロウのことに思い至り、カゲロウ復活に奔走するという話運びならまだ納得がいくし、一輝の「お節介」を炸裂させる良い機会になっていたはず。しかもその後大二のメンタルは完全に回復し、「ごめん」とすぐに言える上に、打倒ギフのアイデアまで即座に考えつくほどに。整合性云々の前に、私はこの展開を見て若干の恐怖を覚えた。大二が引き下がれなくなったのは周囲からの圧が強かったことが起因していると思っていたし、誰一人大二に寄り添わず、間違っていることだけを突きつける展開から、このルートは全く予想していなかった。

 

大二が間違っていることではなく、そこに寄り添える一輝達の善性を問うためのこの一連のエピソードだと信じていたのだが、結果的には大二の行いは『リバイス』において「間違い」であり、それを解決してくれたのは自分自身の内なる悪魔。「ちゃんと助けを求められる」ことがこの流れで大二に与えられたテーマだったようなのだが、何とも救いのない物語であるように感じられてしまった。多様性の話ではなかったんだ…と。

 

整合性の箇所で言うと、やはりバイスの行動だろう。当初は一輝を騙し人を唆し、変身を促すような悪魔だった。しかし結果的には宿主思いのとても良い奴。変身したら一輝が家族との大切な思い出を失ってしまうことに心を痛めていた。それならどうして当初はあんなに楽しそうに戦っていたのか…。

これは「悪魔の設定をちゃんと詰めなかった問題」でもあるのだが、終盤の契約の展開はやはりいろいろと粗末で苦しい点が多い。ジュウガに襲われ「俺っちだけの変身なら、大して記憶は消えないはず!」と単身立ち向かったものの、結果的に両親の記憶丸っと喪失という過去一番レベルの被害が出てしまう。バイス、契約のことを完全に把握していたわけじゃなかったらしい。最終回でも「あと1回変身すれば、一輝は俺っちを忘れる」と言っていたが、2回変身していた。というか、ジュウガとの戦いで「バイスだけの変身でも一輝は記憶を失う」と前置きがあったのだし、バイスが最終回で『泣いた赤鬼』の如く悪役を務める必要はなかっただろう。勝手に変身すれば一輝の記憶は消えたのではないだろうか。

 

整合性よりも意外性やエモーショナルを取るやり方を決して否定はしないが、その意外性もあまりに突飛なものが多く、どうしてものめり込めなかったのが本音である。『リバイス』のこういう「前の話を意識してほしい!」という点は枚挙に暇がないし、揚げ足取りのようにもなってしまうので、この辺にしておこう。

 

 

 

 

 

ここまで、ある意味『リバイス』を完全にサンドバッグにしてしまったのだが、一年間観てきたこともあってか、全くもって愛着がないというわけではない。今後映画の客演などでバイスが登場する時、スクリーンの向こうからこっちに語り掛けてくれただけでテンションが上がるだろうなと思うくらいには、『リバイス』を楽しめていた。特に好きだったのは既に書いた通り、『リバイス』序盤の、どこか嫌な感じ、不穏さである。一見絵に描いたような綺麗な家族である五十嵐家に巣食う闇を想起させる演出や物語は、とても魅力的に見えた。この作品は「悪魔」を題材にすることで、そうした二面性を問う作品になるのだと期待していた。結果は「家族」を強く押し出したハートフルなものになってしまったが…。

 

そのギャップを乗り越え、今改めて視聴すると、また違った旨味が効いてくる。特に今になって良いなと思うのは、「バイスが完全に一輝の味方」であった点だ。初期こそ悪魔的な行動を行っていたが、結果的には一輝のことが誰よりも大好きな存在としてフィナーレを迎えた。一輝が葛藤する度にバイスの励ましで道を切り開いていく展開はきつかったし、正直「いいやつ」に成り下がったことは残念でならない。それでも、バイスを「悪魔」ではなく「自分を肯定してくれるもう一人の自分」と捉えると、すごく前向きで『リバイス』が名作に思えてくるから不思議だ。

 

日々生きる上で、自分を肯定し、認めてくれる人がどれだけいるだろうか。自分の考えは正しいのか、やって来たことは正解なのか、あの人にどう思われているのか、皆に嫌われているのではないか。人は常に人間関係における葛藤や苦しみを抱えて日々を過ごしている。時に冷たい態度を取られて落ち込み、心無い言葉によって自分を見失ってしまうこともあるだろう。SNSで誰とでも気軽に繋がることができ、簡単に意見を発信できてしまう現代では、全く知らない人から唐突な攻撃を受けることもある。少しでもネットに触れている人なら、肌感覚で分かるだろう。

 

そうした時、自分を励ましてくれる存在が傍にいるというのは、どれだけありがたいことだろうか。説得したり諭したり、間違いを突きつけてくれるのではなく、ありのままを肯定してくれる存在。それを他人に求めるのは甘えかもしれないが、その言葉や行動で気持ちが救われるのもまた事実。こんな考えは「メンヘラ乙」と一笑に付されてしまうだろう。それでもやはり、「周囲からの肯定」は強い喜びを生んでくれる。

 

『リバイス』におけるバイスは、行いが正しかったのかと自問自答する一輝に対して、全面的に肯定してくれる、魂の救世主のような存在だったのかもしれない。そしてそれは、大二を救ったカゲロウも同じ。「悪魔」とは、潜在的に人が内包している「認められたい」という気持ちの具現化なのかもしれないとも思った。

 

他人は結局他人でしかないが、自分自身なら自分を肯定できるし認められる。それが「悪魔」として形を持つことで、自分を奮い立たせてくれる存在となる。そうした観点で『リバイス』を視聴すると、非常に前向きな作品であったように感じるのだ。大二の説得に周囲が失敗し続けたのも、「自分を救い、認められるのは自分しかいない」ということを言いたかったのではないだろうか。私が『リバイス』の物語を肯定的に受け止めるとしたら、やはり悪魔が持つ「やさしさ」の部分なのだと思う。

 

そう思うと、最終回で唐突(第1話からポスターがあったので唐突ではないだろという意見もあるそうですが、個人的には「唐突」でした)に現れたキングカズに関しても、一輝を肯定してくれる存在として、すごく好意的に捉えることができる。夢を諦め、銭湯を継ごうとしていた一輝に対し、「夢を追うのは今からでいい」と認めてくれるキングカズ。いや、悪いがキングカズに対してはもうそう思うしかない。スタッフがよっぽどサッカーが好きだったんだろうなあくらいの感情しか湧かなかった。あとキングカズ、演技が結構うまい。

 

話を戻そう。『リバイス』は本当に、どこまでも優しい物語だった。決定的な悪がほとんど存在せず、工藤やオルテカ、赤石長官に関しても行動の背景が描かれた。悪役と思われていたギフも、ただ食事のために人間を利用するだけの、欲求に従った存在。「悪魔」というテーマを扱いながらも、「家族」という側面に重きを置き、非常にハートフルな物語が展開されていった。真澄とジョージの確執も、思うところがないわけではないが、それ以上にダディの死により悔しさを募らせるジョージの叫びに、思わず魅入られてしまったのだ。

 

「もっとこうしてほしかった」「こうなると思っていた」と、悪い点はいくらでも挙げることができるが、作品が完結を迎えた以上、私たちはこの全50話ほかから、何かを学び取っていくしかない。肌に合わない作品ではあったかもしれないが、それでも1年間楽しむことができたし、自分なりに色々と考えることができた。作り手の狙いや意図を汲むことはできなかったが、それでも『リバイス』という作品が自分に残してくれたものがないわけではない。

 

望月Pや脚本家の木下さんの実力や倫理観を疑ってしまうこともあったが、それでもスタッフの全てを否定したくはない。パワハラ・セクハラ問題も浮き彫りになってしまい、やりづらいことはたくさんあったと思う。しかし、だからこそこれからは健全かつより面白い作品作りに注力していってほしい。また、面白いもつまらないも言うのは勝手なのだが、一人一人が『リバイス』に感じたものを否定したくはないなと思う。『リバイス』は特に荒れやすい作品だったし、私もそのノリを楽しんでしまえていた。それゆえに、『リバイス』に肯定的な方からの「これを理解できないやつはアホ」などの誹謗中傷は見ていて辛い。立場が逆でも同じである。

 

自分と違う意見を「間違っている」と諭そうとするのは、大二に向けて一輝達が行ったことと同じ。「悪魔」のいない現実ではやはり、自分と向き合い、自分自身で気持ちを奮い立たせるしかないのかもしれない。そう思うと、自分を肯定してくれるバイスやカゲロウのありがたみがより強調されていく。ファンの殴り合いを見掛ける度に、「悪魔さえいれば…」と思う。

 

いろんな思いがある上に、手放しで褒めることは自分にはできなかった『リバイス』。きっと今後も誰かに「面白いよ」と純粋な気持ちでおすすめすることはできないだろう。それでも全てが無駄ではなかったと思うので、改めて『仮面ライダーバイス』を作ってくれた制作陣には感謝をささげたい。

本当に、お疲れさまでした。

 

 

 

 

Vシネクストについての感想はこちらで。

 

 

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