TVアニメ『デジモンセイバーズ』感想

デジモンセイバーズ(1) [DVD]

 

デジモンTVシリーズ5作目。4作目の『フロンティア』から3年の時を経てシリーズの新作が作られたことは感慨深い。自分はデジモン4部作直球世代だったので、久々にデジモンの新作が放送されると知った当時は、かなりワクワクした記憶がある。実際には途中で視聴を止めてしまったのだけれど、それでもファルコモンが出てくるくらいまでは熱心に観ていた。自分が『セイバーズ』に向き合うのは人生で3度目。最初はリアルタイムでファルコモン登場くらいまで、数年前にデジモンを1から観ようと試みた時にもファルコモンが登場した時くらいまで。特段ファルコモンが嫌いということはないのだが、大体半分くらい観て止まってしまっていた。2度目は単に忙しかったのだと思う。また、当時は配信サービスがあまり充実していなかったため、いちいちレンタルビデオ店に借りにいかなくてはならなかった。借り放題サービスを利用してはいたものの、1度に借りられる枚数には上限もあるため、ちまちま数駅先のTSUTAYAにまで借りに行くのが億劫になってしまったという背景もある。そういう意味では、3度目となる今回も『セイバーズ』の視聴ハードルは少し高かった。『無印』以降のTVシリーズはU-NEXTで配信されているのだが、『セイバーズ』だけが何故か配信されていない。権利の問題か何かなのだろうか。サブスクで一気に観る方法はAmazon東映アニメチャンネルに契約するしかなく、初回14日間無料のためどうにかその無料期間で一気に観られるようにととにかく視聴を急いだ。そのため夜勤明けの眠気を栄養ドリンクでどうにかごまかし、うとうとしながら視聴していた回もある。そのおかげもあってか、何とか最終回まで観ることができた。この記事を書いている時には既に無料期間が終わってしまっているため、お気に入りの回を観返すことができないのがもどかしい。

 

前書きはここまで。ここからは作品について語っていきたいが、重要なのは私がノンストップでデジモンシリーズを楽しんでいるということである。実際には前番組『フロンティア』の最終回放送が2003年3月30日、『セイバーズ』の初回放送日が2006年4月2日。つまり3年間の開きがあるのだ。一応2005年1月3日に『デジタルモンスター ゼヴォリューション』という番組が放送されたが、単発作品でありTVシリーズではない。私の今回の視聴にはこの3年の開きという意識がないため、単純に『フロンティア』と比べてしまっている部分がある。直近で観た『フロンティア』の感想はこちらを参考にしてほしい。

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

こちらにはかなりネガティブなことを書いていたのだが、『セイバーズ』はその時に感じたモヤモヤを払拭してくれる爽快感がある。とにかく爽やかで清々しく、分かりやすい。それは『無印』にあった寂寥感とは真逆。しかし物語の熱量では『無印』に劣っていない。『02』のような前向きな楽しさもあり、『テイマーズ』のシリアスさをより嚙み砕いたかのように、こちらに目線を合わせてくれる。好き嫌いはあるだろうが、私個人としては『無印』に次いでシリーズ2番目に面白い作品だった。むしろどうしてこんな素晴らしい作品を今まで最後まで視聴できずにいたのか…。過去の自分を大門大よろしくぶん殴ってしまいたい気分である。

 

大門大の名前を出したため、まずはこの物語の主役であり最重要人物、大門大について語っていきたい。

デジモンシリーズは数人の子どもたちを主役として平等に扱う傾向があったが、『セイバーズ』に関しては大門大の一強であり、専制君主制を採用している。彼無しに物語を語ることはできず、彼こそが絶対、彼が中心人物なのだ。キャラクターの重要度を体感での割合で表すと、大門大が6割、イクトが3割、トーマが1割。それくらい大門大という男は強い。パートナーのアグモンにとっての精神的支柱であり、究極体デジモンであろうと平気で殴り飛ばす腕力と精神力を兼ね備えている。少し古臭い言い方だが、放送された年代的に、男が惚れる男を意識したのだろう。とにかく強く、分かりやすいヒーローなのだ。他作品では子どもたちは小学生だったが、本作の大は中学生(何ならヨシノは18歳)。だが、中学生がどうとかは一切関係ない。何故なら普通の中学生は、不良であったとしても、大ジャンプの後に巨大な怪物を殴り飛ばしたりはできないからである。主人公である子どもたちがバトルに関与できていない(ただ見ているだけ)状況を打破しようと、『テイマーズ』ではカードスラッシュが発明され、『フロンティア』ではパートナー制度が廃止され人間がデジモンに進化した。しかし、そんな変遷をあざ笑うかのように、大門大は拳一つでデジモンに立ち向かっていくのである。しかもそこに根拠はない。彼の強さはおそらく父親の大門英から受け継がれたものなのだろうが、この親子がどうしてここまで強いのか、その背景は一切語られなかった。理屈がないところもまた潔い。

 

大門大の力によって物語が進むことがあまりに多いため、おそらく『セイバーズ』にハマれるかどうかは大門大を好きになれるかどうかで決まるだろう。彼の圧倒的な強さや言動、喧嘩っ早いという素行の悪さに引っ掛かってしまうと、この『セイバーズ』を楽しむことは難しいかもしれない。しかし私はその前に観た『フロンティア』で、あまりに主役としての箔がなさすぎる神原拓也に絶望してしまっていたため、主役の強さをとにかく打ち出したこの『セイバーズ』に心底惚れてしまった。そしてそんな大を「アニキ~」と慕うパートナーデジモンアグモン。放送当時は子どもながらに「初代のパートナーデジモンで媚びるの露骨すぎるだろ…」と思っていたのだが、だとしたらあの鼻の穴は一体何なのだろう。離れてしまったファンに媚びるのに鼻の穴を広げるというのは最適解であるはずがない。キャラデザに関して語られている文献があったらぜひ押してほしい。だが、視聴を続けていると、そんなアグモンといつしか自分も肩を並べ、大を「アニキ~」と慕っていたのだ。私にとってアグモンはもう兄弟弟子なのである。

 

では、この『デジモンセイバーズ』が一体どういう物語だったのか。全48話を総括するのであれば、他作品も語っていたように「人間とデジモンの絆」を描く物語であったと言えるだろう。しかしその描き方は他作品とは一線を画している。大概「闇のデジモン」と向き合ってきたデジモンシリーズだが、今作では倉田なる男が登場し、「極悪人」と主人公達が戦うことになるのだ。そして倉田の蛮行によってデジモンは人間を信じられなくなり、デジモンと人間の間に深い溝が生まれてしまったという世界観。もちろん1話では倉田のくの字も出ないのだが、作品の根底にあるのは「人間とデジモンが断絶された世界」なのである。そんな中でデジタルワールド育ちではなく、人間界で生まれたデジモン達と、そのパートナーの人間達がタッグを組み、DATSという組織に所属して度々起こるデジモン犯罪を解決していく。主人公サイドが組織化(しかも国に認められている)されているというのも『セイバーズ』の大きな特徴だろう。『テイマーズ』も大人たちが中盤からタカト達の戦いに介入してくるが、タカト達はあくまで小学生であり一般市民だった。対して大達は公的な機関に所属し、人間界で暴走したデジモン達を止めるために奔走する。人間の欲望に同調して暴走するデジモン達は過去シリーズよりかなり巨大であり、デジモン犯罪を取り締まっていく第1クールは、ウルトラシリーズのような趣があった。これはデジモンシリーズにはなかった要素であるため、そういった意味での新鮮味はかなり大きい。

 

第2クールでは大達がデジタルワールドへ突入し、メルクリモン率いるデジモン達との戦いが描かれる。デジモンに育てられた人間・イクトも登場し、人間とデジモンの対立を軸とした物語が展開された。第3クールになると全ての元凶・倉田の計画が始動し、VS倉田の様相を呈していく。これまでのシリーズにはデジモンカイザーや及川のような、洗脳された悪人こそいたものの、根っからの極悪人はシリーズ初。最終的には人間もデジモンも支配しようとしていたことが明らかになり、両者共通の敵として立ちはだかった。その激戦が終わった最終クール、デジタルワールドと人間界が重なってしまうことで両者が滅んでしまうという危機に立たされ、デジモンの神として君臨するイグドラシルが人間抹殺を部下のロイヤルナイツに命じる。第3クールで描かれたものから更に踏み込み、人間とデジモンの絆が描かれる上に、大の父親である英に関する多くの謎が明かされる。思えば『セイバーズ』はシリーズ構成もかなり巧みであった。『無印』の時点ではゲンナイが1話かけて設定を一気に話してくれる強引なやり口で謎を明かしていたが、『セイバーズ』は1年掛けて失踪した大門英の謎について語っていき、視聴者の興味を持続させている。『テイマーズ』でもデジモンの神という視点が用いられ、サスペンス風の物語が展開されていたが、最終的には子どもが置き去りになってしまうほどに大人達が介入し、カタルシスよりも設定面の開示に躍起になってしまった印象がある。しかし『セイバーズ』は大門大という強い人物を中心に据えたことで物語のベクトルがブレず、とにかく前向きな作品になっているのも興味深い。意図してのことなのかは分からないが、過去シリーズの反省点をうまく活かした作品になっていると言える。

 

では、『セイバーズ』の魅力はどこにあるのかと問われると、やはり大門大の一点なのだ。大門大というキャラクター造形の素晴らしさに私はただただ見惚れており、正直『セイバーズ』を冷静に観られたという実感はない。しかしそんなことを言っていても埒が明かないため、構成の上手さに関しては触れておきたい。

ウルトラシリーズのようなデジモン犯罪取り締まりを重ねていた第1クール。大のDATS加入に始まり、クールな天才でありライバルとなるトーマとのいがみ合いなど、ある意味王道な物語が展開されていた。それでいてデジタルワールドに1度突入するなど、既に後の展開に活きてくるような場面も散見される。大の父親の話も登場しながら、第2クールのデジタルワールド編へと突入。突如襲ってくる人間嫌いのデジモンを自称する少年・イクトやその育ての親であるメルクリモンと対立しながら、人間とデジモンの断絶に決定的な事件があったことが仄めかされていく。そしてその元凶である倉田が正体を明かし、DATSに牙を剝く第3クール。正直、倉田1人が敵というだけでは限界があるのでは…と思ったが、バイオデジモン3人の登場が予想外だったため、ガツンとやられた。ここに来てライバル展開はアツい。3人の究極体進化や精神面の成長にもバイオデジモンが関わっており、特に竹田作画で展開されるトーマVSナナミは名作。

 

ただ、ここで私が『セイバーズ』においてはっきりと落胆した点についても触れなければならない。それがトーマの扱いである。ヨシノに関しては本当に紅一点であるという以外の特徴がないため、割愛する。序盤こそ大のライバルとして位置づけられていたトーマだったが、すぐにトーマを認めるようになってからは対立も少なく、そのままイクトが登場してしまっためにメイン回すらほとんど回ってこなかった。というよりも、『セイバーズ』は他のデジモンシリーズのように誰かのメインエピソードをローテーションするということはなく、とにかく大門大を描くというシステムなので、これは仕方がないこととも言える。そんな中でも明確にトーマの回だと言えるエピソードが数話あるのだが、白眉だったのがやはりトーマVSナナミを描いた第31話。デジモン達は自分の冷静な意見ではなく無茶な大の意見に賛同してしまう。それは自分のコンプレックスを刺激されているようでもあり、トーマは言葉にはしないながらも深く傷ついていた。そこにパワーアップしたナナミが現れ、トーマの心の傷を抉ってくる。普通ならデジモンシリーズにおいて心の闇が描かれた場合には、パートナーデジモンの言葉や行動がきっかけとなって物事が解決へと向かう。しかし『セイバーズ』は人間主体のエピソードが多いため、ガオモンにそれはできなかった。ナナミとの戦闘はトーマの勝利で終わるものの、勝因は大のような無茶な戦法をトーマが選んだため。大をまだ認められずにいるトーマだったが、自分の力ではナナミに勝つことは不可能だったのだ。そのことをナナミに見透かされることで、彼の表情は更に曇っていく。どうでもいいが、この回のナナミはあまりに妖艶。それまではゴスキャラくらいにしか思っていなかったのに、この1話で急激に魅力的に育っていき、散っていく。

 

思い悩むトーマの前に倉田が現れ、妹のリリーナを人質に取られたことで、大と対立することに。大からしたら倉田をぶっ飛ばさなければいけないという局面でトーマがいきなり離反したのが許せない状況。トーマの中にもこの選択が正しいはずがないという思いが存在していて、その上で大の言葉が正しいと分かっていながらも彼を認めることができないプライドが邪魔して…という辛い状況だと思っていたのだが、実際にはトーマはリリーナを救うためにわざと倉田に味方するフリをして反撃の好機を伺っていただけだった。嘘だろ…。トーマ裏切りの展開にはかなり注目していただけに、仲直りさえあっさり行われ、本当に愕然としてしまった。あんなに丁寧にトーマの大への嫉妬を描いていたというのに、どうしてこうなったのだろうか。何なら物語におけるトーマ裏切りの比重は一気に小さくなり、デジタマになったアグモンと共に戦おうとする大がメインで描かれてしまう…。そういえば、『テイマーズ』の時にもベルゼブモンとのバトルで似たようなことがあった。今回も、トーマの裏切り展開をやりながら倉田の暴走やシャイングレイモンの闇堕ち、アグモンのデジタマ化などが描かれてしまい、物語の方向性がどんどん分からなくなっていた。『テイマーズ』よりは整理されていたように思うが、やはり一番問題だったのは、アグモンがデジタマ化したという事実までありながら、特に説明もなく「別に裏切ったわけじゃなく、倉田に味方するフリをしていただけだよ」としれっとDATS側にトーマが戻ったことである。正直、この展開があっさり終わってしまったことがショックだったため、ここのマイナスだけで言えばシリーズ中最も大きいかもしれない。期待していた分、落差も相当なものだった。

 

対して、途中から登場したイクトはかなりテーマに誠実なキャラクターだったと思っている。デジモンに育てられた人間であり、デジモンでも人間でもある彼は、母親代わりのユキダルモンが人間に殺される場面を目撃したことで、人間を憎むようになる。そのために大達を何度も襲撃するのだが、自分の出自や自分を心配してくれていた両親の存在を知り、彼の中で何かが変わっていく。また、ゴツモンによって彼がメルクリモン軍団からも敵と見做され居場所を失ってしまった時、ファルコモンが「イクトとずっと一緒にいる」と言うシーンが素晴らしかった。イクトとファルコモンの相補的な関係性は過去シリーズのパートナーのそれであり、素直にアツくなれる面白さに満ちていたと言える。思えば大よりもイクトのほうが、人間とデジモンという関係性の象徴として機能していたかもしれない。

 

話を戻して構成のことについて。第4クールにてイグドラシルとの戦いが描かれるが、イグドラシルが英の姿をしているという衝撃。そして実は英の体は乗っ取られていたという事実。父親との戦いという王道に向き合いながらも、視聴者の視聴意欲を掻き立てることを忘れない作りが丁寧だった。野沢雅子のデュークモンや、オメガモンにマグナモンなど、過去作品のファンを取り込む意識も忘れていない。また、作品を通してメイン4人だけでなく所長や隊長が重要な場面で戦いに参加してくれたりと、正に少年漫画的な展開が多く挿入されていた。過去シリーズは少年少女達の葛藤にスポットを当てた、あくまで地に足のついた物語が多かったが、『セイバーズ』の大門大はデジモンを殴るために高く跳び、地に足をつけるなど一切していない。とにかく「陽」の気に満ちた作劇は新鮮だったし、度々大が挫ける場面には「あの大が…!?」と驚かされもする。素手デジモンを殴り飛ばす暴力性は『セイバーズ』のもつカラッとした雰囲気の象徴でもあるのだろう。何なら、大が大ジャンプしてデジモンをぶん殴るだけでもうテンションが上がってしまう。『鋼の錬金術師』におけるエドの両手をパァンと重ねて円を作る動作にも似た高揚がある。どうして大だけがデジモンを殴らないとデジソウルを出せないのかは全く分からないのだけれど、理屈よりも演出や勢いを優先する作風が『セイバーズ』の特徴なのだろう。

 

勢いを重視していることもあって、展開は目まぐるしく変わり、『テイマーズ』や『フロンティア』のようにマンネリに陥るという事態は起きなかった。2クール目からは単発エピソードも減り縦軸がかなり濃くなるものの、大というキャラクターがブレないために、とっつきにくさもない。明朗快活でありながら、複雑な心模様も展開され、ホビアニとして十分な出来栄えを誇っている。最終回も、恒例となっていたデジモンとの別れは訪れるものの、大が「俺もデジタルワールドに行くぜぇ!」と彼らしい選択をしたことで悲壮感が一切ない。正にこの作品らしい終わり方だった。

自分は作劇といい物語といい、かなり『セイバーズ』に魅了され感動したクチなので、この1年でシリーズがまた途絶えてしまったのが不思議でならないのだが(本放送時に見限ったくせにね…)、今はその数年後に『クロスウォーズ』が始まることを知っている。『クロスウォーズ』に関しては本当に第1話しか観ていないくらいの人間なので、これからの視聴が楽しみである。