TVアニメ『デジモンフロンティア』感想

 

 

デジモンのアニメシリーズ4作目『デジモンフロンティア』はシリーズの中でもかなりの異色作であり、同時に挑戦的な作品でもあると思っている。結果的にシリーズはこの作品にて一旦放送がストップしてしまうのだが、それでも既存の枠からはみ出して新たなデジモン像を開拓しようとした姿勢は高く評価したい。そして何より、私にとってこの『デジモンフロンティア』はかけがえのない作品なのである。しかし同時に、複雑な思いを抱えてもいる。その理由は簡単で、「大好きなのに面白くないから」。当時リアルタイムで観ていた時はこの世界観にどっぷりとハマり、観返した回数もシリーズの中で圧倒的に多い。世界観やデザインに惚れ惚れし、今でもアグニモンが1番かっこいいデジモンだと豪語しているからこそ、大人の目線を持って鑑賞する『デジモンフロンティア』の物語の薄さに唖然としてしまうのだ。つまり私にとっては思い出補正の力をまざまざと感じてしまう作品なのである。もう自分の人生と『デジモンフロンティア』を切り離すことはできない。どれだけつまらなかろうと、この作品が大好きという気持ちに変化が起きることはないだろう。しかし、つまらないのだ。アンビバレントな感情を抱かせるこの作品は、大人になってからの鑑賞ならばストレートに一蹴していたかもしれない。だが私は、フロンティアをつまらないと言う人間に対して怒りを覚えてしまう。つまらないけどいいだろ!と、理屈の通らない反論をつい声に出してしまいたくなるくらいに、フロンティアへの気持ちは整理されていない。

今回『デジモンフロンティア』の改めての感想を書き、この作品に対してのスタンスも決めていきたいと思う。

 

 

まずは良かった点から。

とにかく声を大にして言いたいのは、設定の臨場感である。それぞれが属性を持つ伝説の十闘士、ヒューマンスピリットとビーストスピリット、そして何より人間からデジモンへの進化。これらが少年時代の私の心をくすぐり、今でもすっかり心を奪われたままでいる。元々変身ヒーロー作品を観て育った人間であるため、前3作のパートナーという関係性よりも、主人公達が自ら変身し戦いに身を投じるフロンティアの設定にかなり惹かれた記憶がある。怪獣や動物にあまり興味がなかったせいか、巨大戦やパートナーというこれまでのデジモンシリーズを彩る要素より、等身大の戦いが繰り広げられることの多いフロンティアのほうが自分の好みにリーチしていたのだ。もちろん無印や02も好きだったが、好きの度合いで言えばフロンティアがダントツだった。そのため、パートナーシステムの廃止が割と世間では不評だったことを知った時にはかなり驚いた記憶がある。

 

少し調べてみると、元々『02』の時から制作陣はパートナーの横で子ども達が応援するだけという構図を打破する術を探していたらしい。それが『テイマーズ』にて、カードスラッシュという形で表現されることになる。もちろんそこにはデジモンカードの販促の意図もあったのだろうが、デジモンを強化するカードを選ぶ形で戦闘に加わるというのはなかなか良いアイデアだったと思う。ただ、中盤以降は進化のカードをスラッシュするだけのパターンが多くなったのが残念。そして『テイマーズ』では最終的にデジモンとテイマーが1つになることで究極体へと至ることになる。前作でのこの流れを汲むと、『フロンティア』にてパートナーシステムが廃止され、人間がデジモンに進化するという設定が生まれたのは半ば必然的である気もしてくる。私はこのシステムに対し、シリーズの伝統を敢えて破るという挑戦的な意味合いからもかなり好意的な印象を抱いているのだが、この設定を批判する気持ちも分からないでもない。別に「デジモンはパートナーであってこそだろ!」とは思っていないものの、『フロンティア』は主人公達が人間でありながらデジモンでもあるという特異性に全く向き合わず、「これならパートナーシステムのほうがすんなりとストーリーが進むな」と感じることが多々あった。何より、これまではパートナーという存在がいたからこそデジタルワールドを救う理由が子ども達にあったが、『フロンティア』はパートナーの不在により子ども達がデジタルワールドを救う理由が希薄になってしまっている。一応セリフでは「半分デジモンだ!」などと言葉にしてくれることもあるのだが、どれもしっくりこない。説得力をまるで持たないのだ。中盤からは人間界に帰ることも可能になるのに、それを放棄してまで彼等が何としてもデジタルワールドを守ろうとする理由があまり見えてこないのは残念である。

 

また、伝説の十闘士という設定も素晴らしい。それぞれが炎、光、風といったように属性で分けられ、各属性にヒューマンスピリットとビーストスピリットの2種類が存在する。ここまで少年心をくすぐってくれる設定はそうはないのではないか。前3作も、主役といえば炎属性というように、何となく属性で分けることができなくもなかったが、『フロンティア』ではそれがより明確になった形である。ヒューマンとビーストの2種類という設定も上手く、各デジモンが出てくる前はOPのチラ見せにとにかくワクワクさせられたことを鮮明に覚えている。そしてダブルスピリットエボリューション。2つのスピリットを融合させるというストレートかつ最高の発想だ。子どもが好きなものを全部乗せてくれる、そんな信頼がこの作品の設定にはある。

 

前作の『テイマーズ』がSFチックで怪奇色濃厚な物語だったのに対し、『フロンティア』は異世界ファンタジーの様相を呈している。主人公達は等身大の小学生であるため、完全なファンタジー作品ではなく、正に異世界の戦いに巻き込まれた子どもという点がミソだろう。これは『デジモンアドベンチャー』と同じなのだが、2作ではデジタルワールドへの突入の演出がまるで異なっている。無印では、突如津波に巻き込まれた7人が目覚めるとデジタルワールドにいたという呆気ないスタートだった。しかしこの『フロンティア』はかなり気合いの入った導入が展開される。私はこの第1話が本当に大好きで、何度観ても話運びの異様さにワクワクさせられてしまう。

 

弟の誕生日パーティまでの時間を退屈に過ごす拓也の携帯に「スタートしますか?しませんか?」という謎の2択が送られ、YESを選ぶといきなり数分後に発車の電車に乗るように指示される。家を飛び出し、焦るあまりトラックに轢かれそうになりながらもギリギリ電車に飛び乗ると、そこには似たような境遇にある少年が。更に携帯の指示に従ってエレベーターに乗ると、明らかにおかしいほど地下へと降りていく。そこは大量のトレイルモンが停まっているターミナルになっており、その一台に飛び乗って、彼等はデジタルワールドへ突入するのだ。

 

この1話を観てしまうと、無印の導入が物足りなく感じられてしまう。それほどまでに『フロンティア』の導入はあまりに独特かつ魅力的なのだ。現在増え続ける異世界ファンタジーの小説やアニメも、ひょんなことから車に轢かれたり死んだりすることで異世界に突入し、すぐに本題に入る物語が多いと聞く。しかしこの『フロンティア』は異世界への突入をAパートでじっくりと描いているのだ。不可思議で冒険心をくすぐるこの描写には、自然と胸を高鳴らせる力があった。

 

渋谷の地下がデジタルワールドの入口というのは、世紀末に流行した渋谷系の作品の延長でもあるように思える。しかし何より子供心にこの演出を魅力的に思ったのは、卓也が抱く「何かが変わる気がする」という期待感が理由だろう。事故でも悲劇でもなく、能動的に選んだ道の先に新たな世界への旅立ちがあったという部分に、幼い私は、そして今の私も、多大なる魅力を感じているのである。残念なのは、この第1話が『デジモンフロンティア』のピークだと言っても過言ではないほどに、ここから起伏のない展開が続くことなのだが…。

 

まとめると、少年心を鷲掴みにできるポテンシャルを秘めた導入と世界観こそが、この『デジモンフロンティア』の魅力ということになるだろう。批判されがちな本作だが、過去の作品にはない独自性を打ち出すことには成功している。それ自体に好き嫌いはあっても、明らかに過去3作のどれとも違う持ち味の作品にはなっているのだ。

ちなみにもう1つ言わせてもらうと、紅一点の泉があまりにもかわいい。今観ると驚くほど美しく、この魅力だけでも50話を完走して良かったなと思える。キャラクターを掘り下げることに対してはあまり積極的でない作品だったため、泉のパーソナリティの源泉を知る機会に恵まれなかったのは残念だが、視聴のモチベーションを保てた理由の1つに泉というキャラの存在があったのは間違いない。

 

 

では反対に、何がよくなかったのか。それは単純にシナリオである。正直、全く面白くない。キャラクターの魅力も薄く、掘り下げも甘く、勝利のカタルシスもほぼなく、視聴意欲を掻き立てるミステリー要素も少ないのだ。シリーズ構成はデジモン初参加となる富田祐弘。サブライターには過去シリーズでもお馴染みだった面々が揃っている。なので富田脚本が元凶と言えなくもない…と個人的には感じている。改めて観ると他のライター陣の回でも微妙なエピソードが多く、やはり1年分のレールを敷いた人間に物申したくなってしまうのだ。

 

シリーズ他作品の感想記事ではクール毎にテイストが異なることもあり、各クールに分けて感想を書いたりしていたのだが、『フロンティア』では一気に書き連ねていきたいと思う。なぜなら全編通して似たような感情を抱き続けていたためである。

 

序盤はスピリット集めとも言える展開。冒頭5話で5人がヒューマンスピリットを手に入れる流れを各1話ずつ掛けて描くのだが、もう既に少し様子がおかしい。3話では友樹がチャックモンに、4話では泉がフェアリモンに進化するのだが、敵デジモンにトドメを刺すのはアグニモンとヴォルフモンなのである。スーパー戦隊をベースにしている作品で、たった5話でここまでメンバー格差を出してくるのはあまりに酷い。確かに強弱の差はあるのかもしれないが、それにしたって初登場でサポートに徹するなどあんまりである。メンバーの人数が多かった無印でも、そんなことはしなかった。何なら純平が進化するブリッツモンは敵をきちんと撃破する。泣き虫の友樹と女の子の泉が他のキャラより実力で劣るという理屈は分かるのだが、それならそれで他のキャラに負けない芯の部分を作るなどしてカバーしてほしかった。

 

ヒューマンスピリットが揃うとグロットモン等悪の五闘士との戦闘がしばらく続く。これがまあ酷い。伝説の十闘士が善と悪に分かれて戦っているとなれば、因縁めいたものを散りばめるのがセオリーだろう。何より『デジモンフロンティア』がスーパー戦隊シリーズを参考にしたというのであれば、男女混合の5人構成という上っ面の部分だけでなく、魅力的なゲスト悪役や敵幹部とヒーローの確執など、本質部分でも戦隊シリーズをベースに据えるべきだったのではないだろうか。五闘士はことある毎に拓也達の前に登場し、スピリット集めを妨害する。これは『テイマーズ』の終盤にも感じたことだが、その作劇によって結果的に各話で悪デジモンを撃破するというカタルシスが消滅してしまうのが非常に勿体無い。さらに言うと悪の五闘士は、こんなに長く敵として立ちはだかるくせに、拓也達と個別の因縁がまるで存在しない。例外としてヴォルフモンとケルビモンには輝ニと輝一の双子というエピソードがあったが、それも事前に展開していたと言えるほどの用意はできていなかった。この辺りはより詳しく後述したい。また、ラーナモンと泉に関してはライバル関係が構築されていたが、これは信念によるものというよりも、単に女性同士ということで括ったに過ぎない。無印のダークマスターズのような格もなく、『02』のアルケニモンマミーモンコンビほど愛嬌もない。5体の中での関係性も細かくは描かれず、ただ戦いを続けるための装置として機能させられてしまった悪の五闘士。設定が魅力的なだけに、この辺りで既にマンネリを感じさせてしまっているのが残念。

 

ビーストスピリットには、初進化から慣れるまでの間は暴走してしまうというデメリットがあった。悪側のカルマーラモンでさえうまく戦えなかったことや、シャーマモンがヴリトラモンに進化した際にも意識を失っていたことを考えると、ビーストスピリットは使用者が人間かどうかに限らず、そもそも暴走のリスクを孕んだ少々危険なものであるのだろう。無印でも『テイマーズ』でも暴走回はあったため、展開それ自体は否定しない。しかしビーストスピリットで暴走となると、主要メンバーが5人いることから計5回は暴走することになる。では実際はどうだったのか。最初のガルムモン、そして続くヴリトラモンにはまだ暴走から制御へのドラマが展開されていたが、残りの3人についてはやはり面倒になったのか、ほぼ暴走はなしで戦いに突入した。この辺りのあやふやさも勿体無い。ヴリトラモンは他のメンバーを攻撃してしまうほどの大暴れだったのに、ブリザーモンはちょっといつもの友樹とテンション違うなあ…くらいで済ませられてしまう。

私が思うにデジモンの進化エピソードとは、要は様式美なのだ。「こうすると次の進化を果たせる」というシステムが最初のメンバーによって視聴者に説明され、続くメンバー達は各々のやり方でその条件を満たしていく。例えば無印の完全体では、紋章を光らせる鍵が紋章の名前に由来する思いを該当の子どもの中で輝かせることにあるのだと、メタルグレイモン回で視聴者は理解する。だからこそ友情、知識、愛情などが該当メンバーのの中で輝く瞬間に感動が生まれるのだ。しかしビーストスピリットは、いやこれはヒューマンスピリットもなのだが、割とサラッと置いてある。というよりも、スピリットを手に入れるということに重きは置かれず、彼等が活躍すると同時にスピリットが現れ、そのままデジヴァイスに格納されるという、かなりラッキーなシステムになってしまっている。観ているこちらには雰囲気で「今回はこのメンバーがビーストスピリットを手に入れるのだな」というのが伝わるが、キャラクターの目線で見た時には、かなり運の要素が強いストーリーなのである。スピリットの発見とメンバーの決意がうまく結びついていないことも多く、感動するのが難しい回もあった。進化自体が物語を生んでいた過去作に対し、『フロンティア』のスピリット集めは、拓也達の思いの発露とスピリットの発見が別個の現象になっているのである。その上で「暴走を克服する」という、彼等の心の強さを示す試練が用意されていたにも関わらず、後半はそこに時間を費やすことを放棄してしまっている。もちろん5回も暴走されればこちらも腹が立つのだが、それにしても作り手側が編み出した設定なのにキャラによって明らかに扱いが違うのはどうなのだろう。

 

設定と言えば、そもそも『デジモンフロンティア』は設定が分かりづらい。

まず、はるか昔に人型デジモンと獣型デジモンの争いが勃発していた、という歴史がある。そこにルーチェモンという救世主が現れ、デジモン同士の戦いを止めることに成功する。しかしルーチェモンが世界を支配しようとしたため、伝説の十闘士が立ち上がった。ルーチェモンを撃破した伝説の十闘士はどこかへ消え、続いてオファニモン・セラフィモン・ケルビモンの三大天使デジモンがデジタルワールドを平定した。しかしケルビモンが突如他の2体を裏切り、今世界を脅かそうとしている。それを阻止するために、オファニモンはスピリットを継承できると思しき人間界の子ども達を集め、世界を救ってもらおうと考えた。

ざっとにはなったが、ここまでが第1話前の出来事の流れである。正直、複雑すぎる。というよりも、最初の「人型デジモンと獣型デジモンの争い」が完全に不要なのだ。驚くことに、アニメ本編に一切関係がないのである。劇場版では人型と獣型の対立があり、それを煽る黒幕との戦いが描かれていた。しかしあくまで番外編的な立ち位置であるため、ケルビモンやルーチェモンとの戦いには直結しない。つまり、TV本編で語る必要はない。また、ケルビモンが悪に染まってしまった理由に関して、三大天使のうち自分だけが獣型であるという疎外感が発端となったような描写もあったが、実際にはケルビモンの悪行は全てルーチェモンの誘導によるものであった。ケルビモンが感じていた疎外感が天然のものなのかルーチェモンの仕業なのかは定かではない。しかし、いずれにしても人型と獣型でデジモンを二分する考え方は、本編の拓也達の行動に一切影響しないのである。この物語の背景は、かつてルーチェモンという魔王がいて、十闘士がそれを倒したというくらいの説明で充分なのだ。何なら三大天使デジモンでさえあの扱いの悪さならすっ飛ばしてもいいかもしれない。ケルビモンという強大な敵が現れた!くらいで充分に伝わるだろう。

これがもし人型と獣型の対立を丁寧に描く物語だったというのなら話は変わってくる。出自からくる差別意識を作品の根っこに据え、争いの虚しさや理解し合うことの大切さを訴えることもできただろう。それこそフロンティアの名に相応しく、開拓者と先住民のような相容れない関係性の対立を描写し、人間である拓也達がその橋渡しをする展開でもよかった。もしも人型と獣型の和解の後にダブルスピリットエボリューションを達成するような展開ならば、この作品はとんでもない名作になっていたかもしれない。だが実際には単に善悪の戦いが繰り広げられるだけな上に、善側がほぼ負け続けるというカタルシスに欠けた物語が展開されてしまった。これまでの主要デジモンがあくまでパートナーという位置付けだったのに対し、かつて世界を救った十闘士という格の付け方はかなり独自性がある。それなのに設定を活かしきれておらず、ヒューマンとビーストの各スピリットの違いも暴走するか否かくらいになってしまったのが残念であった。

 

 

ダブルスピリットエボリューションについては、かなり言いたいことがある。先に言っておくが、ダブルスピリットエボリューション自体は最高のアイデアだと思っている。2つのスピリットを使って進化する新たなパワーアップ。人型と獣型の両方のデザインをミックスしたような風貌からは、明らかにこれまでより強くなったことが感じられる。しかし、その進化に至るまでの過程はかなり酷い。

まずは第22話。拓也だけが一度人間界に帰還するという、無印の細田守担当回を思わせる異質なエピソードに触れたい。ダスクモンに敗れ自信を失った拓也の前に闇のトレイルモンが出現し、それに乗った拓也の姿はいつの間にかデジモンに変化する。そしてデジタルワールドに来たあの日に時間は巻き戻り、第1話の展開を別の視点からなぞっていくという構成。後に正体が判明する輝一が登場するなど、しっかりと伏線も張り巡らされている。結論から言うと、異質ながらこの回はかなり面白い。自信を喪失した拓也は過去の自分を止めようとするが、共に戦った仲間の存在を思い出し、1人で帰るわけにはいかないと再びデジタルワールドに戻るという、彼の心情がはっきりと描かれている稀有なエピソードなのだ。もちろん、その決意がその後の話の根幹にはならない辺りが『デジモンフロンティア』らしいのだが…単体で評価するなら全50話のうちかなり上位にランクインするだろう。続く23話で闇の五闘士との戦いに再び身を投じる拓也。これはどう考えてもダブルスピリットエボリューションチャンス。しかし、アグニモンはなんと、こちらに都合の良い天候に合わせて戦うという方法を思いついただけだった。風や雷、雪の中で戦えばフェアリモン達の技は更にパワーアップすると気付いたのだ。嘘だろ…。明らかな進化チャンスで、何故こんなにも期待を裏切ることができるのか。拓也の決意にスピリットが応えたとか、理屈はいくらでも作れるはずなのに…。何なら炎のアグニモンは天候などあまり関係がない。それでちゃんと五闘士に捕まった仲間達を救えてしまうのもあんまりである。

では実際のダブルスピリットエボリューション、アルダモン登場回にも目を向けていこう。実際にはベオウルフモンのほうが先に登場するのだが、第22話からの流れを切らないように拓也の進化に先に言及していく。セフィロトモン編も終盤、遂にメルキューレモンと対決する拓也。特にメルキューレモンと拓也に因縁があるわけではないため、盛り上がりはほとんどない。何ならこちらは輝一やダスクモンの謎で焦らされているため、あまり集中もできない。そんな中でアルダモンに進化するきっかけは、セラフィモンの卵の目覚めだった。卵から力を授かることでダブルスピリットエボリューションが叶うというシステムが輝ニの時点で説明されている。そう、拓也本人の意思よりもセラフィモンのエネルギーでアルダモンへの進化は叶ってしまうのだ。何より凄いのが、第22話で拓也の決意を描いてしまったからか、拓也自身の心情にはほぼフォーカスしないこと。結果としては、拓也を応援する泉達の声にパタモンが呼応し、拓也まで光が届けられるという筋書きだった。あれほどのダブルスピリットエボリューションチャンスを蹴っておきながら、こんなにも雑な形で進化を果たしてしまう。正直、呆れるしかない。何だろうこの構成が悉くスベっている感じは。もちろん販促などの理由もあって新デジモン登場回を容易に動かすことはできないのだろうが、だとすればアルダモンの進化に拓也の心情や決意を乗せられるように采配するのが筋なのではないだろうか。しかもこの勝負が終わった後、拓也達の全ての技を使えるようになったセフィロトモンとの戦いまである。このバトルでこそ、まだ記録されていない新しい技のお披露目として新進化を果たすべきなのだ。結局アルダモンの技も記録されてしまったために、セフィロトモン編は4人の技を合体させるという無難な戦い方で幕を閉じる。何もかもが勿体無い。アイデアを出した人と物語を書いている人の人格の乖離を感じる。

 

話を戻して、ベオウルフモンの初進化にも触れたい。以前五闘士を全滅させたダスクモンだったが輝二に感じた謎の戸惑いの正体を突き止めるため、自らセフィロトモンの体内に入り、輝二の前に現れる。五人でも敵わなかった相手に一人で戦わなければならなくなった輝二。絶望的な状況で輝二の母…いや、父親の再婚相手への想いが明かされる。輝二の両親は離婚しており、彼は父親によって育てられた。そんな父親の再婚相手をまだ母さんと呼べずにいた彼だったが、デジタルワールドに来る直前、結婚記念日に父と結婚相手を祝い、彼女を母さんと呼ぼうと花束を購入していたのだ。そんなタイミングでオファニモンに返事をするなよとは思うのだが、突然降って湧いたドラマにしては程よい重みがあり、ザ・進化回とも言えるような動機づけとなっている。単体エピソードで観れば、かなり出来がいい回だろう。輝二の想いにセラフィモンの卵が反応し、そこから放たれた光が輝二に新たな力を与え、ベオウルフモンへの進化が果たされる。そこですぐにダスクモン撃破といかないもどかしさはどうしても残るのだが、それまでただのクールボーイだった輝二の意外な一面が明かされたエピソードでもある。しかし問題は、ダスクモンの正体、輝一の存在である。

ベオウルフモンへの進化は、輝二の「帰って両親の結婚記念日を祝いたい」という、前進の願いからくるものだった。それに対し輝一は、生き別れた双子の兄という、輝二にとって予想外の方向から現れた過去の遺物なのである。母が倒れ、弟の存在を知った輝一が輝二の後を追い、デジタルワールドに来てしまった後にケルビモンに利用され、闇の闘士として洗脳されたことが明かされる。洗脳が解かれ輝二と和解した輝一。しかし彼との再会は、新たな家族と前に進んでいくことを決意した輝二からすれば本来、忌避すべきなのだ。だが、輝二は最初こそ突然の兄の登場に戸惑っていたものの、割と呆気なく輝一を仲間と認め、その後は他のメンバーよりも輝一を大切に考えるようになる。確かに追加戦士と元メンバーがいがみ合わないという意味では正しいのかもしれないが、ようやく家族を認められるようになった彼に、兄を名乗る存在が現れて過去の家族との繋がりが生まれてしまうのは、正直ベオウルフモン進化時の主張とズレているように思える。そもそも輝二がずっと孤独を抱えて生きてきたということが描写され、そこに輝一という自分と同じ境遇の存在が現れたならば、彼等が真に解り合うのも納得がいく。しかし明かされた輝二の過去は新たな母親を受け入れるというもの。せっかく良エピソードだったベオウルフモン回から約一ヶ月でテーマの乖離が生まれてしまうのだ。ダスクモンの正体に関しては事前に仕込んでいたのだろうし、ここはむしろベオウルフモン回の葛藤が無駄だったと言えるかもしれない。何にせよ、各回での盛り上がりを優先するあまり、キャラクターの感情が都合の良いように流れていくのはいただけない。

 

 

セフィロトモン編は5人がバラバラに戦うことを余儀なくされ、彼等の過去が一人一人明かされるという構成になっていた。友樹の兄への想い、泉の帰国子女ならではの疎外感、純平の人に好かれたいという思い。1話掛けてじっくりと彼等の物語を描いているのだが、各々の葛藤は視聴者にのみ伝えられ、各メンバーはお互いのことを知らずに終わる。これが本当に恐ろしいというか、同じ悩みに共感し、より絆を深めるということを一切しないのが逆に潔い。これもパートナーデジモンがいればその孤独を癒してくれる存在として強調され、絆や感動が生まれるはずだ。しかし人間が進化するという設定を選んだ『フロンティア』では、一人で勝手に落ち込んで勝手に立ち直ったようにしか見えない。そういえばこの作品には全体的に、特定のメンバー2人をピックアップして交流を描くということがほとんどなかったような気がする。1人にクローズアップすることはあっても、誰かと言葉を交わしたり共に戦ったりすることで生まれる意見や価値観の変遷がまるでなかった。『無印』や『02』はその辺りの組み合わせでキャラクター同士が向け合う感情のコントロールを図っていたのに…。

 

そしてケルビモンとの最終決戦。最終決戦だというのに「今から倒しに行くぞ!」という意気込みなどは一切なく、トレイルモンに乗っていたらレールの上で待ち構えていたケルビモンにぶつかり車両が横転してしまうという、なかなかの展開。しかも拓也達は輝二に言われるまでそれがケルビモンであるということすら知らない始末。何と張り合いのない導入だろうか。第1話でデジタルワールド突入を劇的に描いた作品と同じであるとは思えない。そしてケルビモンとの戦いで、彼等は十闘士のスピリットを拓也と輝二の2人に10ずつ集結させ、ハイパースピリットエボリューションという新たな進化へと至る。これも拓也達の想いが成したということなどなく、オファニモンに言われるがままにそれぞれが持っていたスピリットをDSの通信のように交換していったらうまくいった…というのがいかにも『フロンティア』らしい。進化に感情を乗せることが苦手なのだろうか。そしてカイゼルグレイモンとマグナガルルモンへと進化し、ケルビモンとの最終決戦へ。さすがにこの2体のデジモンのかっこよさはずば抜けており、進化バンクや挿入歌もかなりテンションが上がる。それゆえにストーリーの熱量が全く追いついていないのが残念ではあるのだが。しかも進化によってサクッと倒すのではなく、2話ほどかけてじっくりと戦いを描いていく。何度も比べてしまって申し訳ないのだが、『無印』や『02』ならその回のノルマのデジモンを初進化で倒すのが当然だったため、進化からエピソードを跨いでの戦いとなると、どうしても苦戦している印象が強まってしまう。そしてその苦戦の印象は、実際に苦戦に変わる。ケルビモンを倒した後に唐突に現れたルーチェモン。彼が完全なる覚醒のために部下のロイヤルナイツに命じたのはデジコードの収集。デジタルワールドの崩壊を止めるため、拓也達はロイヤルナイツの2体と戦うことになる。

 

 

この最終クールが本当に酷い。デジモンシリーズの打ち切りが決まってやる気が一切なくなってしまったのだろうかと邪推してしまうほどに、観るのが苦痛で仕方なかった。特に新しい展開があるわけでもないままに、カイゼルグレイモンとマグナガルルモンがロイヤルナイツ2体にボコボコにされ、最後にはデジコードを奪われるエピソードがしばらく続く。約二ヶ月以上も似たようなことをやっているのだから、マンネリどころか視聴者が離れるのも無理はない。『フロンティア』の欠点に関してカタルシスの欠如について何度か言及しているが、この最終クールは特に酷い。敵を撃退することさえなく、必ずデジコードを奪われてしまうのだ。しかも新たなパワーアップもなく、進化できない友樹達は大したこともできず応援するのみ。苦肉の策として雪玉を飛ばし援護するなどはあったが、スピリットを集結させた2体でも敵わない相手に雪玉で戦おうという発想の意味が分からない。それなのに雪玉がしっかりと命中するのだから笑ってしまう。

勝ち筋が全く見えないままにひたすら主人公サイドが負け続ける展開。しかもそれが終わったからといって、急激に物語が動くということもない。ルーチェモンが復活を果たし、ロイヤルナイツは始末され、拓也達は危機的状況に。しかし輝一が自らを犠牲にすることで拓也と輝二はスサノオモンへと進化を果たす。輝一の犠牲と聞くと悲しい気もしてくるし、実際兄として慕っていた輝二にとっては悲劇なのだろうが、拓也達他のメンバーと輝一の関係性はここまで一切深まらなかったため、感動は薄い。何より輝一のみが「肉体はなく魂だけがデジタルワールドに来ている」というのも意味が分からない。少し間を空けてそれが「既に輝一は死んでいるに等しい」という意味だと明かされるのだが、そうなった理由は劇的なものではなく、階段から落ちたためなのである。つくづく運命に翻弄される子ども達だなあと思う。そしてスサノオモン登場回で突然クローズアップされる光と闇の概念。ルーチェモンは光と闇の両方の力を扱える稀有な存在であるが、輝一はそれに対して、自分達にもそれが可能だと言ってのける。自らを犠牲にして闇のスピリットを輝二に託し、これにて輝二に光と闇の両方の力が宿ることになるのだが、これはハイパースピリットエボリューションで「闇は光に!」とやっていたのと何が違うのか。もちろんスサノオモン初進化に際してきちんと理屈がついているのは嬉しいのだけれど、それがあまりにも説明不足で粗末なもののためについつっこみをいれたくなってしまう。というか、ラスト3話まできてかなり引っ張った輝一のデジコードだけが浮き上がらない謎をこんな雑な形で処理している作品にもう言えることはない。最終クールはただただ目で映像を追っていただけである。そこにストーリーと言えるものはほとんどない気がしている。

そこから2話ほどかけてルーチェモンとの決戦が描かれる。デジタルワールドを手中に収めたルーチェモンの最終目的は、人間界をも自らの支配下に置くことだった。人間でありながらデジタルワールドを救う使命を背負った拓也達の心情に対して、何度か細いメスを入れ動機の調整を図っていたというのに、ついに人間だから人間界を守るという当然の帰結に向かっていってしまった。本当に、どうしてここまで構成が絶望的なのだろうか。ヴァンデモンから人間界を守った後もデジタルワールドを修復するために子ども達自らの意思で再び冒険の旅に出た『無印』を見習ってほしい。最後は輝一はまだ生きていたというハッピーエンド。よかったねとは思うが、感動はしない。というか、輝二が両親におめでとうを言うとか、拓也が弟の誕生日を祝うとかそういう「平和な世界」のエピローグをもっとじっくり描いてほしかった。輝二は新しい母親を母さんと呼ぶことができたのに、実の母親とも会うだなんてどういう神経をしているのか。いやあ、全くもって破綻している。あまりに粗末だ。

 

 

その他にも、友樹が簡単にいじめっ子を友達だと言ってしまったことへの不満とか、ボコモンとネーモンが全くいらなかったこととか、ルーチェモンが真の黒幕だということをもっと事前に示唆しておいてほしかったとか、いろいろ言いたいことはある。あるが、キリがないためにここまでにしておきたい。ただ断わっておきたいのは、私はこの『デジモンフロンティア』という作品が大好きだということ。愛ゆえの叱咤などというつもりはないが、リアルタイムで何より楽しんだ作品であるため、どうしても嫌いになることはできない。だから誰かが『デジモンフロンティア』を叩いていればムっとしてしまう。しかし逆に『デジモンフロンティア』を絶賛している人に対しても、奇妙な違和感を抱いてしまうだろう。すごく複雑な思いがあるために、思い出補正の面倒くささを実感してもいるのだが、やはり主題歌や挿入歌、そして設定の数々には惚れ惚れとさせられる。キャラクターが深堀りされることこそ少なかったし、それゆえに主役6人ですらテンプレートのようになってしまっていたが、深淵なる世界観は少年時代の私をワクワクさせるには充分だった。ここが惜しいという点がいくつも挙げられるからこそ、むしろ似たような内容でも順序を入れ替えたりうまくキャラを配置してエピソードを作り直すだけで、とんでもない傑作に化ける予感がしている。欲を言えば無印のようにこの『デジモンフロンティア』を現代にリメイクしてほしいのだが、どうだろうか。制作陣は大きく変えて構わないので、この魅力的な設定がより活かされる時がくることを願っている。