映画『ビヨンド・ユートピア/脱北』感想 進撃の巨人みたいな世界が現実に存在するという地獄

 

北朝鮮に抱くイメージというと、時々ミサイル撃ってくる国くらいのものだった。だが、この映画を観るとそのイメージが酷く抽象的だったことに気付かされる。北朝鮮という国はひたすらに住民を搾取し、金正恩が何よりも優先される悍ましいディストピアだったのだ。『ビヨンド・ユートピア/脱北』では脱北者を追ったドキュメンタリーとして北朝鮮の実情や命懸けの脱北劇が描かれる。ただ生きていたいというだけなのに、幸せに過ごしたいだけなのに、国から命を狙われ続けることになる人々の物語。いや物語ではなく、これは現実なのだ。ファンタジーでもフィクションでもなく、今リアルタイムで現実に起こっている出来事なのだ。想像を絶するほどの恐ろしさに、緻密に構成されたフェイクドキュメンタリーなのではないかと何度も疑ってしまう。最後に壮大なネタばらしがあるのではないかと考えてしまう。しかしこれは現実なのである。何なら我々の住む日本という国のすぐ近くでこのような社会が存在しているのだ。

 

監督はマドレーヌ・ギャビン。調べるとNetflixでも1作ドキュメンタリーを撮っている。タイトルは『シティ・オブ・ジョイ ~世界を変える真実の声~』。戦争で荒廃したコンゴにおいて、性暴力被害に遭った女性たちのケアを行う団体を追った作品だという。未見ではあるがこの題材だけで、ギャビン監督が人権意識のかなり高い人物であるということが伝わってくる。そんな彼女が次に選んだ題材が脱北。日常的に使う言葉ではないが、国を捨てるという苦しさとそうしなければ生き延びられない辛さがこの漢字2文字に詰まっている。恥ずかしながら私の北朝鮮のイメージは冒頭に述べた程度のもので、正直この映画自体も「何か面白そうだから」という理由で観に行ったに過ぎない。シネコンで上映されたから時間の都合もついたが、都内数か所の上映館のみなどだったらきっとこの映画のことを知ることはできなかっただろう。しかし私にとって非常に価値のある映画となった。知らない世界を見せつけられたのである。このような地獄が存在しているなど、想像することもできなかった。冒頭で語られた北朝鮮の歴史に対して「さすがに嘘だろ…」とまで思ってしまう。漫画のように悍ましい独裁政治国家が本当にあるだなんて…。

 

脱北者の支援を長年行うキム牧師。常に電話が鳴り止まない彼に助けを請うた、二組の脱北者を映画は追っていく。片方は息子を脱北させたい脱北者の母親。もう片方は両親と娘二人、そして80歳の祖母の5人で脱北真っ最中の家族である。描写としてはどちらかというとこの家族の割合が大きい。それは脱北のスタートからゴールにまで密着しており、純粋にその実情を余すことなく捉えることができたからだろう。もう片方の母親に関しては、息子の状況をブローカー(北朝鮮や各国に存在している、脱北者や協力者から金銭を要求することで脱北を支援する人のこと)から電話で伝え聞くに過ぎない。

 

脱北と聞くとただ国境を越えればいいだけに聞こえるが、実際はそうではないらしい。北朝鮮から韓国に南下することは警備上できないため、比較的警備が緩いルート=川を渡って中国に出るルートを脱北者は利用する。しかし中国人は脱北者北朝鮮に突き出したり、誰にも言わず自分の奴隷にしたりするそうな。結局脱北者が自由になるためには、北朝鮮と繋がりのない国であるタイにまで辿り着かなければならない。中国、ベトナムラオスの三国で見つからないよう隠れて過ごし、時には夜通しジャングルを抜け、時には川を渡って。そしてタイの警察に見つかることで韓国へ送られ、韓国でまともな暮らしを得る権利を獲得するのだ。その間にいつ殺されるかも分からない。誰が味方で誰が敵かも分からない。見知らぬ土地で殺される恐怖に怯えながら過ごす時間は、家族にとって地獄だっただろう。しかしそうしなければ彼等は北朝鮮で殺されていたのだ。

 

そしてこの家族を含め、インタビューを受ける脱北者から飛び出す北朝鮮でのエピソードはとにかく「信じられない」の一言に尽きる。金正日の写真を家に飾らなければならず、政府が立ち入った時にその写真が埃をかぶっていれば殺される。そして処刑には国民が召集され、幼い子どもでさえ人が死ぬのを目の前で見させられるのだそう。テレビではお馴染みとなったマスゲーム(集団行動のように動きを揃えた北朝鮮人のパフォーマンス)は、暑かろうが寒かろうが関係なく強制参加させられ、動けなくなるほどの怪我をしても誰も助けてくれないのだという。勝手に歌を歌ったり踊りを踊ることも禁止されるが、北朝鮮人は政府に反旗を翻すことはない。なぜなら彼等は洗脳教育によって北朝鮮が最も正しい国であり、金正恩こそが英雄だと思わされているからである。アメリカ人や日本人、韓国人は敵。世界中のどの国も自分達のように貧しい暮らしを送っている。金正恩こそが自分達を救ってくれる。その思想が生まれた時からこびりついている彼等からは、政府を裏切るという発想は出てこない。報道機関も限られているため、外の国の情報が入ることもないそう。飢饉によって道端で人が餓死していても、それが「世界の当たり前」だと思い込んでしまうのだ。むしろ自分達はまだマシな方だと思わされているのである。

 

この洗脳教育という部分は聞いていてとても恐ろしかった。てっきり人々は武力という恐怖で押さえつけられているのかと思っていたが、実際はそうではない。金正恩が正しいという価値観を植え付けられ、自分達の境遇に疑問すら持たない奴隷のような状態にさせられているよう。正に共産主義、正にカルトである。大悪党に騙され付き従ってしまう人々だなんてフィクションではよく見る光景だが、それが現実に蔓延っているだなんて、未だに信じられない。映画の中でも、80歳の女性の言葉が特に印象的だった。「金正恩様は賢いのに」という言葉。そして家族が脱北したからついていくしかなかったものの、本当は脱北するつもりなどないし金正恩のことを信じているのだという。娘二人も金正恩を尊敬しているようだった。北朝鮮の人々にとって金正恩は神様であり、自分達を救い護ってくれている英雄なのだ。道端で人が死のうとも、彼等はその元凶である金正恩がどうにか自分達を救ってくれるだろうと考えるのである。

 

北朝鮮が国民の声を無視してまでひたすらに軍事力を拡張していくのは、逆に世界各国からの攻撃に怯えているからだという指摘が映画の中でもあった。それは実際にそうだと思うが、だとすればはた迷惑な話である。金正恩ほか一部の上層部が甘い汁を吸うために国民が犠牲にされ、彼等がこれからも甘い汁を吸い続けるために他の国から敵視される状況を作り出していく。自分達の蛮行が邪魔されないように兵器を作り、人々を虐げる。そんな巨悪がこの世に存在しているということがとにかく恐ろしい。脱北する家族のインタビューや言葉はとにかく印象的なものが多いが、脱北から7ヶ月が経過して北朝鮮の真実を知った彼等の笑顔が全てを象徴しているかのようだった。80年間も北朝鮮で過ごした彼女は「もっと早く世界を知っていればおしゃれでもしたのに」と冗談交じりに言っていたが、その言葉の重みはとてつもない。自分達の生活が当たり前だと思てしまうことの恐ろしさを、この映画は教えてくれる。

 

私がこの映画を観ながらぼんやりと頭の中でリンクさせていたのは、先日アニメが完結した『進撃の巨人』である。言わずと知れた大人気漫画で、壁の中に押し込められた人類と壁の外で蠢く巨人という謎の生物の戦いから始まり、物語は予想もつかない方向へと加速していく。大人気漫画にまで上り詰めた要因はたくさんあるだろうが、壁の中の世界しか知らずに育った主人公のエレン達の思いは、脱北者の心情と重なる部分が非常に大きいように感じた。そして壁の向こうに別の世界がある、ということも。『進撃の巨人』自体戦争を題材にした漫画であるし、世界情勢とリンクすることが偶然であるとも考えられはする。だが政府に嘘を教えられて家畜のように生きていくことを当然とし、それを疑いもしなかった壁内の人間達に、どうしてもこの映画で観たような脱北者の思いを重ねてしまうのだ。もし読んだことがない人がいたら読んでみてほしい。

 

キム牧師は牧師というくらいだから当然キリスト教徒であり、彼がお金を出してまで脱北者を支援することの理由も教義に基づいている。映画では軸がブレるためかこの宗教感にはあまり触れられていなかった。何ならキム牧師の奥様も脱北者であり、冒頭彼女は「夫が金正日に似てて一目惚れした」と語る。北朝鮮には太っている人などいなかった、と。笑っていいのか分からないブラックジョークである。

この映画で描かれるのはコロナ前の出来事であり、コロナ禍では国境を渡ることが難しくなったために脱北の手助けができない状況に陥ったそう。コロナウイルスはこんなところにまで影響を与えていたのかと驚く。

 

自分達が当たり前に日々を過ごせていることの喜びを実感すると共に、海の向こうにはこんなにも悍ましい世界が存在しているという絶望をも喚起させてしまう諸刃の剣な映画。何かできることはないのかとも思うが、日本人にできることは限られているのだろう。とはいえ、調べてみると脱北者の活動家や脱北Youtuberなんて人もいるらしい。

 

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上記は韓国人の方のチャンネルだが、ここ1年ほど脱北者のインタビューを多く取り扱っている。この映画ともリンクするような話をたくさん聞くことができる。

 

とにかく「衝撃」の一言に尽きるとんでもないドキュメンタリーだったが、考えさせられる…で終わらず、心の中に何か不安を落としていくような作品だった。日本がこのような状態になることはないと信じているが、それでも北朝鮮という国が何かしらの形で自分の人生に干渉してこないとは限らないのである。