映画『ある閉ざされた雪の山荘で』感想 小説の持つインパクトとはかけ離れた退屈な推理劇

 

『ある閉ざされた雪の山荘で』の東野圭吾による原作は、1992年に発売されている。つまりは22年越しの映画化。原作にはスマートフォンはおろか携帯電話すら登場していない。小説が映画の原作になることは難しくないが、20年以上前の作品となると話は別である。この作品がどうして今になって映像化されたのか。その理由の1つはやはり、小説という媒体に特化した衝撃の種明かしだろう。おそらく小説を読んだ人ならすぐにピンと来るはず。しかし逆に映画を先に観た人にとっては、どういうところが映像化不可能だったのかと疑問を持ってしまうかもしれない。私は先に原作を読んでしまったので、逆の順序の人がどう思いどう感じたかを知る術はないのだが、少なくとも私にはこの映画は「小説の設定だけを使った劣化版」のように思えてしまった。

 

なぜなら、小説の「あのトリック」を結局真正面から無視した形になっていたからである。それでいて、小説を超えるもしくは小説の驚きに匹敵するほどのパンチの利いたトリックもない。というか小説でクローズアップされていた描写を何故かすっ飛ばしたりさらっと終わらせたりしてしまっており、「事件のトリック」自体にあまり興味が持てないような作りになっている。もちろんそういう映画が存在すること自体は否定しないが、それをこの『ある閉ざされた雪の山荘で』でやってしまうのは非常に勿体ない。

などと長々と書いてしまったが、小説版のネタバレをしなければ話をうまく展開させられないので、まずはネタバレをさせてもらいたい。『ある閉ざされた雪の山荘で』の小説は「地の文」と映画では重岡大毅が演じていた「久我和幸の独白」という2つの視点から交互に状況が語られる。「久我和幸の独白」では久我の意地汚い部分であったり、映画では西野七瀬が演じていた元村由梨江への想いであったりと、非常に人間臭い部分が描かれていく。田所義雄(映画では岡山天音)を露骨に見下すような描写さえある。ただ田所は結構クズの気質があるため、見下されて当然と言えば当然かもしれない。そんなお世辞にも聖人君子とは言えない久我の独白と並行して、「地の文」によって事件が描写されていく。

 

だが、この「地の文」には所々に”違和感”が存在しているのである。代表的な部分だとこの「地の文」では登場人物の名前が一貫してフルネームで呼ばれている。普通小説ならキャラクターの呼称は苗字や名前だけで充分であり、登場の際に紹介も兼ねてフルネームを記述することはあるが、それも最初の1回だけである。しかしこの「地の文」は最後までずっと山荘を訪れたメンバーをフルネームで呼び続ける。そして事件の描写に関しても、やはりどことなく違和感がある。まるで事件を傍で見ているかのような語り口…いや、実際にこの地の文は事件を「見ていた」のである。終盤の推理シーン、それまで地の文だと思っていた語り部が、久我に「さあ、出てきてください」と指を差され、一人称が「私」に変わるのである。映画を観た方ならもうお気づきだろうが、その語り部こそ事件の首謀者である麻倉雅美(森川葵)。彼女は壁の隙間にずっと息を潜め、穴からずっと山荘での一部始終を見ていたのである。「神の視点」だと思っていた地の文が「私」だと明かされた瞬間の鳥肌。今でこそそういうテクニックを用いたミステリー小説は多いかもしれないが、1992年にこれほど緻密な仕掛けが施されている小説ともなれば話題になるのも当然だろう。

 

もちろんこのギミックだけが凄いのではなく、殺人自体がオーディションなのか本当なのか分からないままに翻弄されるメンバーの心情をしっかりと捉えている点も印象的。オーディションを装った殺人計画…を演じることになった者と巻き込まれた者。その三重構造と読みやすい筆致がページを捲る手を止めさせてくれない。長年評価される理由もよく分かる素晴らしい作品だった。とはいえ、勿論言いたいことがないわけではない。ラストは謎を解いた後に久我が他のメンバーの友情に涙するシーンでバッサリと終わっており、若干の消化不良感が残る。また、そもそも「オチがハートフル」であるためサスペンス要素を期待するとあったかいラストに少々面食らってしまうだろう。だが、少なくとも「地の文が実は登場人物の1人だった」というこの小説の最大の要であるトリックを、映像表現において成立させることは不可能に近いと言える。もちろん映画の半分以上を雅美の視点で構成するということができないわけではないが、その違和感はすぐに犯人の正体へと結びついてしまうだろう。

 

つまり「どう映像化するか」が原作を映画化するに当たって最大の注目ポイントだったわけだが、なんとこの映画は「その部分に注力しない」という大胆不敵な手段に出た。「犯人の視点で語られていた」という部分には目もくれなかったのである。その潔さは良いと思う。媒体が違うのだから小説に特化した方法を映画でそのままやっても仕方がない。しかし、この作品がそもそも「ギミックもの」であることを考えると、削除した分のギミックの代替すらなく、ただ平凡な推理ドラマになってしまったのは非常に残念である。

 

小説ならそれこそ久我の感情なども言葉でしっかりと描写されていくわけだが、映像にするとこの作品の描写はあまりにもあっさりとしすぎている。1992年の作品ということもあるのだろうが、キャラクターのクセもそこまで強くない。比較的優等生な登場人物たちの物語なのである。簡単に言うと、この作品から地の文のギミックを取り除いてしまうと旨味が一気に半減してしまうのである。小説は自分のペースで読むことができるし、何より「今起きていることが事件なのか演出なのか分からない」というモヤモヤで、読書の速度は加速度的に増していく。しかし映画では淡々とした演出と共に登場人物がぽつりぽつりと喋るのみ。映像的に「おおっ!」と唸らせてくれるような表現もない。間取り図のように絵に描いた山荘を上から俯瞰していくシーンが何度かあったが、あれが一体何を表現しているのかが全く分からなかった。会話劇としても、特に印象的なシーンがあるわけではないため(逆に言えばコテコテの推理作品ということ)、とにかく冗長。犯人を知らない人は犯人が誰かという興味だけで視聴を持続できるのかもしれないが、オチを知っている私にとってはむしろ小説版から取り除かれた色々な要素に対して「どうしてあれを消したんだろう」「どうしてこんな風に変えたんだろう」と違和感を抱く場面の連続だった。

 

カット割りも非常に落ち着いていて、緊迫感がまるで感じられない。心情描写がない分、彼等の演劇にかける情熱が伝わってこず「早く通報しなさいよ」とずっとイライラしてしまった。ただ一番イラッとしたのは8人が慕う劇作家の東郷の声が山荘のどこからか聞こえてきて、その字幕が屋根や壁にリリックビデオのように映し出されるという意味不明な演出である。明らかなCGでそんなものを出されてしまうと、登場人物達にその光景がどう見えているのかが全く分からなくなる。何よりああいう仕掛けをするのなら屋根がスクリーンでなくてはならないし、プロジェクターなども必要になってくるはずだ。そもそも事件か演出か分からない環境として観客を翻弄させなくてはならない映画なのに、このリアリティラインのいい加減さに腹が立つ。正直に言うと冒頭この字幕が出てきただけで視聴意欲が失せてしまった。ああいう声が聞こえたら普通「声はどこから出てくるんだ」を調べるのが推理のルールだろう。まして彼等は自分達が置かれている状況が本当に演出なのかと疑っている状況なのだから。あんなオーバーテクノロジーを印象的に見せつけられてるのに何の違和感も抱かないし調べようともしない。ちなみに小説版では指示の書いてある紙が置かれているという設定だった。なぜ変更してしまったのだろう。ただ、雅美が監視カメラで山荘を監視していたというオチ。まあこれについては仕方ないかなとも思う。小説でやったような覗き穴だと、実際に雅美が見える範囲はかなり狭いし映画としては無理があるだろう。

 

そして一番の改変ポイントがラストである。小説はオーディション・殺人事件・演出の三重構造だったが、映画のクライマックスでは雅美の独白がそのまま舞台に繋がり、まるでこの事件全てが舞台上の出来事であったかのように演出される。つまりは小説の上をいく四重構造になっていた。もちろんあれは「皆が仲直りした数年後の出来事」と解釈することもできるし、「そもそも映画の出来事自体が劇でした」というオチだとも読める。この辺りをきちんと説明しないのも不親切だなあと感じるのだけれど、原作では久我が泣いてあっさり終わってしまうので、エピローグがあるのは悪くなかった。とはいえこういう友情ドラマ的なことをやりたいのなら、もっと山荘の時点で人間関係をしっかり描いてほしかったなあとは思う。私は特に感動などはしなかった。「ああ、こう変えたのね」と思ったくらいである。

 

総じて言うとかなり酷い出来栄えの映画だなあ、と。小説の要となる映像化不可能なギミックを丸ごと取り除いてしまうだけでなく、それに値する代替品もない。平凡な推理劇になってしまっているのは非常に残念だった。しかも最後はハートフルなオチ…。もちろんハッピーエンドが悪いというわけではないのだけれど、殺伐とした雰囲気作りをしておいてハートフルなオチになる作品、個人的にはもれなく肩透かしに感じてしまう。

ただ岡山天音の田所だけは原作の気持ち悪さをビジュアルから体現していて素晴らしかった。この前『笑いのカイブツ』という岡山天音主演の、実話を基にしたコミュ力最底辺男の映画を観たのだけれど、それに負けず劣らず「ヤバい奴感」を醸し出していたので凄い。まあ、田所の髪型とかどう考えても映画では浮いてましたけどね…。あと森川葵の演技力はマジで説得力があったので良かったです。