映画『夜明けのすべて』感想 三宅監督に脱帽。原作にないプラネタリウムが夜を鮮やかに彩る物語

『夜明けのすべて』は事前に原作を読んでいて、その評価の高さを全て宣伝なんじゃないかと疑ってしまうほどに自分に合わない作品だった。主人公の藤沢と山添の2つの視点から語られていくこの物語は、違う病気を持つ2人が、病気は違えど悩み苦しんでいる境遇の一致に気づき、心を通わせていく筋書き。原作では2人が心を近づけていく様が軽やかな文体で描かれる。決して起伏に富んだ物語ではないが日常に根ざしたような暖かみに溢れる作品…と言えば聞こえはいいものの、私にとっては正直ご都合主義な世界にしか思えなかった。PMSパニック障害という実在する疾患を題材としながら、2人の身の回りの人達の優しさや置かれた環境は非常に恵まれている。2人が症状を出したとしても寛容でいてくれる上に、誰から非難されることもない。もちろん社会としてそれが理想なのかもしれないけれど、その表面だけが綺麗にコーティングされたようなファンタジーな世界に辟易してしまった。その上藤沢はパニック障害のことを調べて、じっとしているのが苦手だと知ると、山添の自宅に押し掛けて散髪をしようとする。さらに、お昼休憩に外出しただけで社員全員分のお菓子を買ってくる。こういったお節介さが私には押し付けがましかった。私は周りの人間にはなるべく干渉してほしくないし、干渉したくもない。それなのに小説では藤沢の立ち居振る舞いが生きるための正解のように描写され、すごく不快だったのだ。もっと言うなら、それほど踏み込んだ関係性でありながら、2人は思考でも言葉でもとにかく「恋愛じゃない」ことを強調する。作品内でも言われていた男女の友情が成立するか問題は自分も不毛だと思っているが、殊更に恋愛じゃないことを強調するのも不自然だった。むしろ藤沢の暑苦しさの根拠には恋愛感情が存在していないと嘘だろうとも思えた。

 

そういった読後感であったため、割と複雑な気持ちでの映画鑑賞に。さすがは松村北斗。初日初回、平日の朝8時台だというのに館内は女性客で賑わう。PMSの話が出てきた時には女性客の比率が高すぎる故に、男性の私は妙に気恥ずかしくなっていた。原作も好きじゃなかったし、ある意味消化試合だったはずのこの映画。しかし原作にない要素が作品の持つテーマ性をどんどん深掘りしていく。生きづらさを夜に準え、その夜が明ける希望を謳う。原作では2人の職場は金属を扱う会社だったが、映画では自宅用のプラネタリウムなどの製作会社に変わっており、ラストのプラネタリウムのシーンで語られる星や星座の話が2人の境遇と静かにリンクしていく。明けない夜はないというように、夜明けは希望の象徴。2人が持つような病気でさえ一時の夜であると優しく語りかけてくれるこの物語は、病気の当事者でない人々の心にさえ光をもたらす、原作の新解釈のような物語だった。私が原作に感じてしまった気持ち悪さや軽薄さ(もちろんそれが良い方向に作用して感動した人がいることは否定しないが)、そういったものが全て払拭され、まるで生まれ変わったかのように新たな物語が誕生している。

 

病気があるとかないとかそれ以前の内容で、何かに悩み生きづらさを抱えている個人が、自分の悩みを分かってくれる誰かと出会う話。私が何よりこの映画の好きなところは、人々の「悩み」を至る所で垣間見ることができる点である。原作ではラストにサラリと明かされた社長の過去。弟が亡くなっているという稀有な経験があったからこそ、藤沢と山添にも優しくすることができたのだと彼は明かしていたが、その弟の遺したテープ音声がプラネタリウムの言葉に置き換わっていくのは素晴らしいアイデアだったと思う。生きづらさを抱えて亡くなった者でさえ、死後に誰かの希望や指針となることができるのだ。他にも藤沢の転職をサポートしていたエージェントに、面談の途中で電話がかかってきてしまう場面。話の内容から察するに電話の相手は子どもで、お風呂の追い炊きの方法が分からなかったらしい。きっと彼女も子育てと仕事の両立に悩みながらここまでやってきたのだろう。後は会社のインタビューを撮影していた年配の女性社員の息子がどう見てもハーフだったこと。一切の説明はなかったけれど、彼も彼なりに、そして母親も母親なりに何かに悩んだかもしれない。そうした個々人の背景が少ない言葉で語られていき、世界観がより強固になっていく。小説ではどうしても言葉に頼らなければならず、ゆえにしつこく感じられてしまったものが、秋に落ちる木の葉のような自然さで映像として出てくるのだ。わざとらしさを感じさせず、それでいて深く考えさせられる。言葉の選び方一つとっても、かなり計算されているのではないかなと思える。

 

登場人物を増やしたことなどに関しては、三宅唱監督のこのインタビューを読むと更に理解が深まるかもしれない。

 

www.cinra.net

 

たまたま小説では浮上してこないだけでそこにいたんじゃないかという人間。

そういう人物がしっかりと肉付けされることで、小説にあったファンタジー要素がかなり消えていっている。もっと言うと、小説では藤沢は自分から髪を切るためのハサミなどまで買い揃えてから山添の家に来ていたし、藤沢が山添の家にお守りを届けると、同じタイミングで更に2人の人物がお守りを山添に届けていたという、現実ではまずありえないシチュエーションまで飛び出してくる。しかしそうした要素は映画では全て取り払われている。本当に彼等が実在しているかのようなリアルさ、更には疾患と向き合いながら絆を深め、仕事でのプロジェクトを成功させようと奮闘するという、私たちの生活とも決して遠くない平凡さ。そうした地に足のついた物語として作られていることがひしひしと感じられるのだ。

 

更に監督だけでなくキャストがこだわっていたのは、藤沢と山添の関係性である。そもそも三宅監督はこの2人の恋愛関係とは離れた関係性に魅力を感じたためにオファーを受けたと話している。小説ではそこを藤沢達の言葉で何度も否定するところが逆にわざとらしく感じられてしまった。しかし映画ではそこへの言及はほとんどない。それどころか髪を切るほどに体を近づけても、そうした性愛の匂いを一切感じさせない。やはり松村北斗主演ということもあってファンは気になるのか、「キスシーン」というサジェストが検索で出てくるが、キスどころかそういういやらしさは一切感じられないので安心してほしい。むしろそう見えないように、映画の作り手たちがかなりこだわっていることがよく分かる。

 

映画の話で言うと、最初は会社の人達を悪く言っていた山添がエアロバイクに乗っていて、そこから藤沢と関わり世界を広げていくにつれ自転車に乗るという演出も素晴らしい。原作でも自転車に乗ることで行動範囲が広がり自由を感じる山添の描写は存在しているが、それが藤沢からの贈り物になりさらにはエアロバイクという「漕いでいるけど進まない」前段階があることで、その意味が大きく強調されていく。自転車で上り坂を進むシーンでは、上り坂になると共に道に影が差し込んでいる。しかしそれを登り切ればまた日当たりは良くなるのだ。更に言うと山添がわざわざ自転車を降りて押して上り切った坂でさえも、電動自転車に乗った女性はスイスイ上り切っていく。誰かにとっての坂道が他の人にとってもそうだとは限らない。けれど人の痛みに気付いた時に手を差し伸べることで、その誰かは救われていく。そうした強いメッセージを感じる場面が随所に差し込まれている。

 

彼等はただ生活をしようと必死になっているだけである。その努力や絆の芽生えを、大袈裟でなく素朴に描いていく。その優しさと、視覚的に使われた光と影、そして少ないけど確かな意味を持つ言葉。映画を締めくくるのは中学生達が撮影していたドキュメンタリーの映像だが、正にドキュメンタリーのような自然さで彼等の生活が浮き彫りになっていく。中盤の、互いの病気を茶化し合う藤沢と山添の掛け合いも素晴らしかった。これこそまさに、彼等の関係性だから言えることなのだ。周りに自分の病気のことを言い出しづらかった2人が、互いの苦しみを知っているからこそその根源に対しても軽口を言い合える。それでいて彼等はお互いに依存しない。藤沢が転職を決めても、山添はそれを静かに応援する。このさりげない関係性が築かれていくまでの過程が丁寧に描かれていた。

 

三宅監督は前作『ケイコ 目を澄ませて』でも聴覚障害を持つ女性の物語を描いていた。もちろんその苦しみは当事者にしか分からないのだろうし、分かったつもりになるのはよくない。それでも「苦しんでいる」ということに思いを馳せることはできる。それは障害や疾患に関わらず誰もが普遍的に持つ感情にほかならないからである。安易に社会批判的な方向に走るのではなく、あくまで人々の生活を描く三宅監督はきっと映画を通して訴えたいこともたくさんあるのだろう。大きなテーマを描きながらもミクロな視点を崩さず素朴な世界を映し出すことのできる多彩な監督だと思った。これからもたくさんの作品を作ってほしい。