上映順的にこの『笑いのカイブツ』が2024年の映画初めになったのだけれど、年明け5日目から大の大人が劇場の中心の席で咽び泣いてしまった。本当に嘘偽りなく岡山天音と同じくらい泣いてしまったかもしれない。好きなものに対してどこまでもまっすぐなのに、コミュニケーション能力が足を引っ張り続けて何者にもなれずにいる主人公・ツチヤタカユキの物語。これが実話だというのだから本当に凄い。でもきっとこういう人は社会にたくさんいるんだと思う。何かを好きで、何かに一途で、その分野で頂点になるためだけに時間を費やし、他のものに一切目がいかない人。主人公のツチヤは人と関わる能力が本当に絶望的で、観ているこちらでさえ殴りたくなってしまうほど。こんなどうしようもない男を延々と演じられる岡山天音の説得力が凄まじい。傍目から見ている分にはそれなりに楽しいし感動するのだろうけれども、きっとツチヤと関わった当事者の多くは、彼を認めることなんてできないのだろう。漫画や映画のフィクションでは天才が人脈なしに力で世界を圧倒してしまうけれど、実際にはそううまくはいかない。人と関わる術を持たない人間は、社会からいとも簡単に弾き出されてしまう。それがどれだけの才能であっても、コミュニケーションが成り立たないという前提だけで人は切り捨てられてしまうのである。
原作はツチヤタカユキの私小説。映画ではベーコンズになっていたお笑い芸人はオードリーらしく、オードリー若林と同居していた過去もあるようなので、きっとお笑い界隈では有名な話なのだろう。私もここ数年配信などでお笑いをよく見るようになったので、エンドクレジットにたくさんの芸人の名前が出てきたのは素直に嬉しかった。漫才指導に令和ロマンの名前がクレジットされていて、お前らチャンピオンどころか仲野太賀に指導まで…!と驚く。ギャロップの毛利さんには気付けなかった。ハガキ職人からスタートし構成作家の道へと歩み始めるツチヤタカユキの物語だが、シナリオ自体は笑いなどほとんどなく絶望だらけ。笑いを取りにいく人間の話が、ここまで息苦しいということがあるだろうか。原作を読んでいないのでどこまでが実話でどこまでが脚色かというのは分からないのだけれど、それでもきっとツチヤタカユキ自身はこういう息苦しさの中で生活し続けていたんだろうなあと思う。お笑いがやりたいだけなのに、それ以外の部分が足を引っ張って人間関係を構築できない。その辛さを高濃度で映像化したのがこの『笑いのカイブツ』なのだ。
実際、ツチヤタカユキと検索するだけでいくつかインタビューなどの情報を読むことができる。
ツチヤ そうなんです。27歳で、価値観が全部ひっくり返ったんです。東京から大阪に帰ってきて、メールで漫才の依頼を受けてたけど、それも辞めて。なにも無くなったときに、お笑いのネタ書けて、センスで生きてる俺は天才だ、って思ってる自分がすごいダサく感じたんです。世の中ではなにもすごくないのに、寄りかかって生きてる。だから、一回死んだんです。
これが映画のラストに主人公が身投げしたシーンに繋がるのだろう。このインタビューを読むとそうして死ぬことによって笑いに対しての価値観が変わったそうで、この『笑いのカイブツ』という書籍自体への考え方にも変化があったらしい。なのでこの映画自体も「笑い飛ばす」ことが正解なのかもしれない。しかし映画が持つ負の熱量は凄まじく、人に受け入れられないツチヤが懸命に人と関わろうとして失敗し挫折し泣き叫ぶ姿を簡単に笑うことなどできなかった。
仕事先の人に挨拶もせずお礼も言わない。自分が面白くないと思ったものに対しては言葉を選ばず「つまらん」と一蹴する。勤務中にはお客さんの残した食べ物を貪り、ラジオを聴きながら品出しを行う。少なくとも日本ではそんな働き方は許されないし、隠れたところでやるのならまだしも、周囲に迷惑をかけてしまうようならばクビになって当然だろう。ハガキ職人という生き方を肯定してくれる人も少ないだろうし、周囲が怒る気持ちはよく分かる。何より、岡山天音の演技力のおかげで「いかにもバイト先にいる全然やる気ない奴」が出来上がっているのだ。観ている間もとにかくヘイトが溜まっていく。
しかし映画の中では同時に、ツチヤの笑いへの熱量も描かれていく。執着と言えるほどに病的なその思いが真実だからこそ、観ている私は彼に違和感を覚えながらも、かろうじてついていくことができた。だが、かろうじてついていけただけなのである。本当なら彼のような人物にも寛容になりたいが、実際自分が真面目にやっている時に同僚があの態度だったら私はどうにかしてツチヤを辞めさせようとするだろう。ただ、社会に適応できないことの息苦しさは私自身もよく分かっているつもりである。自分がマイノリティにされ、疎外されていく。その苦しみや孤独は痛いほど分かっているはずなのに、観ながらどうしてもツチヤを受け入れられない自分がいた。
だからこそ、ツチヤのことを認め、色々と便宜をはかってくれる人々の存在が暖かく感じられる。松本穂香演じるミカコ、菅田将暉演じるピンク、仲野太賀演じる西寺。生来の優しさもそうだろうが、どこか社会からはみ出た存在である彼等は、ツチヤの境遇を理解してどこまでも寄り添おうとしてくれる。その素晴らしい繋がりはツチヤがお笑いの道に進もうとしたからこその結果でもある。どれだけ態度が悪かろうと、好きなことに対して努力する才能を持つ人の周りには、そういう人が集まってくるのかもしれない。そんな人々に絆されて、段々と人とコミュニケーションを取るようになるツチヤの姿が大きな感動を生む。挨拶もきちんと言うようになり、周囲に差し入れまでするようになるのだ。だが、そんな些細な一歩ではツチヤを嫌う人々の心はそう簡単に動かせない。自分の陰口を聞いてしまった時の彼の物悲しい表情はとても印象的だった。
そして終盤、ピンクの働く居酒屋で号泣するシーン。自分はただお笑いをやりたいだけなのに、どうしてコミュニケーションを取らなければいけないのか。どうしてそんなことで評価されてしまうのか。どうして純粋に実力を認めてくれないのか。溢れていた思いが一気に込み上げてくる場面に、ツチヤと同じくらいこちらも号泣してしまう。声を掛けてくる他の客を「うるせえ!」と一喝するピンクも素晴らしかった。ピンクはツチヤと生き方こそまるで違えど、彼に何かを感じてこれまで可愛がってきたのだろう。心の叫びをただ隣で受け止めるピンクの器の大きさ、そしてそんな存在を獲得できているのに自分のやりたいことがうまくいかないツチヤの苦しさ。色々な感情がごちゃ混ぜになって襲い来る、本当に素晴らしいシーンだったと思う。
ツチヤタカユキ本人は今、吉本新喜劇の作家等で活躍しているらしい。つまりあの映画のラストから時間を掛けて再起へと至るのである。これが実話であることを考えると笑いに生きた男の感動ストーリーと捉えることができるが、「人間関係不得意」という題材はコミュニケーション能力が第一に求められる現代社会に対しての複雑な思いも込められているのかもしれない。
ある分野での才能があるのに人とうまく意思疎通が取れないというだけで、社会参画が絶望的になっているという人はきっとたくさんいるはずである。社会は結局人間の集合なので、人とうまくやっていけない人物には居場所がない。よっぽどの結果を出せば別だろうが、人間関係が壊滅的というだけでその結果を出すチャンスすらも失われてしまうだろう。私としてはコミュニケーションはたとえ愛想が良くなくとも最低限はしてほしいのだが、きっとそれさえも難しい人はいるはず。パワハラ等が叫ばれる現代、昔に比べればそうした人々への圧力は減ったかもしれない。それでも、コミュニケーションという評価基準の曖昧な項目によって侮蔑されてしまう人がいるのは辛いことである。そして、そのような理解されない人々と紐づけることが容易な「お笑い」という分野が、人間関係で成り立ってしまうことへの怒りや苦しみが、この映画にはふんだんに込められているように感じられた。
ツチヤタカユキをまるっと肯定することはできないけれど、それでも彼が周囲に心を開いて変わろうとしていった姿には思わず感動してしまう。ピンクや西寺のような、そういう人の本質を見極めて尽くすことのできる人間になりたいなあ…と映画を観て思った。