自分の中でデヴィッド・エアーと言えば『スーサイド・スクワッド』なのだが、多くの方がご存知の通りこの映画はすこぶる評判が悪い。製作中のゴタゴタによって撮り直しもあったようで、出来上がった映画はとにかく支離滅裂でストーリーにほとんど起伏がないまま、何か良さげに幕を閉じる。MCUに対抗(便乗)して生まれたDCEUの3作目、悪人達が政府に集められ、逃げれば死が待つ危険な任務に無理矢理投入させられる。平気で人を傷つける極悪人達のやり取りのユーモアや、それぞれの能力と特徴を見せつけるようなカットは印象的で、特にナイフに囲まれたジャレッド・レトのジョーカーはCMでも抜群のインパクトを誇っていた。それなのに映画の内容はあまりに酷く、キャラクターの扱いも丁寧とは言えなかったため、絵画のような美しい描写や演出こそあれど、物語としては杜撰な出来であったと認めざるを得ない。とはいえ、スタジオのゴタゴタに巻き込まれた形のデヴィッド・エアー監督を哀れむ気持ちもある。MCUも徐々に製作上の都合や裏方の苦しみがメディアによってクローズアップされ、純粋に映画を楽しむことが難しい状況である昨今。この『スーサイド・スクワッド』もその系譜に位置する映画だったのかもしれない。
ならば彼がアメコミから解き放たれて作った映画ならばどうだろう。日本ではビデオスルーとなってしまったが、『L.A.スクワッド』はデヴィッド・エアーが監督と脚本を務めたギャング映画。原題は『THE TAX COLECTOR』なのだが、何故か再びスクワッドを邦題に付けられてしまう。このジャケからスースクを意識する人はいないと思うのだけれども。前置きが長くなったが 実はこの『L.A.スクワッド』も海外で酷評されている。日本の映画評価サイトでもあまり評価は高くなく、何なら毎年最低の映画を決めるラジー賞でシャイア・ラブーフがノミネートされてしまったほど。要は多くの人がこの映画に対してネガティブな感情を抱いたということなのだが、私は割と好意的に観ることができた。つまらない映画だと内容にフォーカスするのが面倒だと思うので、なかなかに楽しめた私から「こんな風に楽しんだよ」というのをお伝えしたい。
映画のあらすじをネタバレ込みで簡単に。大物ギャングのウィザードの下で働くデビッドの前に、メキシコのギャングでウィザードと敵対するコネホが現れる。彼の扱いに困り、デビッドは叔父にコネホの始末を依頼するが、逆に叔父がコネホに殺されてしまう。ウィザードとコネホの衝突は大規模な抗争に発展し、デビッドの右腕であるクリーパーが殺され、彼の家族も危険に晒される。これまでに集めた大金を手に家族と逃げようと計画するデビッドだったが、金を取りに行った隙に妻が殺されてしまう。2人の子供も誘拐され、デビッドは子供達を救うために別の黒人ギャングに応援を依頼。そして遂にコネホを自らの手で殺すことに成功する。そんな彼に実の父であるウィザードは電話越しに言う。「お前は俺と同じだ」と。
この映画の前半ではデビッドがひたすらにギャングとして街を練り歩く日々を描写していく。そもそもギャングなので当然だが、金をくすねた男を銃で脅すなど、彼はとても品行方正とは言えない人物。しかし彼が金を盗んだ理由が娘の病気を治すためだと知ると、銃を戻すような良心も持ち合わせている。彼にとって家族は何よりも大切な存在であるということが強調されているのである。また、相棒のクリーパーの存在感が素晴らしい。これでラジー賞にノミネートされるなんて全く理解できないほどに、シャイア・ラブーフの色気が爆発している。彼はこの映画のために上半身にタトゥーまで入れたというのだから驚きである。そのタトゥーをまじまじと拝めるシーンは映画にないため、何の覚悟だったのかはよく分からないが…。
デビッドはある夜妻にふと尋ねる。自分の第一印象はどんなだったかと。そこでデビッドは自分が常に人から見返りを求められてきたと呟く。ギャングの父を持ち、いつ殺されるか分からない世界で生きてきた彼は、常に自分を生かす価値を周りに提供しなければならなかったのだ。この境遇への苦しみがひしひしと伝わってくる重要なシーンであり、そのウェットな質感に自分はかなり心を打たれたため、映画の評価もそう悪くはならない。彼が妻を選んだのは唯一自分に見返りを求めないからだったが、妻はデビッドに対し当初、母に暴力を振るう父親を殺してくれることを願っていたのだ。そのためにわざと彼と交際に至ったが、結果的には父親が酒を止めたために交際という結果だけが残ることになる…。と、意味深なやり取りが差し込まれるのに、それで夫婦関係にヒビが入るようなことはない。後々妻が死ぬことを考えると、ここである程度妻との衝突を描いていたほうがよかったのでは…とも思う。結局コネホの登場によって物語のトーンは一変。まず右腕のクリーパーが殺害されるが、これがほぼダイジェストのような演出になってしまっているのが悲しい。クリーパーが正直主役を喰う勢いでビジュアルから魅力漂う素晴らしいキャラクターだっただけに、アクションもほぼないまま蹂躙されるのは辛いものがある。彼がもっと活躍するような映画だったら評価も違っていたかもしれない。それにしてもシャイア・ラブーフ、『トランスフォーマー』の時の冴えない青年とは大違いのダンディな役柄で振れ幅に驚かされる。
その後にある、薄暗い場所で謎の儀式を執り行うコネホのシーンがかなり良い。数本の蝋燭の灯のみが辺りを照らす薄暗い小屋のようなロケーション。コネホの後ろには裸の若い女性が沈痛な面持ちで座っており、黒い壁には無数の紋章のようなものが描かれている。コネホが何かを命じると、ある女性が壁から浮き上がる。壁と同じように真っ黒に塗られた体に、矢印のようなマークが描かれた不気味な裸の女性。その黒い女はもう1人の女をコネホのすぐ背後まで連れて行き、ナイフで喉を掻っ切る。そしてダラダラと流れ出る血をコネホが頭から浴びる…という恐ろしい儀式。メキシコの儀式か何かなのだろうか。無垢な女性の血を浴びることにどんな意味があるのかは分からないが、分からないからこそ恐ろしい。監督はラテン系俳優を多く起用したかったらしいので、この儀式ももしかするとリアリティがちゃんと基盤にあるものなのかもしれない。しかしこの映像のおどろおどろしさ。さすがスースクでエンチャントレスを演出した男である。
妻を殺されたデビッドは子供達を救うために黒人ギャングに助けを請うが、何故かこのギャング達が二つ返事でデビッドの味方をしてくれる。どうしてこんなにあっさり…と疑問なのだが、後から、ウィザードの息子という肩書きが関係しているのかもしれないなあとも思った。デビッドはどこまでもギャングの息子という運命から逃れられないということなのかもしれない。黒人達の協力を得てコネホを殺害し復讐を終えるデビッド。しかし最愛の妻は戻ってこない。電話越しに父はデビッドを「自分と同じ」だと言う。若干ホラーな展開。清々しく終われない虚しさ。彼等のやり取りからしてもやはり、この映画は運命に翻弄されたデビッドという男の哀しみを描いていたのだと思う。だとしてもお粗末な点が多いし、時折挿入されるキラキラした回想や既存の楽曲をBGMとして使う手法にちょっと距離を置いてしまいたくもなるのが難点。家族が大切という描写も、もっとやり用があったよなあと考えてしまう。
だが、やはり一部の芸術的なシーンと、かろうじて伝わってくる主人公の悲痛さによって、そう軽々しく見捨てられない映画となっているように思うのだ。OPとEDもアートのようなかっこよさ。まあ、それは完全に『スーサイド・スクワッド』と同じなわけなのだが…。つまりこの微妙な切れ味こそデヴィッド・エアーの特徴であると言えるのかもしれない。でも私は嫌いにはなれないので、もう少し彼の作品を追って理解を深めていければなと思う。きっと彼の映画は物語ではなく、絵画を鑑賞するような心持ちのほうが楽しめるのだろう。