映画『夜明けのすべて』感想 三宅監督に脱帽。原作にないプラネタリウムが夜を鮮やかに彩る物語

『夜明けのすべて』は事前に原作を読んでいて、その評価の高さを全て宣伝なんじゃないかと疑ってしまうほどに自分に合わない作品だった。主人公の藤沢と山添の2つの視点から語られていくこの物語は、違う病気を持つ2人が、病気は違えど悩み苦しんでいる境遇の一致に気づき、心を通わせていく筋書き。原作では2人が心を近づけていく様が軽やかな文体で描かれる。決して起伏に富んだ物語ではないが日常に根ざしたような暖かみに溢れる作品…と言えば聞こえはいいものの、私にとっては正直ご都合主義な世界にしか思えなかった。PMSパニック障害という実在する疾患を題材としながら、2人の身の回りの人達の優しさや置かれた環境は非常に恵まれている。2人が症状を出したとしても寛容でいてくれる上に、誰から非難されることもない。もちろん社会としてそれが理想なのかもしれないけれど、その表面だけが綺麗にコーティングされたようなファンタジーな世界に辟易してしまった。その上藤沢はパニック障害のことを調べて、じっとしているのが苦手だと知ると、山添の自宅に押し掛けて散髪をしようとする。さらに、お昼休憩に外出しただけで社員全員分のお菓子を買ってくる。こういったお節介さが私には押し付けがましかった。私は周りの人間にはなるべく干渉してほしくないし、干渉したくもない。それなのに小説では藤沢の立ち居振る舞いが生きるための正解のように描写され、すごく不快だったのだ。もっと言うなら、それほど踏み込んだ関係性でありながら、2人は思考でも言葉でもとにかく「恋愛じゃない」ことを強調する。作品内でも言われていた男女の友情が成立するか問題は自分も不毛だと思っているが、殊更に恋愛じゃないことを強調するのも不自然だった。むしろ藤沢の暑苦しさの根拠には恋愛感情が存在していないと嘘だろうとも思えた。

 

そういった読後感であったため、割と複雑な気持ちでの映画鑑賞に。さすがは松村北斗。初日初回、平日の朝8時台だというのに館内は女性客で賑わう。PMSの話が出てきた時には女性客の比率が高すぎる故に、男性の私は妙に気恥ずかしくなっていた。原作も好きじゃなかったし、ある意味消化試合だったはずのこの映画。しかし原作にない要素が作品の持つテーマ性をどんどん深掘りしていく。生きづらさを夜に準え、その夜が明ける希望を謳う。原作では2人の職場は金属を扱う会社だったが、映画では自宅用のプラネタリウムなどの製作会社に変わっており、ラストのプラネタリウムのシーンで語られる星や星座の話が2人の境遇と静かにリンクしていく。明けない夜はないというように、夜明けは希望の象徴。2人が持つような病気でさえ一時の夜であると優しく語りかけてくれるこの物語は、病気の当事者でない人々の心にさえ光をもたらす、原作の新解釈のような物語だった。私が原作に感じてしまった気持ち悪さや軽薄さ(もちろんそれが良い方向に作用して感動した人がいることは否定しないが)、そういったものが全て払拭され、まるで生まれ変わったかのように新たな物語が誕生している。

 

病気があるとかないとかそれ以前の内容で、何かに悩み生きづらさを抱えている個人が、自分の悩みを分かってくれる誰かと出会う話。私が何よりこの映画の好きなところは、人々の「悩み」を至る所で垣間見ることができる点である。原作ではラストにサラリと明かされた社長の過去。弟が亡くなっているという稀有な経験があったからこそ、藤沢と山添にも優しくすることができたのだと彼は明かしていたが、その弟の遺したテープ音声がプラネタリウムの言葉に置き換わっていくのは素晴らしいアイデアだったと思う。生きづらさを抱えて亡くなった者でさえ、死後に誰かの希望や指針となることができるのだ。他にも藤沢の転職をサポートしていたエージェントに、面談の途中で電話がかかってきてしまう場面。話の内容から察するに電話の相手は子どもで、お風呂の追い炊きの方法が分からなかったらしい。きっと彼女も子育てと仕事の両立に悩みながらここまでやってきたのだろう。後は会社のインタビューを撮影していた年配の女性社員の息子がどう見てもハーフだったこと。一切の説明はなかったけれど、彼も彼なりに、そして母親も母親なりに何かに悩んだかもしれない。そうした個々人の背景が少ない言葉で語られていき、世界観がより強固になっていく。小説ではどうしても言葉に頼らなければならず、ゆえにしつこく感じられてしまったものが、秋に落ちる木の葉のような自然さで映像として出てくるのだ。わざとらしさを感じさせず、それでいて深く考えさせられる。言葉の選び方一つとっても、かなり計算されているのではないかなと思える。

 

登場人物を増やしたことなどに関しては、三宅唱監督のこのインタビューを読むと更に理解が深まるかもしれない。

 

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たまたま小説では浮上してこないだけでそこにいたんじゃないかという人間。

そういう人物がしっかりと肉付けされることで、小説にあったファンタジー要素がかなり消えていっている。もっと言うと、小説では藤沢は自分から髪を切るためのハサミなどまで買い揃えてから山添の家に来ていたし、藤沢が山添の家にお守りを届けると、同じタイミングで更に2人の人物がお守りを山添に届けていたという、現実ではまずありえないシチュエーションまで飛び出してくる。しかしそうした要素は映画では全て取り払われている。本当に彼等が実在しているかのようなリアルさ、更には疾患と向き合いながら絆を深め、仕事でのプロジェクトを成功させようと奮闘するという、私たちの生活とも決して遠くない平凡さ。そうした地に足のついた物語として作られていることがひしひしと感じられるのだ。

 

更に監督だけでなくキャストがこだわっていたのは、藤沢と山添の関係性である。そもそも三宅監督はこの2人の恋愛関係とは離れた関係性に魅力を感じたためにオファーを受けたと話している。小説ではそこを藤沢達の言葉で何度も否定するところが逆にわざとらしく感じられてしまった。しかし映画ではそこへの言及はほとんどない。それどころか髪を切るほどに体を近づけても、そうした性愛の匂いを一切感じさせない。やはり松村北斗主演ということもあってファンは気になるのか、「キスシーン」というサジェストが検索で出てくるが、キスどころかそういういやらしさは一切感じられないので安心してほしい。むしろそう見えないように、映画の作り手たちがかなりこだわっていることがよく分かる。

 

映画の話で言うと、最初は会社の人達を悪く言っていた山添がエアロバイクに乗っていて、そこから藤沢と関わり世界を広げていくにつれ自転車に乗るという演出も素晴らしい。原作でも自転車に乗ることで行動範囲が広がり自由を感じる山添の描写は存在しているが、それが藤沢からの贈り物になりさらにはエアロバイクという「漕いでいるけど進まない」前段階があることで、その意味が大きく強調されていく。自転車で上り坂を進むシーンでは、上り坂になると共に道に影が差し込んでいる。しかしそれを登り切ればまた日当たりは良くなるのだ。更に言うと山添がわざわざ自転車を降りて押して上り切った坂でさえも、電動自転車に乗った女性はスイスイ上り切っていく。誰かにとっての坂道が他の人にとってもそうだとは限らない。けれど人の痛みに気付いた時に手を差し伸べることで、その誰かは救われていく。そうした強いメッセージを感じる場面が随所に差し込まれている。

 

彼等はただ生活をしようと必死になっているだけである。その努力や絆の芽生えを、大袈裟でなく素朴に描いていく。その優しさと、視覚的に使われた光と影、そして少ないけど確かな意味を持つ言葉。映画を締めくくるのは中学生達が撮影していたドキュメンタリーの映像だが、正にドキュメンタリーのような自然さで彼等の生活が浮き彫りになっていく。中盤の、互いの病気を茶化し合う藤沢と山添の掛け合いも素晴らしかった。これこそまさに、彼等の関係性だから言えることなのだ。周りに自分の病気のことを言い出しづらかった2人が、互いの苦しみを知っているからこそその根源に対しても軽口を言い合える。それでいて彼等はお互いに依存しない。藤沢が転職を決めても、山添はそれを静かに応援する。このさりげない関係性が築かれていくまでの過程が丁寧に描かれていた。

 

三宅監督は前作『ケイコ 目を澄ませて』でも聴覚障害を持つ女性の物語を描いていた。もちろんその苦しみは当事者にしか分からないのだろうし、分かったつもりになるのはよくない。それでも「苦しんでいる」ということに思いを馳せることはできる。それは障害や疾患に関わらず誰もが普遍的に持つ感情にほかならないからである。安易に社会批判的な方向に走るのではなく、あくまで人々の生活を描く三宅監督はきっと映画を通して訴えたいこともたくさんあるのだろう。大きなテーマを描きながらもミクロな視点を崩さず素朴な世界を映し出すことのできる多彩な監督だと思った。これからもたくさんの作品を作ってほしい。

 

 

 

 

実写映画『ゴールデンカムイ』感想 新たな形で金カムに触れられる喜び

ゴールデンカムイ』の実写映画を観てきた。原作に没頭した自分としてはかなり思い入れの深い作品。とはいえ、別に実写化映画が嫌いというわけではなく、むしろ漫画やアニメのメディアミックスは積極的に観に行く方なので、2024年公開の映画の中でもかなり楽しみにしていた。また山﨑健人かよ~と思うけれど、実写化映画という特殊なジャンルで主人公を演じるにはやはり実写化映画慣れしている人物のほうがいいのかもしれない。キャストにも正直不満はないものの、人選がかなり渋いなあとは思っていた。舘ひろし土方歳三玉木宏の鶴見中尉辺りは「おおっ!」と驚いたが、白石や月島や谷垣には一昔前の実写化映画ならもっと旬のイケメン俳優をあてがっていたよなあ、と。勿論その結果良い演技になってるものもたくさんあるし、露骨にキャストファン層を狙い撃ちにいく姿勢もビジネスとして全然アリだとは思うし、むしろそれが正解だと思っている。ただ、『ゴールデンカムイ』に関してはそれを敢えてしない。と言うと誤解を生みそうだけれど、北村匠海とか横浜流星とかで固められるくらいの規模でやってもおかしくないくらいの作品だと思っている。だが、どちらかと言えば原作のビジュアルに寄せた人選。正直ここだけでももう、制作陣の気概は伝わってきていた。私はこれを違和感として受け取ってしまったけれど、この配役自体が既に「仕掛け」だったのである。実写映画『ゴールデンカムイ』、本当に面白かった。

 

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巷では「原作ファンも納得!」「実写化大成功!」と賛成の意見が多いけれども、私は原作ファン代表みたいな顔はしたくないので、ただ単純に思ったことを書いていく。映画のネタバレはするが、原作のネタバレはあまりしていないつもり。さて今回の『ゴールデンカムイ』、正直めちゃくちゃ面白かったです。漫画の実写化とか云々以前に、1本の映画として完成されすぎている。もちろん原作の序盤のエピソードだけのため「序章感」は否めないのだけれど、杉元とアシリパが出会い、互いに旅の目的を確認し合ってパートナーになっていくという大筋がしっかりと軸になっており、そのブレなさに感心してしまう。原作の核もやはり杉元とアシリパの関係性にあるし、それを序盤のエピソードだけで128分に再構築しているのが素晴らしかった。脚本の黒岩勉さんは『キングダム』の実写映画や『ONE PIECE FILM RED』なども担当しているので、原作付き作品のテーマや物語の再構築はもうお手の物なのだろう。

 

オリジナル要素はかなり薄いが、原作のストーリーを多少入れ替えたり端折ったりはしている。ラストまではほぼ原作にあったシーンの再構成だが、終盤杉元がアシリパに対し自分が何故金塊を求めるのか話すシーンが挿入されていたのはかなり良かった。というよりも、映画自体が「杉元が金にこだわる理由」からスタートしており、それを相棒のアシリパに話すラストという話運びが美しすぎる。ただ単に原作エピソードを消化しようというのではなく、まとまりのある1本の映画として再構築されていた。2010年代前半なんかはオリジナル展開を入れればファンから罵倒されるため、それを恐れてか原作エピソードをただなぞっていくだけの漫画実写化映画も散見された中、令和に入って実写化映画は「解像度高めで原作を再構築しつつ1本の映画としてパッケージングする」という新たな境地に至ったような感がある。

 

ゴールデンカムイ』を実写化すると聞いて、私が一番懸念していたのが「シリアスとギャグの振れ幅」である。原作ではキャラクターの1人もしくは複数が何かに熱狂している中で、それを冷めた目で見つめる…というシュールな笑いが多かった。ツッコミの大ゴマを入れるでもなく、キャラクター達は敢えて無言にしておいて読者に「なんだよこれ!」とツッコませる。更に言えばキャラクター達もかなりハードな局面にあるのでとにかく目の前に必死になっているため、ツッコんでいる暇がない。その分を私達読者が補うような形で成立するようなギャグが原作には多かった。漫画でよくあるキャラクターを二等身にしてデフォルメでふざけさせるような表現はなく、むしろ吹き出しを使って股間を隠したりと、トリッキーでメタ的なギャグが炸裂していた。

 

だがこれらのギャグは実写では使うことができない。それに該当するようなシーンは序盤には少ないが、要は『ゴールデンカムイ』のギャグパートは一歩間違えればかなりサムい演出になってしまう可能性があるのだ。しかしこの映画は変にカメラアングルやセリフ回しやBGMで誇張することなく、会話の中の一幕のような自然さで杉元達のやり取りを描いていく。むしろ鶴見の汁が漏れ出すなどの独特な演出は、実写だからこそより緊迫感を味わうことができたような気さえする。ギャグが自然な形で出てくるのだから、シリアスも当然成立する。変に泣かせにくるようなこともなく、原作にあった趣をセリフで全て説明したりしてしまう回りくどさもなく、漫画を映像に置き換えるにあたって非常に「丁度良い」演出だった。むしろ原作を読んでいる分、尾形初登場のモブ感が眞栄田郷敦パワーでしっかり存在感を放っていたりなどの、ズレが嬉しかったりもする。あとは白石がヌルヌルで鉄格子から部屋に入ってくるシーンがちゃんと笑えるようになっていたのも良かった。原作はページを開いた途端いきなり笑わせてくるような演出が多いが、それも映像化するに当たって誇張するでなく、さらっと笑えるくらいの手触り。マジでちょうどいいヌルヌル具合だった。

 

惜しむらくは多少端折ったとはいえ原作の序盤なので、土方歳三が刀手に入れただけになっちゃってたりとか、尾形や月島の出番がほぼないこと(まあ月島は原作でもしっかり存在感出してくるの結構遅いけれども…)。でも尾形達に関してはそれが違和感にはなっていなくて、きっと原作を知らない人なら「襲い来る敵の1人」として見られるのだと思う。逆に土方は舘ひろしのパワーで何もしていなくても存在感を放つようにできてしまっている。長白髪の舘ひろしが馬に乗っているの、さすがにビジュアルが決まりすぎている…。玉木宏も本当に最高だった。あの声で優しい言葉を掛けてもらえるならそりゃあ皆ついていきたくなるよ…。説得力がありすぎる。熊もレタラも良かったし、正直ビジュアルや存在感についてはもう本当に文句がない。強いて言えばネットでも度々言われていた、衣装が綺麗すぎ問題だけれども、戦闘後はきちんと汚れるし、キービジュアルとかで特徴的な服なのにボロボロだとやっぱり見栄え悪いのかなあと思う。アイヌの道具や文化についても、少なくとも安っぽい作りにはなっていなかった。アイヌ文化までは詳しくないのでこれが正しいかどうかは分からない。

 

ただ一番言いたいのは、1本の映画としてとてつもなく面白いということ。何かに突出しているのではなく、総合評価がかなり高くなりそうな予感がする。ギャグやシリアスには触れたが、アクションもドラマもすごい。私は『HIGH&LOW』シリーズも観ているので久保茂昭監督と聞いて今作はかなりアクションが充実した感じになるのかなあと思っていたのだけれど、アクションだけでなく満遍なく充実していた。とにかくどの映像にも嘘っぽさがないし、中だるみも私は感じなかった。1つ1つのシーンに良さがあり、それらの構成のテンポもかなりちょうどいい。エンタメ作品としてかなり完成されているのを感じた。アクションに話を戻すと、動きもかなり早いしスピード感もあるし、熊相手だったり素手だったり銃撃戦だったりと本当に多彩。けれど「あ~アクションを見せたいのね」というわざとらしさはない。映画の中にバトルが息づいているような感がある。そしてそれがバトルだけではなく、ギャグやドラマもそうなのだ。どこかに視点が偏っているようなことがなく、かなりバランスがいい。

 

元々『ゴールデンカムイ』というのはアイヌ文化がたくさん出てきて、アイヌの生活を杉元達が学んでいき絆を深めていくような趣がある。その裏に金塊争奪戦という血みどろの戦いが潜んでいることがこの漫画の面白さであり美しさであり惨いところ。そしてこの『ゴールデンカムイ』の実写映画も、まるで「生活」のように自然な演出で物語が描かれており、かなり楽しく鑑賞することができた。アシリパがアチャから受け継いだアイヌの文化を絶やさないよう奮闘したのと同じように、『ゴールデンカムイ』という素晴らしい漫画が実写映画を通じて多くの人に届いたらこんなに嬉しいことはない。

 

最後に、私は映画に二瓶鉄造がいないことがかなりショックだったので、ラストカットには思わず手を強く握った。公式発表は現時点でまだないが、明らかに続編をやる気満々なのでこの調子で原作ラストまでどうにか駆け抜けてほしい。姉畑は無理だろうけど、1つの映画に2囚人くらいであと10年くらいはやってもらいたい。完結してしまった物語にまた新たな形で触れられるのが、本当に嬉しい。

 

 

 

 

映画『ある閉ざされた雪の山荘で』感想 小説の持つインパクトとはかけ離れた退屈な推理劇

 

『ある閉ざされた雪の山荘で』の東野圭吾による原作は、1992年に発売されている。つまりは22年越しの映画化。原作にはスマートフォンはおろか携帯電話すら登場していない。小説が映画の原作になることは難しくないが、20年以上前の作品となると話は別である。この作品がどうして今になって映像化されたのか。その理由の1つはやはり、小説という媒体に特化した衝撃の種明かしだろう。おそらく小説を読んだ人ならすぐにピンと来るはず。しかし逆に映画を先に観た人にとっては、どういうところが映像化不可能だったのかと疑問を持ってしまうかもしれない。私は先に原作を読んでしまったので、逆の順序の人がどう思いどう感じたかを知る術はないのだが、少なくとも私にはこの映画は「小説の設定だけを使った劣化版」のように思えてしまった。

 

なぜなら、小説の「あのトリック」を結局真正面から無視した形になっていたからである。それでいて、小説を超えるもしくは小説の驚きに匹敵するほどのパンチの利いたトリックもない。というか小説でクローズアップされていた描写を何故かすっ飛ばしたりさらっと終わらせたりしてしまっており、「事件のトリック」自体にあまり興味が持てないような作りになっている。もちろんそういう映画が存在すること自体は否定しないが、それをこの『ある閉ざされた雪の山荘で』でやってしまうのは非常に勿体ない。

などと長々と書いてしまったが、小説版のネタバレをしなければ話をうまく展開させられないので、まずはネタバレをさせてもらいたい。『ある閉ざされた雪の山荘で』の小説は「地の文」と映画では重岡大毅が演じていた「久我和幸の独白」という2つの視点から交互に状況が語られる。「久我和幸の独白」では久我の意地汚い部分であったり、映画では西野七瀬が演じていた元村由梨江への想いであったりと、非常に人間臭い部分が描かれていく。田所義雄(映画では岡山天音)を露骨に見下すような描写さえある。ただ田所は結構クズの気質があるため、見下されて当然と言えば当然かもしれない。そんなお世辞にも聖人君子とは言えない久我の独白と並行して、「地の文」によって事件が描写されていく。

 

だが、この「地の文」には所々に”違和感”が存在しているのである。代表的な部分だとこの「地の文」では登場人物の名前が一貫してフルネームで呼ばれている。普通小説ならキャラクターの呼称は苗字や名前だけで充分であり、登場の際に紹介も兼ねてフルネームを記述することはあるが、それも最初の1回だけである。しかしこの「地の文」は最後までずっと山荘を訪れたメンバーをフルネームで呼び続ける。そして事件の描写に関しても、やはりどことなく違和感がある。まるで事件を傍で見ているかのような語り口…いや、実際にこの地の文は事件を「見ていた」のである。終盤の推理シーン、それまで地の文だと思っていた語り部が、久我に「さあ、出てきてください」と指を差され、一人称が「私」に変わるのである。映画を観た方ならもうお気づきだろうが、その語り部こそ事件の首謀者である麻倉雅美(森川葵)。彼女は壁の隙間にずっと息を潜め、穴からずっと山荘での一部始終を見ていたのである。「神の視点」だと思っていた地の文が「私」だと明かされた瞬間の鳥肌。今でこそそういうテクニックを用いたミステリー小説は多いかもしれないが、1992年にこれほど緻密な仕掛けが施されている小説ともなれば話題になるのも当然だろう。

 

もちろんこのギミックだけが凄いのではなく、殺人自体がオーディションなのか本当なのか分からないままに翻弄されるメンバーの心情をしっかりと捉えている点も印象的。オーディションを装った殺人計画…を演じることになった者と巻き込まれた者。その三重構造と読みやすい筆致がページを捲る手を止めさせてくれない。長年評価される理由もよく分かる素晴らしい作品だった。とはいえ、勿論言いたいことがないわけではない。ラストは謎を解いた後に久我が他のメンバーの友情に涙するシーンでバッサリと終わっており、若干の消化不良感が残る。また、そもそも「オチがハートフル」であるためサスペンス要素を期待するとあったかいラストに少々面食らってしまうだろう。だが、少なくとも「地の文が実は登場人物の1人だった」というこの小説の最大の要であるトリックを、映像表現において成立させることは不可能に近いと言える。もちろん映画の半分以上を雅美の視点で構成するということができないわけではないが、その違和感はすぐに犯人の正体へと結びついてしまうだろう。

 

つまり「どう映像化するか」が原作を映画化するに当たって最大の注目ポイントだったわけだが、なんとこの映画は「その部分に注力しない」という大胆不敵な手段に出た。「犯人の視点で語られていた」という部分には目もくれなかったのである。その潔さは良いと思う。媒体が違うのだから小説に特化した方法を映画でそのままやっても仕方がない。しかし、この作品がそもそも「ギミックもの」であることを考えると、削除した分のギミックの代替すらなく、ただ平凡な推理ドラマになってしまったのは非常に残念である。

 

小説ならそれこそ久我の感情なども言葉でしっかりと描写されていくわけだが、映像にするとこの作品の描写はあまりにもあっさりとしすぎている。1992年の作品ということもあるのだろうが、キャラクターのクセもそこまで強くない。比較的優等生な登場人物たちの物語なのである。簡単に言うと、この作品から地の文のギミックを取り除いてしまうと旨味が一気に半減してしまうのである。小説は自分のペースで読むことができるし、何より「今起きていることが事件なのか演出なのか分からない」というモヤモヤで、読書の速度は加速度的に増していく。しかし映画では淡々とした演出と共に登場人物がぽつりぽつりと喋るのみ。映像的に「おおっ!」と唸らせてくれるような表現もない。間取り図のように絵に描いた山荘を上から俯瞰していくシーンが何度かあったが、あれが一体何を表現しているのかが全く分からなかった。会話劇としても、特に印象的なシーンがあるわけではないため(逆に言えばコテコテの推理作品ということ)、とにかく冗長。犯人を知らない人は犯人が誰かという興味だけで視聴を持続できるのかもしれないが、オチを知っている私にとってはむしろ小説版から取り除かれた色々な要素に対して「どうしてあれを消したんだろう」「どうしてこんな風に変えたんだろう」と違和感を抱く場面の連続だった。

 

カット割りも非常に落ち着いていて、緊迫感がまるで感じられない。心情描写がない分、彼等の演劇にかける情熱が伝わってこず「早く通報しなさいよ」とずっとイライラしてしまった。ただ一番イラッとしたのは8人が慕う劇作家の東郷の声が山荘のどこからか聞こえてきて、その字幕が屋根や壁にリリックビデオのように映し出されるという意味不明な演出である。明らかなCGでそんなものを出されてしまうと、登場人物達にその光景がどう見えているのかが全く分からなくなる。何よりああいう仕掛けをするのなら屋根がスクリーンでなくてはならないし、プロジェクターなども必要になってくるはずだ。そもそも事件か演出か分からない環境として観客を翻弄させなくてはならない映画なのに、このリアリティラインのいい加減さに腹が立つ。正直に言うと冒頭この字幕が出てきただけで視聴意欲が失せてしまった。ああいう声が聞こえたら普通「声はどこから出てくるんだ」を調べるのが推理のルールだろう。まして彼等は自分達が置かれている状況が本当に演出なのかと疑っている状況なのだから。あんなオーバーテクノロジーを印象的に見せつけられてるのに何の違和感も抱かないし調べようともしない。ちなみに小説版では指示の書いてある紙が置かれているという設定だった。なぜ変更してしまったのだろう。ただ、雅美が監視カメラで山荘を監視していたというオチ。まあこれについては仕方ないかなとも思う。小説でやったような覗き穴だと、実際に雅美が見える範囲はかなり狭いし映画としては無理があるだろう。

 

そして一番の改変ポイントがラストである。小説はオーディション・殺人事件・演出の三重構造だったが、映画のクライマックスでは雅美の独白がそのまま舞台に繋がり、まるでこの事件全てが舞台上の出来事であったかのように演出される。つまりは小説の上をいく四重構造になっていた。もちろんあれは「皆が仲直りした数年後の出来事」と解釈することもできるし、「そもそも映画の出来事自体が劇でした」というオチだとも読める。この辺りをきちんと説明しないのも不親切だなあと感じるのだけれど、原作では久我が泣いてあっさり終わってしまうので、エピローグがあるのは悪くなかった。とはいえこういう友情ドラマ的なことをやりたいのなら、もっと山荘の時点で人間関係をしっかり描いてほしかったなあとは思う。私は特に感動などはしなかった。「ああ、こう変えたのね」と思ったくらいである。

 

総じて言うとかなり酷い出来栄えの映画だなあ、と。小説の要となる映像化不可能なギミックを丸ごと取り除いてしまうだけでなく、それに値する代替品もない。平凡な推理劇になってしまっているのは非常に残念だった。しかも最後はハートフルなオチ…。もちろんハッピーエンドが悪いというわけではないのだけれど、殺伐とした雰囲気作りをしておいてハートフルなオチになる作品、個人的にはもれなく肩透かしに感じてしまう。

ただ岡山天音の田所だけは原作の気持ち悪さをビジュアルから体現していて素晴らしかった。この前『笑いのカイブツ』という岡山天音主演の、実話を基にしたコミュ力最底辺男の映画を観たのだけれど、それに負けず劣らず「ヤバい奴感」を醸し出していたので凄い。まあ、田所の髪型とかどう考えても映画では浮いてましたけどね…。あと森川葵の演技力はマジで説得力があったので良かったです。

 

 

 

 

 

映画『ビヨンド・ユートピア/脱北』感想 進撃の巨人みたいな世界が現実に存在するという地獄

 

北朝鮮に抱くイメージというと、時々ミサイル撃ってくる国くらいのものだった。だが、この映画を観るとそのイメージが酷く抽象的だったことに気付かされる。北朝鮮という国はひたすらに住民を搾取し、金正恩が何よりも優先される悍ましいディストピアだったのだ。『ビヨンド・ユートピア/脱北』では脱北者を追ったドキュメンタリーとして北朝鮮の実情や命懸けの脱北劇が描かれる。ただ生きていたいというだけなのに、幸せに過ごしたいだけなのに、国から命を狙われ続けることになる人々の物語。いや物語ではなく、これは現実なのだ。ファンタジーでもフィクションでもなく、今リアルタイムで現実に起こっている出来事なのだ。想像を絶するほどの恐ろしさに、緻密に構成されたフェイクドキュメンタリーなのではないかと何度も疑ってしまう。最後に壮大なネタばらしがあるのではないかと考えてしまう。しかしこれは現実なのである。何なら我々の住む日本という国のすぐ近くでこのような社会が存在しているのだ。

 

監督はマドレーヌ・ギャビン。調べるとNetflixでも1作ドキュメンタリーを撮っている。タイトルは『シティ・オブ・ジョイ ~世界を変える真実の声~』。戦争で荒廃したコンゴにおいて、性暴力被害に遭った女性たちのケアを行う団体を追った作品だという。未見ではあるがこの題材だけで、ギャビン監督が人権意識のかなり高い人物であるということが伝わってくる。そんな彼女が次に選んだ題材が脱北。日常的に使う言葉ではないが、国を捨てるという苦しさとそうしなければ生き延びられない辛さがこの漢字2文字に詰まっている。恥ずかしながら私の北朝鮮のイメージは冒頭に述べた程度のもので、正直この映画自体も「何か面白そうだから」という理由で観に行ったに過ぎない。シネコンで上映されたから時間の都合もついたが、都内数か所の上映館のみなどだったらきっとこの映画のことを知ることはできなかっただろう。しかし私にとって非常に価値のある映画となった。知らない世界を見せつけられたのである。このような地獄が存在しているなど、想像することもできなかった。冒頭で語られた北朝鮮の歴史に対して「さすがに嘘だろ…」とまで思ってしまう。漫画のように悍ましい独裁政治国家が本当にあるだなんて…。

 

脱北者の支援を長年行うキム牧師。常に電話が鳴り止まない彼に助けを請うた、二組の脱北者を映画は追っていく。片方は息子を脱北させたい脱北者の母親。もう片方は両親と娘二人、そして80歳の祖母の5人で脱北真っ最中の家族である。描写としてはどちらかというとこの家族の割合が大きい。それは脱北のスタートからゴールにまで密着しており、純粋にその実情を余すことなく捉えることができたからだろう。もう片方の母親に関しては、息子の状況をブローカー(北朝鮮や各国に存在している、脱北者や協力者から金銭を要求することで脱北を支援する人のこと)から電話で伝え聞くに過ぎない。

 

脱北と聞くとただ国境を越えればいいだけに聞こえるが、実際はそうではないらしい。北朝鮮から韓国に南下することは警備上できないため、比較的警備が緩いルート=川を渡って中国に出るルートを脱北者は利用する。しかし中国人は脱北者北朝鮮に突き出したり、誰にも言わず自分の奴隷にしたりするそうな。結局脱北者が自由になるためには、北朝鮮と繋がりのない国であるタイにまで辿り着かなければならない。中国、ベトナムラオスの三国で見つからないよう隠れて過ごし、時には夜通しジャングルを抜け、時には川を渡って。そしてタイの警察に見つかることで韓国へ送られ、韓国でまともな暮らしを得る権利を獲得するのだ。その間にいつ殺されるかも分からない。誰が味方で誰が敵かも分からない。見知らぬ土地で殺される恐怖に怯えながら過ごす時間は、家族にとって地獄だっただろう。しかしそうしなければ彼等は北朝鮮で殺されていたのだ。

 

そしてこの家族を含め、インタビューを受ける脱北者から飛び出す北朝鮮でのエピソードはとにかく「信じられない」の一言に尽きる。金正日の写真を家に飾らなければならず、政府が立ち入った時にその写真が埃をかぶっていれば殺される。そして処刑には国民が召集され、幼い子どもでさえ人が死ぬのを目の前で見させられるのだそう。テレビではお馴染みとなったマスゲーム(集団行動のように動きを揃えた北朝鮮人のパフォーマンス)は、暑かろうが寒かろうが関係なく強制参加させられ、動けなくなるほどの怪我をしても誰も助けてくれないのだという。勝手に歌を歌ったり踊りを踊ることも禁止されるが、北朝鮮人は政府に反旗を翻すことはない。なぜなら彼等は洗脳教育によって北朝鮮が最も正しい国であり、金正恩こそが英雄だと思わされているからである。アメリカ人や日本人、韓国人は敵。世界中のどの国も自分達のように貧しい暮らしを送っている。金正恩こそが自分達を救ってくれる。その思想が生まれた時からこびりついている彼等からは、政府を裏切るという発想は出てこない。報道機関も限られているため、外の国の情報が入ることもないそう。飢饉によって道端で人が餓死していても、それが「世界の当たり前」だと思い込んでしまうのだ。むしろ自分達はまだマシな方だと思わされているのである。

 

この洗脳教育という部分は聞いていてとても恐ろしかった。てっきり人々は武力という恐怖で押さえつけられているのかと思っていたが、実際はそうではない。金正恩が正しいという価値観を植え付けられ、自分達の境遇に疑問すら持たない奴隷のような状態にさせられているよう。正に共産主義、正にカルトである。大悪党に騙され付き従ってしまう人々だなんてフィクションではよく見る光景だが、それが現実に蔓延っているだなんて、未だに信じられない。映画の中でも、80歳の女性の言葉が特に印象的だった。「金正恩様は賢いのに」という言葉。そして家族が脱北したからついていくしかなかったものの、本当は脱北するつもりなどないし金正恩のことを信じているのだという。娘二人も金正恩を尊敬しているようだった。北朝鮮の人々にとって金正恩は神様であり、自分達を救い護ってくれている英雄なのだ。道端で人が死のうとも、彼等はその元凶である金正恩がどうにか自分達を救ってくれるだろうと考えるのである。

 

北朝鮮が国民の声を無視してまでひたすらに軍事力を拡張していくのは、逆に世界各国からの攻撃に怯えているからだという指摘が映画の中でもあった。それは実際にそうだと思うが、だとすればはた迷惑な話である。金正恩ほか一部の上層部が甘い汁を吸うために国民が犠牲にされ、彼等がこれからも甘い汁を吸い続けるために他の国から敵視される状況を作り出していく。自分達の蛮行が邪魔されないように兵器を作り、人々を虐げる。そんな巨悪がこの世に存在しているということがとにかく恐ろしい。脱北する家族のインタビューや言葉はとにかく印象的なものが多いが、脱北から7ヶ月が経過して北朝鮮の真実を知った彼等の笑顔が全てを象徴しているかのようだった。80年間も北朝鮮で過ごした彼女は「もっと早く世界を知っていればおしゃれでもしたのに」と冗談交じりに言っていたが、その言葉の重みはとてつもない。自分達の生活が当たり前だと思てしまうことの恐ろしさを、この映画は教えてくれる。

 

私がこの映画を観ながらぼんやりと頭の中でリンクさせていたのは、先日アニメが完結した『進撃の巨人』である。言わずと知れた大人気漫画で、壁の中に押し込められた人類と壁の外で蠢く巨人という謎の生物の戦いから始まり、物語は予想もつかない方向へと加速していく。大人気漫画にまで上り詰めた要因はたくさんあるだろうが、壁の中の世界しか知らずに育った主人公のエレン達の思いは、脱北者の心情と重なる部分が非常に大きいように感じた。そして壁の向こうに別の世界がある、ということも。『進撃の巨人』自体戦争を題材にした漫画であるし、世界情勢とリンクすることが偶然であるとも考えられはする。だが政府に嘘を教えられて家畜のように生きていくことを当然とし、それを疑いもしなかった壁内の人間達に、どうしてもこの映画で観たような脱北者の思いを重ねてしまうのだ。もし読んだことがない人がいたら読んでみてほしい。

 

キム牧師は牧師というくらいだから当然キリスト教徒であり、彼がお金を出してまで脱北者を支援することの理由も教義に基づいている。映画では軸がブレるためかこの宗教感にはあまり触れられていなかった。何ならキム牧師の奥様も脱北者であり、冒頭彼女は「夫が金正日に似てて一目惚れした」と語る。北朝鮮には太っている人などいなかった、と。笑っていいのか分からないブラックジョークである。

この映画で描かれるのはコロナ前の出来事であり、コロナ禍では国境を渡ることが難しくなったために脱北の手助けができない状況に陥ったそう。コロナウイルスはこんなところにまで影響を与えていたのかと驚く。

 

自分達が当たり前に日々を過ごせていることの喜びを実感すると共に、海の向こうにはこんなにも悍ましい世界が存在しているという絶望をも喚起させてしまう諸刃の剣な映画。何かできることはないのかとも思うが、日本人にできることは限られているのだろう。とはいえ、調べてみると脱北者の活動家や脱北Youtuberなんて人もいるらしい。

 

www.youtube.com

 

上記は韓国人の方のチャンネルだが、ここ1年ほど脱北者のインタビューを多く取り扱っている。この映画ともリンクするような話をたくさん聞くことができる。

 

とにかく「衝撃」の一言に尽きるとんでもないドキュメンタリーだったが、考えさせられる…で終わらず、心の中に何か不安を落としていくような作品だった。日本がこのような状態になることはないと信じているが、それでも北朝鮮という国が何かしらの形で自分の人生に干渉してこないとは限らないのである。

 

 

 

 

 

映画『コンクリート・ユートピア』評価・ネタバレ感想! 新たな設定で描かれる社会派ポストアポカリプス映画

 

2024年になってまだ少ししか経っていないが、早くも今年ベストと言えるレベルの作品に出会ってしまったかもしれない。鑑賞後にそう予感させてくれたのが、この『コンクリートユートピア』である。映画で描かれる題材がどうしても現実とリンクしてしまう状況は本当に残念であるものの、そういった部分を差し引いても充分にたくさんのメッセージを受け取ることができる作品だったように思う。アカデミー賞国際長編映画賞の韓国代表作品ということで、『パラサイト 半地下の家族』に続いて受賞の機運すら高まっている本作。大地震の中で唯一無事だったアパートを舞台に住人たちが共同体を守るためならばとどんどん狂っていく様を描く秀逸な物語であり、斬新な舞台設定に留まらず社会的なメッセージもしっかりと込められている。

 

主演はイ・ビョンホン。このヨンタクという男がはまり役で、最初はある理由から隅でブルブルと震えているだけの男だったのに、「代表」と慕われ権力を得ていくことで笑顔が増え、まるで大成功者のような顔つきに変わっていく。対するはパク・ソジュン演じるミンソン。妻のミョンファを守りたいという気持ちから代表に付き従い、共同体から決してはみ出さないようにと、操り人形の如く任務に忠実な男となっていく。しかしミョンファはヨンタクの行動を訝しみ、深みにハマって人を傷つけるようになった夫のことが気がかりでならない…という何とも悲しい状況。公務員であるミンソンの「災害時にはシステムを作ることが大事」という言葉からヨンタクがアパート住民の代表に選ばれるというのも鑑賞後に考えるとかなりの皮肉である。火事の部屋で積極的に消火活動に当たった彼の行動が評価されてのことだが、このヨンタクという男はどうにも謎だらけで…と、ヨンタクの正体に迫るサスペンス要素が物語を牽引していく。

 

地震の被害を免れたアパートというとかなり斬新だが、やっていることはゾンビもののようなポストアポカリプス映画に近い。極限状態で人間の本質を描いていく作りであり、そこにゾンビがいないことがせめてもの救いかもしれない。とはいえ限られた物資を分配したり、危険を承知で外へ食糧を取りに行ったり、他の共同体と争いになったり、仲間を救うために誰かの命を奪ってしまったり、という大筋自体はゾンビものに慣れている人ならそこまでの新鮮味はないだろう。しかしゾンビを倒すような派手なアクションがない分、130分でこの映画は人間ドラマを更に濃密に描いていく。ゾンビは実際には存在しないが、災害でこのような事態に陥ることは可能性としてはある。そういった意味で身近に感じられるし、元日のあの出来事を思うとどうしても身近になってしまうのだ。

 

社会派の面とエンタメの面を上手く両立させてきたのは、それこそ『パラサイト 半地下の家族』と同じであろう。アカデミー賞と聞くと高尚な映画をつい連想してしまいがちだし、実際情勢に関して前知識がある程度必要な映画の受賞も多いのだけれど、それでも『パラサイト 半地下の家族』はエンターテインメントとして普通に面白かった。映画を普段観に行かない層でも馴染み深く感じられ、展開に翻弄される物語。しかしその内側には鋭いテーマが隠れていて、単に「いい映画だったね」で終わることのできない残り香を有している。最近で言えば去年公開された是枝監督の『怪物』もそうだった。メッセージを受け取ることもただ楽しむこともできる二層の構造は、少なくとも映画館に行く習慣が国民に馴染んでいない日本にとっては、とても素晴らしいことだと思う。

 

この映画における社会的メッセージは、それこそ『パラサイト 半地下の家族』とそう変わらない。貧民と富裕層の断絶を描いている。『パラサイト』では2つの家族を構図として対比させていたが、『コンクリートユートピア』では元々の世界では貧民層だったアパートの住民が、唯一無事だったアパートの住民というだけで一躍富裕層に成り上がるのである。持たざる者だった彼等が「持ってしまった」時に内から生まれる凶暴性。序盤のほんのわずかなシーンで彼等は会議中に、住民でもないのに居座る人々に対して「立場が逆だったら彼等は私達を追い出すだろう」と決めつけ、自分達もアパートの住民以外を追い出そうとする。これまでの人生で「虐げられてきた」という思いは、立場が逆転した時にいとも簡単に「武器」であり「理由」になってしまうのだ。もちろん自分の家に赤の他人を入れたくないという気持ちもあるのだろうが、極限状態に陥り、外に出れば凍死は免れないと分かっているにも関わらず、住民の多くが躊躇いなく人々を追い出す決断をしたことは異常としか言いようがない。

 

ラストシーンでは、生き残ったミョンファが別の共同体に助けられる。そこは誰かを追い出したり拒んだりなどせず、ただ泣いているだけだったミョンファでさえおにぎりを分け与えてもらえる世界だった。赤の他人に寛容さを持てる人々。アパートの住民にそれができなかったのは、過去の世界で虐げられてきたという思いが大きいのだろう。自分達は我慢をしていたという気持ちから、他人に対してどんどん攻撃的になっていくのだ。とはいえこの映画は「貧しい人間は心も貧しい」なんて安直な言葉を投げかけるわけではない。立場が逆転した時の危うさを孕む社会に対して警鐘を鳴らし、資本主義の在り方を問うているのだと私は思う。

 

哀れに見えるアパートの住人達も人間なのだ。彼等の根底にあるものは「家族を守りたい」という強い思い。だからこそ共同体として一致団結し、自分達にとって危険な存在をひたすらに排除しようとする。あの状況下でそれを完全に間違いだとすることは難しいかもしれない。代表となりどんどん冷酷になっていくヨンタクでさえも、妻と娘と3人でアパートでの暮らしを夢見た家族思いの男だったのだ。借金をしてまで手にしたアパートだったのに詐欺師に騙され、家族からは見放され、その詐欺師を殺害してしまう。その直後に起きた大災害によって、彼は絶望の人生から数百人を束ねる共同体のリーダーへと栄転する。身分を偽っていたとはいえ、誰もが自分を慕ってくれる状況は多くを失った彼にとって非常に心地良かっただろう。だからこそ彼は、その世界を守ろうとしたのだ。

 

ヨンタクの右腕として活躍するミンソン。彼が願うのも妻との暖かな日々である。だからこそ追い出されるわけにはいかず、どうにか功績を残して多くの物資をもらわなくてはならない。そのためには時に非道な行いも求められる。生きるために、家族のために、どこまでも狂っていくミンソンと、そんな彼の変わり果てた姿を恐れるようになるミョンファ。このすれ違いも物悲しいが、外部の人間を匿う住民に物資を分けるミョンファの在り方は、荒廃した世界の中でも常に清く優しい。だがヨンタクが絶対的なリーダーとなっているこのアパートでは、その正しさは認められないのである。序盤、まるでPVのようにアパートにおいて他の住民を追い出し、配給係や整備係などのシステムが構成されていく姿をコミカルに描くシーンには凄まじい狂気を感じた。それは「これから何かが起きるぞ」という不安だけでなく、人々を見殺しにした上で彼等はここまで「生きよう」という意思を放つことができるのかという思いも混ざっている。犠牲の上に成り立った人生で彼等はカラオケまで楽しむのだ。

 

ユートピア」とは理想郷の意だが、同時に「存在しない」という意味もある。つまりは空想の産物なのである。コンクリートでできた彼等の世界は、所詮ユートピアに過ぎないという皮肉が込められているのかもしれない。結果的に共同体として自分達を守ることにばかり意識が向いていた彼等は、外部の住人達に恐れられ、襲撃されてしまう。ヨンタクの本性が明らかになる最中…つまり最上級の衝撃がもたらされた中で混乱に陥る住民達には成す術もない。しかし、彼等が当初から人々を受け入れていればこうはならなかったのかもしれない。それでもラスト、ミョンファが辿り着いた場所に優しさを持つ人々がまだたくさんいたことが救いだろう。一見優勢で多数派に見えたアパートの住人の考えは、あの世界においてマイノリティだったようにも思えてくる。広い視野を持てば、知らない誰かにも優しくできるということを、この映画は伝えたかったのかもしれない。

 

 

 

映画『笑いのカイブツ』評価・ネタバレ感想! ツチヤタカユキのような人を支え続けられる人間になりたいね…

笑いのカイブツ (文春文庫)

 

 

 

上映順的にこの『笑いのカイブツ』が2024年の映画初めになったのだけれど、年明け5日目から大の大人が劇場の中心の席で咽び泣いてしまった。本当に嘘偽りなく岡山天音と同じくらい泣いてしまったかもしれない。好きなものに対してどこまでもまっすぐなのに、コミュニケーション能力が足を引っ張り続けて何者にもなれずにいる主人公・ツチヤタカユキの物語。これが実話だというのだから本当に凄い。でもきっとこういう人は社会にたくさんいるんだと思う。何かを好きで、何かに一途で、その分野で頂点になるためだけに時間を費やし、他のものに一切目がいかない人。主人公のツチヤは人と関わる能力が本当に絶望的で、観ているこちらでさえ殴りたくなってしまうほど。こんなどうしようもない男を延々と演じられる岡山天音の説得力が凄まじい。傍目から見ている分にはそれなりに楽しいし感動するのだろうけれども、きっとツチヤと関わった当事者の多くは、彼を認めることなんてできないのだろう。漫画や映画のフィクションでは天才が人脈なしに力で世界を圧倒してしまうけれど、実際にはそううまくはいかない。人と関わる術を持たない人間は、社会からいとも簡単に弾き出されてしまう。それがどれだけの才能であっても、コミュニケーションが成り立たないという前提だけで人は切り捨てられてしまうのである。

 

原作はツチヤタカユキの私小説。映画ではベーコンズになっていたお笑い芸人はオードリーらしく、オードリー若林と同居していた過去もあるようなので、きっとお笑い界隈では有名な話なのだろう。私もここ数年配信などでお笑いをよく見るようになったので、エンドクレジットにたくさんの芸人の名前が出てきたのは素直に嬉しかった。漫才指導に令和ロマンの名前がクレジットされていて、お前らチャンピオンどころか仲野太賀に指導まで…!と驚く。ギャロップの毛利さんには気付けなかった。ハガキ職人からスタートし構成作家の道へと歩み始めるツチヤタカユキの物語だが、シナリオ自体は笑いなどほとんどなく絶望だらけ。笑いを取りにいく人間の話が、ここまで息苦しいということがあるだろうか。原作を読んでいないのでどこまでが実話でどこまでが脚色かというのは分からないのだけれど、それでもきっとツチヤタカユキ自身はこういう息苦しさの中で生活し続けていたんだろうなあと思う。お笑いがやりたいだけなのに、それ以外の部分が足を引っ張って人間関係を構築できない。その辛さを高濃度で映像化したのがこの『笑いのカイブツ』なのだ。

 

 

実際、ツチヤタカユキと検索するだけでいくつかインタビューなどの情報を読むことができる。

 

www.excite.co.jp

 

 

ツチヤ そうなんです。27歳で、価値観が全部ひっくり返ったんです。東京から大阪に帰ってきて、メールで漫才の依頼を受けてたけど、それも辞めて。なにも無くなったときに、お笑いのネタ書けて、センスで生きてる俺は天才だ、って思ってる自分がすごいダサく感じたんです。世の中ではなにもすごくないのに、寄りかかって生きてる。だから、一回死んだんです。

 

これが映画のラストに主人公が身投げしたシーンに繋がるのだろう。このインタビューを読むとそうして死ぬことによって笑いに対しての価値観が変わったそうで、この『笑いのカイブツ』という書籍自体への考え方にも変化があったらしい。なのでこの映画自体も「笑い飛ばす」ことが正解なのかもしれない。しかし映画が持つ負の熱量は凄まじく、人に受け入れられないツチヤが懸命に人と関わろうとして失敗し挫折し泣き叫ぶ姿を簡単に笑うことなどできなかった。

 

仕事先の人に挨拶もせずお礼も言わない。自分が面白くないと思ったものに対しては言葉を選ばず「つまらん」と一蹴する。勤務中にはお客さんの残した食べ物を貪り、ラジオを聴きながら品出しを行う。少なくとも日本ではそんな働き方は許されないし、隠れたところでやるのならまだしも、周囲に迷惑をかけてしまうようならばクビになって当然だろう。ハガキ職人という生き方を肯定してくれる人も少ないだろうし、周囲が怒る気持ちはよく分かる。何より、岡山天音の演技力のおかげで「いかにもバイト先にいる全然やる気ない奴」が出来上がっているのだ。観ている間もとにかくヘイトが溜まっていく。

しかし映画の中では同時に、ツチヤの笑いへの熱量も描かれていく。執着と言えるほどに病的なその思いが真実だからこそ、観ている私は彼に違和感を覚えながらも、かろうじてついていくことができた。だが、かろうじてついていけただけなのである。本当なら彼のような人物にも寛容になりたいが、実際自分が真面目にやっている時に同僚があの態度だったら私はどうにかしてツチヤを辞めさせようとするだろう。ただ、社会に適応できないことの息苦しさは私自身もよく分かっているつもりである。自分がマイノリティにされ、疎外されていく。その苦しみや孤独は痛いほど分かっているはずなのに、観ながらどうしてもツチヤを受け入れられない自分がいた。

 

だからこそ、ツチヤのことを認め、色々と便宜をはかってくれる人々の存在が暖かく感じられる。松本穂香演じるミカコ、菅田将暉演じるピンク、仲野太賀演じる西寺。生来の優しさもそうだろうが、どこか社会からはみ出た存在である彼等は、ツチヤの境遇を理解してどこまでも寄り添おうとしてくれる。その素晴らしい繋がりはツチヤがお笑いの道に進もうとしたからこその結果でもある。どれだけ態度が悪かろうと、好きなことに対して努力する才能を持つ人の周りには、そういう人が集まってくるのかもしれない。そんな人々に絆されて、段々と人とコミュニケーションを取るようになるツチヤの姿が大きな感動を生む。挨拶もきちんと言うようになり、周囲に差し入れまでするようになるのだ。だが、そんな些細な一歩ではツチヤを嫌う人々の心はそう簡単に動かせない。自分の陰口を聞いてしまった時の彼の物悲しい表情はとても印象的だった。

 

そして終盤、ピンクの働く居酒屋で号泣するシーン。自分はただお笑いをやりたいだけなのに、どうしてコミュニケーションを取らなければいけないのか。どうしてそんなことで評価されてしまうのか。どうして純粋に実力を認めてくれないのか。溢れていた思いが一気に込み上げてくる場面に、ツチヤと同じくらいこちらも号泣してしまう。声を掛けてくる他の客を「うるせえ!」と一喝するピンクも素晴らしかった。ピンクはツチヤと生き方こそまるで違えど、彼に何かを感じてこれまで可愛がってきたのだろう。心の叫びをただ隣で受け止めるピンクの器の大きさ、そしてそんな存在を獲得できているのに自分のやりたいことがうまくいかないツチヤの苦しさ。色々な感情がごちゃ混ぜになって襲い来る、本当に素晴らしいシーンだったと思う。

 

ツチヤタカユキ本人は今、吉本新喜劇の作家等で活躍しているらしい。つまりあの映画のラストから時間を掛けて再起へと至るのである。これが実話であることを考えると笑いに生きた男の感動ストーリーと捉えることができるが、「人間関係不得意」という題材はコミュニケーション能力が第一に求められる現代社会に対しての複雑な思いも込められているのかもしれない。

ある分野での才能があるのに人とうまく意思疎通が取れないというだけで、社会参画が絶望的になっているという人はきっとたくさんいるはずである。社会は結局人間の集合なので、人とうまくやっていけない人物には居場所がない。よっぽどの結果を出せば別だろうが、人間関係が壊滅的というだけでその結果を出すチャンスすらも失われてしまうだろう。私としてはコミュニケーションはたとえ愛想が良くなくとも最低限はしてほしいのだが、きっとそれさえも難しい人はいるはず。パワハラ等が叫ばれる現代、昔に比べればそうした人々への圧力は減ったかもしれない。それでも、コミュニケーションという評価基準の曖昧な項目によって侮蔑されてしまう人がいるのは辛いことである。そして、そのような理解されない人々と紐づけることが容易な「お笑い」という分野が、人間関係で成り立ってしまうことへの怒りや苦しみが、この映画にはふんだんに込められているように感じられた。

 

ツチヤタカユキをまるっと肯定することはできないけれど、それでも彼が周囲に心を開いて変わろうとしていった姿には思わず感動してしまう。ピンクや西寺のような、そういう人の本質を見極めて尽くすことのできる人間になりたいなあ…と映画を観て思った。

 

 

 

 

『仮面ライダーガッチャード』第1部感想 平成ライダーが目を背けてきた王道ヒーロー

【メーカー特典あり】仮面ライダーガッチャード Blu-ray COLLECTION 1( Amazon.co.jp特典: 「全巻購入特典:座談会CD(キャスト未定)」引換シリアルコード付) [Blu-ray]

 

 

 

・はじめに

クリスマスイブの12月24日で第16話を迎えた『仮面ライダーガッチャード』。一言で言ってしまうと、本当に楽しい。シリーズはもうずっと追っているけれど、毎週こんなにも仮面ライダーを楽しみにできるのは本当に数年ぶりである。もちろん人によって好みはあるので「ガッチャードこそが大傑作!」とかそんなことを言うつもりはないのだけれど、ここ数年、特に令和ライダーの括りになって以降はモヤモヤしつつ自分を無理矢理納得させながら視聴することが多かったので、どうしてもこの明るく楽しいガッチャードの作風に惹かれてしまった。具体的に言うと平成ライダーで育った私は『仮面ライダージオウ』を毎週とても楽しみにしていて。過去作からのゲストの登場に胸を躍らせ、終盤ソウゴとゲイツとウォズの絆が結実していく様には思わず涙してしまった。もちろんその後も令和ライダー1作目の『ゼロワン』のインパクトの強いビジュアルに驚いたし、『セイバー』の多人数ライダーなのに最終的にほぼ全員が団結していくというストーリー作りにも目を瞠った。けれど、やはりどうにも展開の粗が気になってしまって物語にのめり込めず、同じ思いを抱く人をネットで探してしまうような4年間が続いていたのだ。

 

正直、『仮面ライダーガッチャード』も最初の1ヶ月は本当にキツかった。特に第1話。全く感情移入できない主人公がガッチャガッチャと騒ぎ立て、人命よりもケミーを優先する行動理念がヒーロー誕生譚として成立してしまうことに呆れ、「また1年ダメなのか…」と絶望したのを鮮明に覚えている。しかし、今では完全に掌を返し、何なら令和に突入してから一番楽しんでいる。この作品の持つ青春を地で行く突き抜けた明るさや、絶体絶命の危機とそこからの復活劇をしっかりと描くメリハリ。これは言わば、平成ライダー以降の仮面ライダーシリーズが最も忌み嫌っていた要素であり、乗り越えようとしていた「子供向け番組の王道」。『仮面ライダークウガ』はそれまでの特撮ヒーロー作品にはほとんどなかったリアル路線を組み込んだことで大成功し、続く『アギト』も登場人物達の心理描写やサスペンス的なドラマ展開に重きを置いていた。ライダーを序盤から3人出すというハジケっぷりを見せつけた次の年には、仮面ライダーを13人出して戦わせるというとんでもない要素をぶち込んでくるのが仮面ライダーシリーズなのだ。常に前年を超えなくてはならないという、インパクトを貪欲に求めてきたこのシリーズが、遂に一周して「子供向け番組の王道」に立ち返ったのである。ここまでくるのに『クウガ』から23年。チーフプロデューサーを初めて担当する湊Pのフレッシュさが、ここに来て痛快活劇としてうまくハマった形と言えるだろう。

 

もちろん「ガッチャード超面白いぜ!」を思う存分書き綴っていきたいのだけれど、その前にやはり、前提としてそれまでの令和ライダーに対する思いを述べていきたい。当然私の個人的な意見なのだが、多分自分が好きな作品がこういう風に言われるのはあまり気持ちの良いものではないと思うので、『ゼロワン』~『ギーツ』に強い思い入れのある方は読み飛ばしていただければ幸いである。

 

仮面ライダーゼロワン』は第1話のインパクトやAIに対してのそれぞれのキャラクターの立ち位置などが示された序盤などは非常に楽しんでいた。次々に登場するライダーの価値観がそれぞれ異なり、それは各組織の中でも時に対立することがある。次々に色々なお仕事ヒューマギアが出てくるのも面白かったのだが、年末放送辺りから雲行きが怪しくなってしまう。ザイアのお仕事五番勝負はスカッとしない展開が続きさすがに飽きていたし、その裏で進行する滅亡迅雷の復活や不破の過去の捏造などの問題にどんどんついていけなくなってしまった。「ヒューマギアは夢のマシン」という或人と「ヒューマギアは危険」という不破の対立構造に惹かれていた部分が強かったため、そこの根本が否定されることで一気に物語への熱が冷めてしまったのである。また、AIの扱いについても「ヒューマギアとうまく付き合っていこう」なのか、「ヒューマギアを生命体として認めよう」なのかハッキリせず、その曖昧さが目まぐるしく動く物語の足を引っ張ってしまっていたように思う。キャラクターの正義感や価値観を時に対立させ時に一致させる作風なのに、その根幹がグラグラと揺らいでいたことが残念でならない。

 

仮面ライダーセイバー』は初回からかなりガッカリした作品だった。私は第1話はどんな作品でも面白くなる(伏線とかも自由に張れるし王道をやっても面白いし)と思っていたのだが、『セイバー』によってその考えは破壊された。コロナの反動を大いに受けた恵まれない作品であったことは百も承知なのだが、それでも神山飛羽真という人物の価値観や良さが一切分からないままに、飛羽真が周囲からどんどん受け入れられていく展開には抵抗があった。しかし、『ゴースト』で高橋Pのファンにはなっていたので、物語の裏側に配置されている大きな構図に関してはかなり好き。『ギーツ』までの4作では最もお気に入りの作品である。ファンタジー色が強く、シリーズの中でもかなり個性的な作品だったし、ライダーがほぼ全員仲間になる、スーパー戦隊的な持ち味は独特ですごく良かった。ただ、どうにもその中心にいる飛羽真の心情を理解することが難しく、もっと単発回がたくさんあればなあ…と。好きな部類の作品ではある。

 

仮面ライダーバイス』は序盤こそ大二の持つ劣等感や一輝の無自覚に人を傷つけてしまうような危うさ、「家族」という言葉の持つ二面性に突っ込んでいくような作りを楽しんでいたものの、後半からはあまりにまとまりがなく、毎週かなり悪い楽しみ方をしてしまっていた。せっかく序盤から仕込んでいた謎も、「そんなわけなくない???」と思ってしまうほどに(一輝が写真から消えるとか特に)お粗末なオチがついてしまい、残念を通り越してゲラゲラ笑ってしまったのである。意外性という意味ではかなり面白かったのだが、ちょっと途中から真面目にやっているとは思えなくなってしまい、真面目に観ることもできなくなった。ただ、序盤の危うい感じとかはすごく好きだったので、詰めの甘い作品だったのかなあという印象である。詳しくはこちらの記事を。

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

 

仮面ライダーギーツ』はかなり挑戦的な作品であることは伝わってきたのだが、こちらの予想を常に裏切ろうという狙いが強く出すぎてしまったようにも思う。うまく言葉にできないのだが、「いつかこれがめちゃくちゃ面白くなるんだろうな」という思いを1年間ずっと持ち続けてしまったというか。爆発するような展開がなく、常に先の展開への仕込みを続けていたように思えてしまった。カタルシスよりもライブ感を優先していたのかもしれない。パンクジャックが出てきた辺りは楽しんでいたし、ジーン達未来組の介入もかなり好きだったのだが、これも『ゼロワン』と同じで話の矛先や前提がどうなっているのかを考えてしまった。もっと単純に、「俺達の願いを食い物にする未来人許さねえ!」という話なら単純だったのだけれど、「未来人のせいでこの世界は叶う願いの総量が決まってしまっている」という前提が全然呑み込めず。なんならその前提を受けてメインキャラがどう変わったかみたいなことがちゃんと描写されないのがちょっともどかしかった。物語自体はどんどん動いているのに、それに付随するキャラクターの変化や行動がちょっと雑に思えてしまったのである。

 

という具合に、私は『ゼロワン』から『ギーツ』までの令和ライダーにかなりモヤモヤしていた。消化試合というか、参考書を開くような重い気持ちで毎週視聴していたのかもしれない。誰かにネタバレされないよう、情報だけを抑えていくような視聴だった。しかし今、『ガッチャード』に関しては日曜日のリアルタイムが本当に楽しみになってきている。もちろん『ゼロワン』から変わらずライダーを楽しんでいる人もいるだろうし、逆に『ガッチャード』を全く楽しめていない人もいるだろう。ただこれはあくまで個人ブログなので私の感想を書かせてほしい。と前置きした上で、『ガッチャード』のここがすごい!ここが好き!という点をまとめていく。

 

 

 

 

平成ライダーが目を背けていた「王道ヒーロー」

前述の通り、平成ライダーは常に過去作のカウンターを行うことで新たな作品を創造していった。特撮ヒーローのお約束に理屈をつけていった『クウガ』。「ライダーは1人」という原則を序盤からぶち破った『アギト』。3人やったなら13人でもいいだろと開き直ったかのような『龍騎』。怪人みたいなライダーをやったんだからライダーみたいな怪人がいてもいいだろという『555』。当時はいつシリーズが終わるか分からないという意識もあってここまで奇抜な作品が続いたのだろうが、ある程度シリーズが安定してきても、仮面ライダーは常に挑戦を続けてきた。「2人で1人」の『仮面ライダーW』、フルーツモチーフの『仮面ライダー鎧武』、バイクではなく車に乗る『ドライブ』。もちろん24作もあれば各ライダーが始まった時に「前のあれと同じだね」みたいなことは起こり得るのだけれど、それでも各作品が独自の強みを持っているという、かなりとんでもないシリーズになっている。

 

しかし、そんな仮面ライダーが一切手を付けてこなかったものこそが、「王道ヒーロー」。それもそのはず、そもそも平成ライダーはこの「王道」へのカウンターとして生まれたのだ。常に捻り曲がり、歪なスタートから形を整えていったり時に大きく逸脱したりするその様を私たちは楽しんでいた。それは間口の広さであると共に、1作を好きだからと言って他の作品が好かれるか分からないという危険性をも孕んでいる。常に奇をてらってきたこのシリーズは、バリエーションがとにかく広いのだ。そんな中で『ガッチャード』は、これまでの作品にはなかった突き抜けた明るさで勝負を仕掛けてきた。正直、驚きである。これが自覚的なものなのかはよく分かっていない。雑誌等のインタビューに目を通してみても、湊Pは「ケミーを好きになってもらいたい」と作品の根幹にケミーがいることばかりを話しており、作劇について明確に「こうしたい」という意思を汲み取ることは難しかった。始まる前までは、「ケミー云々よりも作品の方向性を話してほしいんだけどな…」と思っていたのだが、実はこの「ケミー推し」の作風は、幼い頃に楽しんだキッズアニメの流れの延長線上にあったのだ。

 

作中独自のモンスターがいて、それを利用する悪い奴らがいて、モンスターと友だちになろうとする主人公がいる。そこに思惑や理屈は正直不要。キッズアニメの主人公とはそういうものなのだ。根っからの善。誰よりもそのモンスターを理解する。そしてその優しさに、モンスター達は主人公を慕うようになる。どの作品なんて名前は出さずとも、きっと子供の頃にこういった作品に触れた人は多いだろう。私は『妖逆門』を思い出した。王道ならやはり『ポケモン』や『デジモン』だと思う。スーパー戦隊ではこの手のモンスター的作劇がロボになる相棒として描かれたことも多いが、ライダーではまだあまりない手つき。『ドライブ』のシフトカーや『ゴースト』の偉人達が近いかもしれないが、それとはまた異なる直球のモンスターはやはり愛嬌を感じる。そんなキッズアニメの王道をいく『ガッチャード』は、その熱量も王道ヒーロー。主人公の前に悪い奴等が現れて、それをひたすら倒していく。ただ、その「王道」の純度の高さはここ数年の仮面ライダーに大いに欠けていたものと言えるだろう。序盤からスケールの大きな物語を展開してきたり縦軸をどんどん進めてきたりと忙しなかった仮面ライダーシリーズに、キッズアニメの見易さ、つまりは善悪という整備された構図がもたらされたのがとても良かった。また、間に挟まるケミー集めの眩しさも微笑ましい。

 

ライダーでは観たことがないが、ライダー以外ではどこかで観たことのあるような作り。その王道さに高校生のフレッシュさが加わって、ニチアサの中ではかなり独自性の強い作品となっているように思う。この手つきの仮面ライダー、逆に斬新だなあ、みたいな。斜め上をやろうとしなくても、ストレートに面白い作品をやるというだけでこんなにも楽しめるものなのかという発見があった。

 

 

 

 

・構図のシンプルさ

既に少し述べたが、王道路線を往く『ガッチャード』の勢力の構図は非常にシンプルである。錬金アカデミー側が善で、冥黒の三姉妹が悪。三姉妹が人を扇動し悪意を際立たせ、ケミーとの融合を促進することでマルガムを生み出す(場合によっては自分がマルガムになる)。それに対し、ケミー回収を目的とする錬金アカデミー側が対抗するという至極単純な構図なのだ。そう言うとかなりあっさりしているようにも思えてしまうが、ここ数年の仮面ライダー作品はこの善悪の対立という概念を何度も捻ったような形で出してきていた。それこそ『ゼロワン』はヒューマギアに対しての価値観の違いを、『ギーツ』もバトルロイヤルという形で善悪に分断できない、状況に振り回される人々を描いてきた。『セイバー』や『リバイス』の構造も決して単純ではなく、言わば「誰が味方で誰が敵なのか信用できない」作品が続いていたのである。もちろん状況によっては完全に敵味方が整理されている場合もあるが、基本的にはその二元論に偏らないよう、キャラクターの群像劇として物語を進めていく作品が多かった。

 

もちろん私も群像劇は好みだし、そういった作劇が面白さに繋がる要素ならばどんどんやってほしい。しかしここ数年は群像劇だけで物語が動く場合もあれば、デザイアグランプリなどの大きな流れに振り回されるようなことも多く、せっかく生んだ対立や葛藤がうまく機能していない場面も多く見られた。何より「今このキャラクターはどういう立場なんだっけ」というのを逐一確認しなくてはならない作劇は、視聴者にとってはかなり難しい。更に言うと、前回で解決したはずの葛藤や対立がまた勃発しているなんていう変なことも起きるのがここ数年の仮面ライダーだったのだ。そんな中で『ガッチャード』の構図は非常にシンプル。敵が出てきて、それを倒しケミーを回収する。もちろん錬金アカデミーも一枚岩ではなさそうだし、スパナが宝太郎に対して好意的かというとそんなことはないのだけれど、それでもこの善悪の構図は揺らぐことがない。令和ライダーに顕著だった「いつ誰が裏切るか分からない」という緊迫感は鳴りを潜め、徹底的に王道路線を突き進むこの作劇はかなり新鮮だった。塚田Pの『W』や『フォーゼ』がイメージとしては近いかもしれないが、この2作の特徴はそれぞれ探偵ものと学園ものという「箱庭感」、つまりは世界観の深みが物語の面白さに繋がっているため、『ガッチャード』の面白味とは少し異なっている。

 

また、構図から更に一歩進んで『ガッチャード』の素晴らしいところは、「絶体絶命のピンチをしっかりと描く」という点である。私がかなり好きなのが第12話「暴走ライナー!暗黒ライダー!」で錆丸が仮面ライダードレッドに変身させられてしまうシーン。きっと『ガッチャード』に魅せられた多くの方々が、このシーンの恐ろしさに心が震えたのではないだろうか。

ガッチャードは敵に敗れ、ヴァルバラドですら倒されてしまう。他の錬金術師では手も足も出せない。まして相手は仲間である錆丸。誰も成す術がないという地獄のような状況で物語は進んでいく。近年、ここまでピンチに陥ったヒーローもなかなかいないのではないだろうか。もちろんヒーローにピンチが訪れることはままあるのだけれど、あの流れで醸し出される絶望感は、タブレットを通じて錆丸の声が聞こえてくるという演出も相俟って、相当なものであった。この状況を打破できる策を心の底から求めてしまうような。そんな強い絶望感があったのだ。これは錆丸の夢を事前に強調していたこともあるし、それまでのエピソードでガッチャードの面々を好きになっていたこともある。この手の絶望は大体が敵の体力が尽きることで撤退して終わってしまうのだが、錆丸が無理矢理変身させられている以上、そうもいかない。何より、それまでのエピソードの暖かみから、ずっしりと重いシリアス展開をこなす振れ幅が、絶望感を際立たせている。しかし、そこは王道路線を往く『ガッチャード』。絶望感は充分なのに、きっと何らかの形で道を切り開いてくれるであろうという納得感と安心感に満ちているのだ。これが王道ヒーローか…と思わず唸ってしまった。第4話までがかなり駆け足な展開だったので不満もあったのだが、この第12話で完全に『ガッチャード』という番組を認めることになったのである。

 

話に関して言うのなら、やはりベテランの長谷川圭一さんが書くミニエピソードの話がとにかく素晴らしいので思わず引き込まれてしまう。京都編の加治木の片想いも本当に素晴らしかった。きっとないだろうけれど、加治木に仲間に加わって仮面ライダーになってほしいと思っている自分がいる。いやでも彼はあのポジションだからこそ面白いのかもしれない。長谷川さんは『W』や『ドライブ』、『ゴースト』、『セイバー』でも脚本を担当しており、特に前2作ではちょっとビターテイストな短編を書いていたので、この辺りの面白さに関してはかなり信頼している。しかし思わぬダークホースだったのがメインライターとして名を連ねている内田裕基さん。正直これまで内田さんの担当した回を楽しめたことはないのだが(短編をやるというより大きな流れの1エピソードや配信サービスの番外編を担当することが多かったせいもある)、第7話と第8話のサボニードルのエピソードがすごくよかった。『ガッチャード』は短編の良さでキャラの魅力をどんどん引き出してきているので、これからもできることなら大きな流れに呑まれることなく、ケミーを回収するなんてことのない単発回を続けてほしい。

 

 

 

・最後に

まとめてみると言った割に大したまとめはできていないのだが、とにかく今の『ガッチャード』は非常に面白い。ただ、令和ライダーは年明けから物語のトーンがガッツリ変わることも多いので(やたらと怪人=人間問題をやりたがる節がある)、できることならこのテイストやクオリティを維持してほしいなと思っている。しかし第16話…マジェードは出るのかなあなんてちょっとした予想をしていただけなのに、デイブレイクなんて凄いものが唐突に出てきて正体を引っ張り続けるので本当に度肝を抜かれてしまった。その上新しいキービジュアルの解禁。新しいガッチャードに仮面ライダーになったヴァルバラド、そしてスピンオフから仮面ライダーレジェンドが参戦。このリアルタイム感も仮面ライダーの醍醐味なので、こういう仕掛けが施されているのは素直に嬉しい。湊P、結構好きな手つきで物語を展開してくれるかもしれない。

もちろん序盤のキャラクター説明を全然せず物語をがつがつ進めていく感じとか、完璧な作品だとは言えないのだけれど、それでも愛嬌があって既に大好きになってしまっている。新キャラも登場してきたが、きっと短編の趣を崩さずこのまま進んでくれれば素晴らしい作品になるだろうし、逆にここから長編に突入しても面白くなるポテンシャルは充分にある作品だと思っているので、とにかく好きにやってほしい。

宝太郎が忘れている過去のケミーとの記憶、風雅の所在、新たな敵との戦いなどなど。熱い路線で残りの約8ヶ月も突き進んでいってくれればと思う。また区切りが良いところで感想を書いていきたい。