ノトーリアス・B.I.Gという名前を『ジョジョの奇妙な冒険』で覚えた私は、彼が暗殺されたことすらもつい最近初めて知った。ジョニー・デップの最新作が公開と聞いて予告を観た時、最も衝撃だったのはその点である。「活躍中の一大アーティストの暗殺」。当時を全く知らず、時代背景の知識すらなくとも、この1行だけで映画を観る価値は十分にあるように感じた。
正直ラッパーに関しての知識もなく、ビギーの曲さえ1つも知らない。ただ普段からフラッと映画を観に行く人間だからと気楽に朝イチで鑑賞したのだが、朝に全く似つかわしくない重苦しさを携えて劇場を後にすることになった。もちろん脚色がゼロというわけではないのだろうが、判明した事実をなぞっていくだけでも、恐ろしい結論に辿り着いてしまう。
この映画は実話をベースにしているものの、ドキュメンタリー作品ではない。事件の担当になり、20年近くこの事件を追い続けた、実在のロス市警官ラッセル・プールの巨悪に立ち向かう正義感を軸に、記者のジャックに過去を話す形で物語が進行していく。
プールは事件を追う内に停職処分となり、同僚からは煙たがられる存在に。そして事件解決に執着するあまり、家族とも離れ離れになってしまう。全てを失い退廃的な暮らしの中でも、暗殺事件をひたすらに追い続ける彼の姿勢は、側から見れば狂人そのものである。
新聞の回顧記事の取材でプールの元を訪れたジャックも、彼をイカれた奴扱い。記者だけあって、勝手に人の家に入りいきなりスマホで録画を始める図々しさ。それでも真実を追求する姿勢はプールに負けておらず、何がなんでも彼から情報を引き出そうと試みる。
当初はどっちもどっちな図々しさを持ったプールとジャックが、事件の話を通して徐々に絆を深めていくのが観ていて楽しい。プールが事件の犯人だと言ってジャックに伝えた名前がMCハマーの本名だった件はさすがに笑った。実話ベースで背景となる事件が重たいものであるだけに、2人のこうしたやり取りに救われる瞬間も少なくない。
暗殺事件に関しては比較的丁寧に説明してくれるものの、レコード会社などある程度の予備知識があった方が素直に楽しめるかもしれない。カタカナの人名が飛び交うので、記憶力が試される映画でもあった。ただ、重要人物として名前が挙がった時には逐一キャラクターをフラッシュバックしてくれるので、非常に丁寧な作りではあったと言える。
ジャックと接する現代のプールは腹にも締まりがなく、世捨て人のような風格。それでいてきっちりスーツを着こなす当時のプールは正義感に包まれながらも、徐々に明らかになる真実の重みに、少しずつ目から光が失せていく。このある意味一人二役なキャラクターを見事に演じ分けるジョニー・デップの素晴らしさを堪能することができた。
始まりは暗殺事件。しかしその9日後にプールが関わった、警官同士の喧嘩事件から事態はどんどんきな臭くなっていく。そこで殺された黒人警官は、暗殺事件にも関わりがあった。そこから操作を続ける内に次々明らかになるロス市警の暗黒面。踏み込み過ぎたプールの調査は上層部から妨害され、彼は自分の正義感を試されていく。
物語中盤、プールから話を聞き取材を進めていたジャックが警察に捕まるのも衝撃的だった。それまで「取材」でしかなかったことが、彼の「人生」になっていく。そこでようやく、彼は自分が首を突っ込んだ問題の先にある闇の大きさに気付くのだ。
ジャックのエピソードに関しては脚色なのかもしれないが、彼がプールから引き出した情報、次々と暴かれるロス市警の闇は驚かされるものばかりである。最後の字幕によれば、アフリカ系の被害者が出た事件の5割は未解決だとか。海外旅行すら行ったことのない私としては衝撃である。公権力による人種差別が平気で行われる世界。それは決して遠い海の向こうの話に留まらず、世界を熱狂させるに至ったアーティストの死にまで繋がっていった。一レーベルが警察を買収できてしまうというのが本当に恐ろしい。
逮捕された時点でジャックにとってもこの事件はもはや取材対象のレベルではなくなる。プールと同様、周囲から煙たがられる孤独な戦いを強いられることとなったのだ。
その変化が彼に執念を宿すことになり、死に物狂いで調査した結果、決定的な証拠を発見。それをプールに渡し、プールが内部告発を行うことで、事件は解決へと向かうはずだったが…
証拠はあまりに古く受理されず、そのショックもあってかプールはその場で心臓発作を起こし死亡。ひとり残されたジャックは彼の無念を晴らすために、プールの功績を新聞の一面に載せる。
何よりプールという実在した人物の素晴らしい功績と不屈の精神を、こうして映画化してくれたことが嬉しい。公権力に1人立ち向かった英雄の物語は、背景の重苦しさを越えて観る人の胸を打つはずだ。
人種の異なるプールとジャックが仲を深めていく流れも、映画のテーマに沿っていてとても良い。どこかふざけたキャラクターだったジャックが、プールの死に怒り狂うシーンも素晴らしかった。理不尽な目に遭いながらも、共に戦った戦友のために何が出来るか。それを考えに考えた結果があのラストだと思うと、こみ上げてくるものがある。
ビギー暗殺という今でも衝撃的な話題を軸としながら、社会問題に警鐘を鳴らし、色々なことを考えさせてくれる。もちろん様々な側面から物事を考えなくてはならないが、私がこの映画で暗殺のことを初めて知ったように、人々が何かを思うきっかけにはなるはずだ。
そんな社会の闇に切り込みつつも、物語としての面白さやキャラクターの深みを丁寧に描く。重苦しいだけでなく、ストーリーラインもしっかりと練られていて、事件の知識がなくても楽しめる仕組みになっている。
単純な面白さはもちろん、色々な意味で考えさせてくれる映画だった。