映画『LAMB/ラム』評価・ネタバレ感想! 羊人間育成に見る、喪失と再生の物語

飼っていた羊が産んだ顔が羊で体は人間の「何か」を自分の子どもとして育てる夫婦…というインパクトある題材に惹かれたのか、上映初日はほぼ満席だった。多くのホラー映画を送り出してきたA24配給の新作。ポスターや設定からして、もう異常性がたっぷりである。きっと公開を待ち望んでいた方も多いだろう。

 

かく言う私もその一人だったわけだが、この作品がそうした鑑賞前の期待値を上回ったかと聞かれると、どうにも答えにくい。ホラーのジャンルではあるものの、どこか人間ドラマの様相をも呈している、すごく静かで美しい作品なのだ。そんな中で訪れる、衝撃のラスト。観た後にはすぐにネットで答えや解釈を探し始めてしまうような、不条理とナンセンスに満ちた、なかなか難解な作品である。

 

物語は全部で3章の構成になっている。

その中でも代表的なのが、この映画には「3度」、「異種族に銃を向ける」シーンがあることだろう。

1度目は、妻のマリアがアダを産んだ母羊に対して。

2度目は、イングヴァルの弟がアダに対して。

3度目は、謎の羊男がイングヴァルに対して。

2度目は詳細こそ語られないものの、未遂に終わりむしろ二人は仲良くなる。しかし1度目と3度目に関しては、相手を殺す結果となってしまった。

 

正直言って、シュール映画以外の何物でもない。「羊が産んだ子供が羊人間だったから人間として育てよう!」みたいなノリと思いきや、ずっと重苦しく静かである。エンタメ性には乏しく、感情の起伏もあまりない作品であることは確か。そんなゆっくりとした流れでもこの映画を退屈せずに観られたのは、やはり夫婦とアダの「家族」としての関係がしっかり描かれていたからだろう。アダの正体、羊男の正体。そうした根本的な謎には一切触れないものの、子を失った夫婦が新たな存在に愛を注いでいく姿には、大きく心を動かされた。

 

アイスランド雄大な景色の中、登場人物も少なく、展開もほとんどない。しかしどうも不穏で、いつかこの幸せが崩れてしまうのではないかという危惧が、ずっと近くにあるような、そんな映画である。

アダの存在はキュートではあるものの、やはりどうしてもツッコミを入れたくなってしまうのが本音だ。イングヴァルの弟との食事の際「誰か来るのか?」と聞かれ、そこに羊頭の子どもが現れて絶句するシーンはあまりに面白すぎる。「人見知りなの」とマリアがフォローを入れるが、どう考えても話すべきはそこじゃない。弟は元ミュージシャンでその後アダに草を食べさせたりと、なかなか性格の悪い奴なのだが、同調圧力で無言で食事を続けるのはさすがに笑ってしまう。

 

映画を観ている私達は、この弟に期待する。彼がこの停滞した歪な状況に、一石を投じてくれるのではないか、と。

羊人間が生まれたからといって、幼い娘を亡くした過去があるからといって(これも直接は語らない辺りがこの映画の凄いところである)、自分の子どもとして育てるというのは、さすがに異常者でしかない。第1章は、母羊を殺したことも含め、そうした「部外者」の視点へと鑑賞者を誘導することで、不気味さが確保されていた。

しかしいざ弟が現れると、どうしたことだろう。アダに草を食べさせたり、アダを撃とうとする彼に対して、どうにも好感が持てなくなっている。確かに弟はマリアを寝取ろうとするほどのクズ男なのだが、それにしても私たちはアダの可愛さに手のひらを返さざるを得ないのだ。いつの間にか「アダを護ってあげたい」という気持ちにさせられ、1章のうちは不気味に感じていた歪な家族すらも、知らず知らずのうちに認めている。

 

そして弟が(何故か)アダを撃つことを止め、アダと本当の家族のように仲良くしている第3章に、心が救われたような気持ちになるのだ。娘を失い喪失状態だった夫婦は、アダの存在により活気を取り戻し、情事にも及べるほどに回復する。羊飼いとしての仕事と日々の食事を淡々と映し出していた第1章からは考えられないほどのテンションの高さである。

共にサッカーを観戦し、リズムに乗って踊り出す。その場からアダが去っても、彼らはアダがいるというそれだけで、日々に喜びを見出すことができるようになったのだ。喪失と再生。羊人間と言う不気味な触媒ではあるものの、言葉を多用せず心の回復を演出する様は非常に見事であったと思う。しかし随所に挟まれる不穏なシーン(犬や猫が何かを見たり感じたりしている)から、私たちはこの幸せが刹那的なものであることを、自覚させられてしまう。

 

弟が家を去り、イングヴァルとアダは散歩へ。マリアが帰宅しても、まだ2人は帰っていない。それもそのはず、突然現れた羊男にイングヴァルは銃殺され、アダは連れていかれてしまったのだから。しっかりと鍛え上げられた人間の肉体に羊の頭が乗っかっている存在。そんな恐ろしい怪物が銃を持って攻撃してくるのは本来恐怖のはずなのだが、見事な裸体はどこかシュールでもあり、そのあまりの唐突さに、哀しみよりも驚きが優先される。

この正体についても全く明かされないため、私たちは数少ない手掛かりから推理していくしかない。だが、単純に考えて私は、あの羊男はアダの実の父親であると思う。実の父親が、子どもを取り返しにきたのだ。あまりのシュールさに驚かされるが、これはマリアがアダの実の母親にしたことと何ら変わりはない。むしろ血縁関係のない存在を、人間に近いからなんて理由だけで自分の子どもにしてしまうことの方が、よっぽど恐ろしい。この映画で私たちが見せられていた幸せは、所詮まがい物でしかなかったのである。

 

妻の名前がマリアであり、ポスターは宗教画モチーフ、それでいて「羊」という題材が使われたことを考えると、この映画が聖書の影響を強く受けていることは明らかだろう。そこにどのような意図があるかを紐解いていくのは非常に難しく、何より鑑賞者の手にゆだねられるだろう。しかしどれほど考察しても、そこに明確な答えはないのかもしれない。

私としては、奇跡の子どもであるアダは、夫婦の信仰の象徴なのではないかと思った。夫婦は幼い娘を失い、その喪失感に囚われた存在。直接言葉にはしないものの、どこか夫婦関係も冷え切っているように感じられた。そんなところに現れた羊の頭をした人間(正確には右腕も羊)。それは夫婦が最も求める存在である「人間の子ども」に近く、また、羊の頭を持っているという特殊性は、彼らにとって奇跡にも感じられたのだろう。

 

本来なら「気持ち悪い」と一蹴してしまえるものなのに、喪失感をちょうど埋めるように現れた存在だったことで、彼らはそれを子どもとして育てていく。母羊を殺害する暴力性にまで発展するほどの母性。この異常な存在を自分たちの子どもであり生き甲斐であると捉えることで、彼らの心は救われていくのだ。その姿はどこか、カルト宗教にのめり込んでいくようでもある。端から見たら異質だが、そこに幸せを覚え、間違いまで犯してしまう夫婦。そんな彼らに制裁を加えるのが、実の父である羊男。しかし彼に制裁などという意識はなく、ただ自分の子を取り戻しに来ただけなのだろう。間違っていたのはイングヴァルとマリアなのだ。

 

喪失と再生、そして信仰がもたらす人間の心の正と負の面を描いたような作品と言えるかもしれない。だが何よりアダの一挙手一投足が愛しく、そんなアダの存在にほだされていく夫婦達の関係性が、北欧の綺麗な景色と相俟って、非常に美しかった。