映画『変な家』感想

映画『変な家』の公開に際して最も期待していたのは、この映画の予告編をもう劇場で観なくてもよくなる、という点だった。予告編ラストの「マジモンじゃねえかこれ!!」というセリフを劇場で聞くのがすごく恥ずかしかったのだ。「マジモン」なんて変な言葉を予告編ラストという大切な位置に配置してしまえる感性を持った人達の作品なんだなあという苦しさもある。そして何より、書籍版を読んだ私からすれば、本にないこの言葉がキラーフレーズのように耳に入ってきてしまうのが本当に辛かった。そんな辛い日々にピリオドを打ってくれた公開。公開日翌日の土曜日昼の回はほぼ満席。子どもから大人まで幅広い層で劇場が埋まっており、Jホラーの訴求力を強く感じることができた。

 

しかしこの作品の底力は、既存のホラーとは違う角度の魅力を持っていることだろう。変な間取りの家の謎を追うという発想はとても斬新で、実際にあった話としてネットに記事が出た時も大きな話題となった。

 

【不動産ミステリー】変な家 | オモコロ

 

実際私もこの記事に一気に引き込まれてしまったのである。築1年の中古物件に存在する、壁で覆われた謎の部屋。その部屋は一体何に使われていたのか。推測の域を出なかった話が、記事に書かれた以降の出来事によってどんどん現実味を帯びていく。ライターはYouTuberなどとしても活躍する雨穴さん。ホラー系の動画を漁っていれば自然とたどり着くくらいには有名になった方である。

 

書籍版は間取りの推理から話を展開するためかなり独特な読み心地となっているが、映画では登場人物達が実際に現場各地に足を運ぶという脚色があり、物語性が強められている。メディアミックスというのは往々にして媒体の強みを活かすべきなので、その試み自体は否定しない。しないが、肝心の物語があまりに拙い。どうしてこれを足したのかという点がよく分からず、結局のところ物語で言えば恐怖度はまるで増していない。しかし、視覚的な恐ろしさはしっかりと担保されている。そう、原作には登場しない「仮面」の力である。この映画は怖いかと聞かれるとそうでもないのだが、仮面のインパクトが強いのでビジュアルで恐怖を感じやすい人には辛いかもしれない。

 

結論から言うと、『変な家』の演出や雰囲気作りにはかなり感心させられた。監督は石川淳一さん。ドラマでは『リーガル・ハイ』、映画では『エイプリルフールズ』や『ミックス。』など、古沢良太脚本の作品を多く手掛けている。そのためホラーの方というイメージもあまりなかったのだけれど、小慣れているかのようにささっと演出する手腕が素晴らしい。恐怖や緊迫感を煽る描写も充分である。そして極め付けはあの仮面。あの仮面のビジュアル的な恐ろしさだけでもうこの映画は100点と言えるだろう。序盤、雨宮(間宮祥太朗)が自宅で襲われるシーン。そして「変な家」にて撮影された小学生くらいの子どもの写真。そして最後の仮面軍団。至る所で用いられたこの仮面は、能面のような不気味さだけでなく、絶妙な微笑みによって更に恐怖を醸し出していく。柚希(川栄李奈)の母親の家に仮面がサラッと飾られているシーンも凄かった。大きな音で驚かせるジャンプスケアとも違い、とにかくビジュアルの一点突破で向かってくるこの作品の姿勢はかなり攻めていると思う。だからこそその仮面自体にあまり意味が付与されていないこと、片淵家の側であることを示すだけの記号的な要素にしかなっていなかったのは非常に残念。

 

そしてここからはネタバレにもなるが、脚本、主に物語の面でかなり観ていて辛い部分があることにも触れておきたい。脚本を担当したのは丑尾健太郎さん。エンドロールでこの名前を見て真っ先に「アンタだったのか!」と思った。つい先日映画が公開されたりドラマ版の完結編が配信されたりと話題の『君と世界が終わる日に』。竹内涼真主演の国産ゾンビドラマなのだが、丑尾さんはこの作品の脚本も担当しているのである。しかしこのドラマは物語が全く面白くないというのが私の評価である。特に後半以降は綺麗事を言うだけのキャラクターが次々に登場し、「国産ゾンビドラマ」という一点以外では全く褒めることができないくらいに酷い。もちろん日本でこんなに簡単に人が命を落としていく残酷なドラマが観られるというのは凄いことだし、そういう他のドラマとは異なる部分がSeason5まで続いた要因なのかなとは思うのだけれど、本当に観るのが苦痛で仕方ないドラマだった。

 

そんな丑尾さんの名前をエンドロールで発見し、正直とても嬉しくなってしまったのである。この人の脚本だったらこれくらいだよな…と。まず『変な家』の重要な部分は映画化するに際して、記事から物語へと変貌を遂げている点。しかし物語としてのスタートとゴールが全くあやふやなのである。変な間取りの家を追う記事に無理矢理キャラクターを登場させたようなチグハグさになってしまっているのだ。冒頭、家族観について柳岡に問われた雨宮は家族や恋人というものに興味がなさそうな素振りを見せる。ああそこから人との絆を大切にしていく物語が展開されるのかなと思いきや、驚いたことにサラッと柳岡が自分の気になる物件の話を続けるのである。いやここは嘘でも柚希とのメロドラマになると予感させてほしかった。そういう邦画が嫌われるのも分かるが、せっかく映画オリジナルの造形として生み出した人間ドラマの部分がまるで機能していないことが不可解だった。

 

そしてラスト、雨宮が手首を切られそうになる絶体絶命のピンチで搾り出した言葉は「俺は祈らねえ!」。もちろん会話の文脈上は正しいのだけれど、その「祈らねえ」に至る思いが映画の中で全く描写されていない。単に残酷で恐ろしい因習を否定するだけの巻き込まれた男であり、彼自身の物語は映画の中に一切存在していないのだ。そのせいで片淵家に襲われるラストにも緊迫感がまるで生まれない。もっと雨宮なりの正義感とか価値観を打ち出す作品にしてほしかった。というよりも、そこの比重が高すぎて残念な結果に終わるホラー映画(恐怖よりも結局ドラマ性や恋愛要素を強調したがる)がやたら多い中で、そういう部分が逆に薄味な映画というのが目新しくて面食らってしまった。

 

ただ、映画では物語の結末や、因習の仕組みが大きく変わっている。本家や分家に関する話はやはり文字媒体でないと理解しづらい部分もあると思うので、そこを思い切って片淵家全体を因習に囚われた哀れな人々と描き切るのは割とよかったかもしれない。ただやはり、赤ちゃんと一緒に隠し部屋に身を潜めているのに全然泣いたりしないとか、あとラストで雨宮の家にも謎の部屋が存在していた…という陳腐なオチがあったりとかはすごくノイズになってしまっていた。薬漬けにするという設定も便利アイテムが唐突に出てきたようでよく分からなかったし、全体的に中学生くらいが喜びそうなアイデアが書籍版から追加されていて、確かに書籍版よりも映像的なインパクトを出したい意図は分かるのだが、それが上手く発動していないように思えてしまった。書籍版の体裁は実話モチーフということで過度に物語性を帯びていなかったのだが、映画では中途半端な物語性が付与されており、どうせやるならもっと盛ってほしかったなあというのが素直な思い。

 

変な間取りの家の謎からある恐ろしい因習にたどり着くダイナミックさがこの作品のウリで、書籍版にあったその面白さはしっかりと残っている。佐藤二郎の演技も抑えすぎず出しすぎずといったちょうどいい塩梅で、変人感がうまく醸し出されていた。ラストで雨宮にケチ扱いされていたのは、そういう描写がなかったのでよく分からなかったが。とはいえ動員数からすると大ヒットしそうではあるし、演出にくどさがなかったことは好感が持てる。こういうヒットが思わぬ特大Jホラーの誕生に繋がったりすることもあるので、出来は置いておいても、まずは動員を伸ばしてほしいなあと思っている。

 

最後にアイナ・ジ・エンドの主題歌『Frail』がかなり良かった。秘密と歪で韻を踏む辺りが最高。

 

書籍版は2作目も出ており、そのほか雨穴さんが監修を務めたテレビドラマ『何かおかしい』も似たテイストでかなり面白いので気になった方は是非。

 

 

 

 

 

 

 

 



Vシネクスト『仮面ライダーギーツ ジャマト・アウェイキング』感想 ヒーローになった吾妻道長について

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Vシネクスト『仮面ライダーギーツ ジャマト・アウェイキング』を観た。『ギーツ』本編はバトルロイヤルの連続によって構成される新鮮味に溢れた筋書きこそ好みだったし、「人々が自由に願いを叶えられる世界を創る」というライダー達のたどり着くゴールにも惹かれた。ただそもそもの舞台設定、「叶えられる願いの総量が決まっている」という土台に違和感を覚えてしまい、そこまで前のめりで鑑賞することができなかった記憶がある。ギーツ達の活躍によって世界が視聴者の生きている「今」とリンクした…的な構成ならもっと早くそう言ってくれればいいのになという思いも抱いていた。それでもデザイアグランプリを繰り返しメインのライダーでさえ脱落していく作劇は、視聴者を翻弄していく面白味に溢れていたと言える。前代未聞のストーリー展開であり、作り手の苦労も窺える作品であった。

 

そんな『ギーツ』のVシネ、素直に言うと本当に面白かった。本編が毎週放送される30分番組であるという自覚を持ち、開示する要素や進める展開のコントロールに苦心したであろうことを感じられる作品だったのに対し、劇場版がそうであったように、単発作品は非常にシンプルで力強い。「全ての人々が幸せになれるように」という単純明快なゴールが決まっているからこそ、愚直なまでに王道の物語が展開される気持ち良さ。本編がそれこそ狐のようにこちらを化かすことに特化した話運びだとするならば、劇場版とVシネは正に痛快娯楽作。思えば『仮面ライダーギーツ』はエゴのために戦い合う者たちが、自分達を利用する存在と向き合うことで、願いの呪縛から人々を救う存在へと変わっていく物語だった。だからこそ、そのゴールの先にあるVシネも、自然と王道ヒーロー作品になったのだろう。

 

劇場版で語られた、未来の人間は地球も肉体も捨てているという衝撃の事実。肉体さえ持たないまま宇宙の仮想空間に住むようになった地球人は娯楽に飢え、命に飢え、やがて人の生き死にが懸かったゲーム・デザイアグランプリに熱狂するようになる。命の概念が私達と大きく異なる未来人だからこそ、袮音が作られた人間だと知った時に激しく怒り、落胆したのだろう。これは一個人の生活や人生が「推し文化」として消費されていくことへの警鐘とも取れるが、「推し文化」をそのまま否定するのではなく、推したい存在を支える在り方を示唆する目線も持っているのが『ギーツ』の素敵なところだと思う。

話を戻すと、人類が形を変えてしまうことが前提条件としてサラッと明かされる辺りも、この作品の特異性だと言えるだろう。本来ヒーロー作品はヒーローがその未来を変えるべく動くのが定石であるが、『ギーツ』においてその部分は変えることのできない未来として位置付けられている。こんな冒険ができるのも仮面ライダーシリーズの受け皿の深さゆえである。

 

しかしその前提条件が、Vシネのあらすじとして膨らませられていく。地球を去った人類さえも滅ぼそうと襲い来るゴッドジャマト。その脅威を未然に防ぐために1000年後の浮世英寿が現代へと駆けつけるのだ。そう聞くと英寿がヒーローであるかのようだが、実際には現代の英寿や他のライダー達の前に敵となって立ち塞がる。『ガッチャード』の宝太郎は未来では声がDAIGOになり世界が滅亡しても諦めることなく、過去の自分を見て「さすが俺」と零してしまうような愛嬌に溢れたヒーローだったのに、未来の浮世英寿は大した説明もなく過去の仲間に牙を剥く。1000年と言う時間が彼の何かを変えてしまったのかもしれないが、そういうところに理屈を無理につけない辺りも「ギーツだなあ」と感じた。

 

思えば、このVシネのあらすじはかなり飛躍している。そもそもデザイアグランプリを軸にしていた本編からデザグラ要素を抜くとこんなにも別作品に見えるのかという発見があった。それは逆に言えば本編が時間を掛けて丁寧にデザイアグランプリという題材を描いてきたことの証左とも言えるだろう。根幹にデザグラやゲーム要素のない『ギーツ』に対して、こんなにも新鮮味を覚えるとは思わなかった。それと同時に、人類を追い込むことになるジャマトの脅威を描くというのはある意味セオリー通りであり、納得感もある。多くのライダーVシネのようなサブライダーのスピンオフという形ではなく、あくまで本編と地続きの物語として展開されている点も嬉しい。

 

まず驚いたのが、かなりホラーチックに始まる序盤。フィルムの質感もそうだが、古びた団地や謎の少年など、Jホラー的要素が散りばめられてホラー好きの私はかなり心を持って行かれた。パンフレットのインタビューによると脚本の高橋さんの提案らしいのだが、これが「人類が地球から去ることが決定づけられている」という悲劇的な方向に向かっていく物語とうまくリンクしている。そしてそこから展開されるストーリーは、驚くことに異種族間の愛を軸としていた。大智に育てられ、人間と仲を深めていくことで愛を知り、子を成したクイーンジャマト。ここの展開は井上脚本を堪能しているかのような妖しげな魅力を放っていた。何なら『仮面ライダーキバ』にこういう話があった気がする。

 

ゴッドジャマトの正体はある程度話運びで読めてしまうのだが、それは問題ではない。なぜならこの物語の芯はジャマトや人間という種族を飛び越えて、誰もを幸せにしたいという思いを道長が語る点だからだ。そう、このVシネは実質仮面ライダーバッファのスピンオフなのである。

 

吾妻道長は『ギーツ』本編において、他のライダーとの立ち位置やスタンスの違いが顕著に打ち出され非常に魅力的なキャラ造形を誇っていたものの、いろいろな意味で不遇だったなと感じている。彼が当初から主張していた「デザイアグランプリをぶっ潰す」という願いは、結果的に英寿を含めたメインライダー達の目的と重なっていくのだが、いつの間にか4人の主張として大きな流れに呑み込まれていってしまっていた。ジャマトグランプリで優勝し念願のライダーをぶっ潰す力を手に入れても、新フォームはマイナーチェンジに留まり、彼がジャマ神となったデザグラが進んだ先では、ギーツの創世の力の覚醒によってどんどん物語が違う方向へと向かっていってしまう。何より、尖り続けライダーを憎悪していた彼の価値観の変化も、英寿との共闘や景和の錯乱の中で自然に培われてしまい、バッファがフィーチャーされる回はほとんどなかった。序盤からどれだけ悪ぶっても人の良さが滲み出てしまう可愛げのあるキャラクターではあったが、物語の中での扱いは少し雑だったように思えてしまうのだ。1年で最も変化のあったキャラクターであるはずなのに、じゃあ彼を劇的に変えたものが何かと訊かれるとうまく答えられない。自分としても当初からかなり好きなキャラだっただけに、その点を凄くもどかしく感じている。

 

そんなバッファに、遂に活躍の機会が訪れたと言っていいだろう。もちろんベロバ撃破回などもあったが、それとはまた違った格別にバッファを、吾妻道長を堪能できる作品。それがこの『ジャマト:アウェイキング』なのだ。

まずは新フォームについて。エクスプロージョンは演じる杢代和人さんも言っているように、強敵として立ち塞がるドゥームズギーツの金色と対比になった銀色のバッファ。その色合いが美しいし、ギーツと肩を並べる存在としての神々しさが形に表れている。次に手で盆を模したようなバックル。思えば、ゾンビバックルにおいても手は重要なファクターであった。しかしそれは墓から這い出てくるゾンビ達の手であり、人々を地獄へと誘う禍々しい手だったのである。そんな彼が内なるジャマトの力を自分の武器として形にした新しいバックル、その意匠が人の願いや涙を取りこぼさないように手で盆を作ったように見えるデザインとなっていることが本当に素晴らしい。何ならこのバックルは道長と共鳴した英寿の創世の力によって生まれたそうなので、道長の新たな力として英寿が彼の本質を形にしたと考えるとそれだけで1年間『仮面ライダーギーツ』を観てきてよかったと思える。更に、変身後も大きな左手は盾として機能する。ひたすら剣もといチェーンソーで攻撃を重ねてきた彼の最強フォームの武器がまさかの盾になる大きな腕。道長の1年を通しての心情の変化がしっかりとデザインに落とし込まれていて感激してしまう。

 

序盤で「仕事の帰りだ」と、ぶっきらぼうに言い放つ道長。本当の悪人はそんなに素直に「帰り」とか「仕事」とか言ったりすることはない。やはり彼の言葉からは人柄の良さが滲み出てしまう。そしてドゥームズギーツの攻撃を喰らった時、英寿の姿をした相手に対して、景和が「何で俺達を!?」、袮音が「本当に英寿なの!?」と戸惑う中、誰よりも先に「お前誰だ!!」とこいつは英寿じゃないという判定を即座に下す道長。お前はどれだけギーツへの想いがデカいんだ。そういう節々から感じられる道長の可愛げを再び堪能できたことが素直に嬉しい。それだけでこのVシネを観る価値は充分にあった。アクションも坂本監督らしさが存分に発揮されている。舞台としてはそこまで広くない場なのだが、カメラワークと動きでとにかく魅力的で楽しい。ラストのタイクーン・ナーゴ・バッファのトリプル必殺技からの爆炎をバックに変身解除後の立ち姿…!本編では終盤までどうしてもギスギスしてしまっていた彼等がこうして共闘している様を堪能できて本当に良かった。

 

とまあ存外に本編とは別の角度から刺激をくれる作品だっただけにベタ褒めしてしまうのだが、やはり惜しいところもあった。まずは英寿が神になった後も結構な頻度で道長達の前に現れていそうなこと。劇場版では彼等が驚く描写があったが、今回はそれすらなし。道長の「ギーツが創った世界を守る」という決意表明がこの作品の肝なだけに、そもそも英寿が出てくれば解決しそうな雰囲気があるのはどうなのかなあ、と。実際ジャマトの力を形にしてくれたのはパンフレットによると英寿の創世の力のようで、結局神頼み的な側面があるのは残念だった。そもそも「神」とは言うが今の英寿に何ができて何ができないのかがよく分からない。OPのように未来の英寿に有刺鉄線で縛られるも、何だかあっさりと引きちぎって戻ってきたのはさすがにおかしいよな、と。そして最初にも触れたが、主役でありヒーローであった英寿が1000年の経過でどうして仲間達を傷つけるようになってしまったのか、というアンサーも特になかった。もちろんぼかしてもいい部分だとは思うし、むしろここが丁寧だと話の核がブレてしまいそうではある。ただやはり、主人公が未来でまるで別人になっていたという衝撃で話を動かすなら、適切なアンサーが欲しかったなあとは思った。

 

ただ短い尺で本編とはまた違った味の『仮面ライダーギーツ』を堪能できたのは本当に大きい。更に良かったのは、Vシネすぎる描写がなかったこと。やたら流血があったり、ちょっとセクシーな描写があったりという、見た目的なVシネ感・テレビじゃできない感のある演出が個人的にすごく苦手なので、そういう雰囲気が一切なかったのも好感が持てた。むしろ話の複雑さでカタルシスに欠けた本編よりもスカッとする爽快エンタメが出来上がっており、それが本編のデザイアグランプリを受けての物語としてしっかり成り立っている。『ギーツ』の物語がこれで終わってしまうことは悲しいが、いい閉幕だったなと心から思える素晴らしい作品だった。

 

 

 

 

 

 

スーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』総括 他人の祭になってしまったもどかしさと、シリーズの転換点になるという確信

スーパー戦隊シリーズ第47作目『王様戦隊キングオージャー』が最終回を迎えた。戦隊全員が王様で物語の舞台も我々の住む星とは違うチキュー。シリーズを観てきた者からすると考えられないくらい大きなスケールで物語が展開され、かなり意欲的で挑戦的な作品だったと改めて思う。だが、私は全く肌に合わない作品だった。いや全くと言うと嘘になる。正確には序盤から中盤までは何となく「斬新なことやってるな~」という感想を持ちつつフラットに観ていた。前番組の仮面ライダーが終わるとすぐにスマホであれこれ調べたり呟いたりしてしまうため、どうしても集中力が削がれる。なので本質的に『キングオージャー』の話の筋を理解できたのは数週間前に1話から復習を始めてからと言えるだろう。ただ、リアルタイムの時点で私の『キングオージャー』への興味はもう薄れていたのかもしれない。そう思う根拠は『機界戦隊ゼンカイジャー』や『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の時は画面に食らいついて観ていたからである。それほどまでの視聴意欲を継続できなかった時点で、私は既に篩に掛けられていたと言ってもいいだろう。そしてネットの評価に目を向けると、面白いことに『キングオージャー』という作品はかなり物議を醸しているらしい。賛否両論などは当然のことで、絶賛派と否定派の極端さがとてつもないことになっていた。戦隊シリーズがここまで荒れたことも珍しいかもしれない。そんな評価を横目に毎週視聴をし、いざ最終回前だからと復習をしたところ、私もこの物語の歪さに気付いてしまい、完全に目線が「諦め」になってしまった。

 

ただ、最終回同時視聴のイベントなど、これまでの戦隊シリーズではなされなかった試みが実現しているのも事実である。Blu-ray第1巻の初回限定盤も速攻で売り切れていたし、ネットでもトレンド1位になるほど多くの人が熱狂している。スーパー戦隊仮面ライダーよりも人気の面では劣るというイメージがあったが、このネットでの熱狂具合は完全に追い風が吹いている時の仮面ライダーである。私は『ドンブラザーズ』がかなり好きだったしネットでも好評価を多く見かけたが、それでもここまで大きな規模ではなかったように思う。もちろん作り手のSNSの使い方なども関係しているのかもしれないが、逆に言えばそういった層の熱狂を生み出す力を持つ番組だった、ということでもある。

 

とはいえ、フィクションに対しての感想は一個人が面白いと思ったかそうでないかのどちらかだと思うので、私は「なぜ世間にウケたか」なんて分析しようとは思わない。そのためここからの文章は、私が『王様戦隊キングオージャー』に対して一線を引いてしまった理由をつらつらと書いていったものであることを先に断っておきたい。シリーズの中でも稀に見るほどに画期的な画作りがなされた本作、私が感じたのは最初こそ違和感だったものの、視聴を続けていくうちに拒否感へと形を変えてしまった。

 

 

 

 

スーパー戦隊を手掛けるのは『獣電戦隊キョウリュウジャー』以来10年振りとなる大森P、斬新で独創的な画作りが評判の上堀内監督、そしてスーパー戦隊初参戦かつ特撮メインライターとしても初登板の脚本家高野さん。『ゼンカイジャー』『ドンブラザーズ』が平成仮面ライダーというブランドを築き上げた白倉Pに拠るものだったことを考えると、その「反逆」として敢えて若手を起用したのかなとも思える布陣である。スーパー戦隊存続の危機というのはネットでも度々盛り上がるが、やはり『ゼンカイジャー』と『ドンブラザーズ』はベテランが手掛けていただけあって、物語の面白さ以外にも作品内外の仕掛けを感じることができる作品だった。毎週の視聴を継続させていこうという思いが作品にも表れており、実際私にとってこの2作はかなり思い入れの深い作品になっている。

 

ただどちらもスーパー戦隊としては見た目の時点で型破りな戦隊。『ゼンカイジャー』はメイン5人の中に人間が一人しか存在せず、『ドンブラザーズ』はその狂ったようなネーミングセンスもさることながら、メンバーの中に極端に背の低い者と極端に背の高い者がいてCGが用いられていた。要は出オチなのだが、物語の牽引力でそれが出オチではなくきちんと「入口」になっているのが素晴らしい。「なんだこの変な戦隊は」という入り口を設けた後にも、そのインパクトに引けを取らない物語がちゃんと用意されているのだ。もちろんハマれない人はいるだろうが、それでも話題作りの面で「戦略」を感じさせる作りに、シリーズを長年観ている者としては興奮を覚えずにいられない。だがそれは逆に、後続作品のハードルを高めることでもある。

 

そこで出てきたのが『王様戦隊キングオージャー』。この端的な番組タイトルの中に「王」が3回も入っているのがまず凄い。正気とは思えないネーミングセンスだが、あらすじや設定は更にとんでもなかった。舞台はチキューという架空の星で、戦隊メンバーはそれぞれが一国の王様という斬新さ。スペースオペラを題材にした41作目の『宇宙戦隊キュウレンジャー』が、上からの指示で第1話から地球で物語を展開しろとされていたことに白倉Pが苦言を呈して最初数話は他の星での物語になったというのを耳にしたことがあるが、そこから6年、何とSFかつファンタジーの世界観でのスーパー戦隊が誕生したのである。

 

だがそれは決して設定上だけのものではない。テレビ番組である以上、視覚的に世界観に説得力を持たせる必要があるが、新技術の導入によって『キングオージャー』はそのハードルさえも越えてしまった。東映の番組サイトでも熱心に大森Pが紹介しているアセットやLEDウォール。『ゼンカイジャー』以降度々使われてきてはいるものの、『キングオージャー』は物語の大半がセット内で完結するという、これまでからは考えられないほどに驚異的な撮影方法を用いている。新しいことを一から始めることの難しさはそれこそ番組サイトでも語られているが、実際映像で観ても「なんだこれは!」と驚いてしまえるのが恐ろしい。中世のヨーロッパや江戸時代を舞台にした五王国が見事に映像に再現されているのだ。正直、日本のドラマではまず観ないし、映画でもこれほどのスケールの作品はなかなかないだろう。それほど映像的に斬新なものが毎週放送されていたというのは本当に凄いことだと思う。

 

加えて『キングオージャー』はスーパー戦隊では初めて、TVerで放送後に配信されるようになった。この功績に関しては大森Pがネットインタビューで語っている。

xtrend.nikkei.com

 

現代は番組を観ていなくともテレビ放送後にSNSで番組の情報が出回る時代。そのような状況下で、他のドラマと視覚的に差別化された『キングオージャー』のキャプション画像が目に入り、とりあえずTVerで今週分を観てみる…という動線もあったのかもしれない。何よりTVerは無料で観ることができる。社会人になるとつい年会費を払ってAmazon Prime等のサブスクに頼ってしまうが、お小遣いで生活している学生などにとっては家庭環境次第でそれさえも難しいはず。「映像作品にお金を掛けない世代」や「録画して観る程の意欲を持たない層」に対して1週間無料でアプローチができるというのは大きな強みなのだろう。個人的にはこうした戦隊新規もしくは戻ってきたファン層が生まれたということも、感想の多様性に一役買っているのではないかと考えている。

 

と、色々語ってしまったがここまでは「前提」である。『キングオージャー』という番組は映像のクオリティの高さゆえに視覚的なインパクトを強く打ち出すことができるのだ。そしてそれは、これまでにスーパー戦隊が作り上げてきた「子ども向け番組」という固定観念をあっさりと破壊することができる力だと思っている。子ども向けや大人向けという括りにはあまり意味を見出せていない(というか視聴者が言うことではなく、作り手がターゲット層を絞る時に使うべき言葉だと考えている)のだが、少なくとも「子ども向けの戦隊ものなんて観る気が起きない」という人に対して、こうした斬新な視覚的アプローチが出来るのは強い。シリーズの存続、その目的は新規層の開拓にこそある。そのため、「今の戦隊すごそう!」と思わせるだけで収穫はかなり大きい。興味のなかった層を一旦視聴にまで漕ぎつけさせるという意味では、『キングオージャー』ほど特化された作品は今のところないと言っていいだろう。視覚的な斬新さ。これはこの番組が持つ紛れもない武器なのである。

 

実際、第1話冒頭を観た時は心が震えた。いや実際、今でも感動してしまう。「どうだすごいだろ」と言わんばかりにじっくりと五王国を見せつけられ、そのあまりの作り込みに胸が熱くなるのだ。一時停止して細かく見ると、それぞれの国の特徴が細部にまで盛り込まれているのがよく分かる。ハリウッド映画を観ているとこのクオリティのCGは当たり前かもしれないが、五王国のデザインはハリウッドのようなスタイリッシュなものではなく、ニチアサの枠組みを外れないごちゃごちゃしたものなのだ。細かいことを言うとキリがないのだが、画面がかなり楽しくなり、モチーフをとにかく散りばめていくザ・ニチアサスタイル。一般的な映画だったらこうはならないというニチアサ独自の味わいが、最新の映像技術によって表現されていることがもう面白くて堪らない。

 

ただ、「第1話冒頭を」と書いたのには理由がある。ここからは『キングオージャー』の物語について触れていきたいと思う。私がこの作品についていけなくなったのは主に物語の面であり、正直ここからは苦言を呈するパートが続く。斬新な画作りがされていた作品だからこそ、物語から受ける感動が限りなく僅かだったことがすごく残念でもあり、熱狂している人の感想がタイムラインに流れてくる度に悔しくなってしまう。間違いなくスーパー戦隊の歴史において転換点もしくは特異点になるだろうという確信を抱くと同時に、それが自分の肌に合わなかった悲しみも強く存在しているのだ。

 

 

 

 

第1話。シュゴッダムの市民だったギラが「王は道具」と言い放つラクレスに対し、邪悪の王を名乗り反旗を翻すシーン。ファンの間でも印象的な場面としてよく語られ、脚本家の高野さんもここでギラに30秒程溜めさせてからセリフを言わせたことへ称賛を送っている。だが私の頭には疑問符が浮かんでしまった。

 

いや、ここで邪悪の王を自称する理由なくない???

 

邪知暴虐の限りを尽くす悪王に対して反旗を翻す存在が「反逆者」になる構図は分かる。ギラが反逆者にされ指名手配されるという理屈も理解できる。ギラが子ども達とのごっこ遊びで邪悪の王を名乗っているというのも確かに示されている。だが、ただ国王とその側近しかいない場において、自ら邪悪の王を自称するのは、あまりに都合が良すぎないか、と思ってしまったのだ。そもそも汚名を着せられそれを受け入れるという構図は、それ以上に護りたい何かがあってこそ成立するのが基本。逆に言えばラクレスは「ダグデドにいつチキューを滅ぼされるか分からないために、機が来るまで悪王を演じるしかなかった」(ここに関しても結構言いたいことはあるが後述)ため、汚名を着せられることを甘んじて受け入れる理由が分かる。だが、1話の時点でのギラには邪悪の王を名乗る程の説得力と意味合いを全く感じられなかったのだ。その後も度々「ギラは本当は優しいのに意味もなく悪ぶってしまう人物」というのが描かれるのだが、その根拠の乏しさにどうにも物語への没入感が削がれてしまった。あの場でなら「何が反逆者だ!うるせえ!」とラクレスに殴り掛かるくらいが普通な気がする。その殴り掛かった部分だけを切り取られて国民に放映され汚名を着せられたギラが、「いつでもコガネ達を消せるんだぞ」等とラクレスに脅された結果、邪悪の王を名乗る…という話運びなら分かるのだが、民さえもその場にいない状況、つまりは文字通り悪しかいない状況で自分が悪だと喧伝するギラが全く分からなかった。リアルタイムではちょっとした違和感だったのだが、改めて全話観るとこの1話の歪さが際立って見えてしまい、作品の、そして主人公のコンセプトを決める上でも非常に大事な場面であったがために本当に勿体なく思う。何より、「ああ、ギラを反逆者にしたいんだな」と、作り手の意識だけが透けて見えてしまった。

 

第1話から第5話までは各国の紹介も兼ねて、王様5人それぞれの物語が描かれる。それと同時に、ラクレスによってギラが指名手配され、五王国の王様がそれぞれギラと関わっていくことになる。『キングオージャー』は1話完結であることは滅多になく、スーパー戦隊には珍しく連続性の高い作品であるのだが、それは既に序盤から示されていた。五王国の紹介に留まらず、ギラの処遇やギラの正体、そしてラクレスの野望に加え、バグナラクの暗躍など、多くの物語が同時に展開されていくのだ。更には真意の読めないカグラギによって、話は更に複雑になる。出てきた怪人を倒すというこれまでの戦隊フォーマットから大きく逸脱したプロットはやはり斬新だと言えるだろう。だが非常に読み解き辛い上に、物語が複雑性を増して理解が追い付かなくなっていく。何より、キャラクターの動線がこの時点で既にほとんど機能していないように思えてしまった。

 

ラクレスを討ち倒したいギラは、指名手配され連行されることを望んでいる。つまり捕まってシュゴッダムに送還されるほうが早いのだ。にも拘わらず、別に王様達にそこまで監視されているわけでもないのに、何となく世界観光をしているギラがまるで理解できない。とっとと帰ってラクレスを倒すべきではないのだろうか。王様それぞれの個性がしっかりと炸裂しているだけに、ここについても「王様一人一人を見せていきたいんだろうな」という意図ばかりが先走って見えてしまう脚本を残念に思う。何ならキングオージャーを唯一動かせる人物なのだから、自分でいつでも帰ることはできるはずなのだ。それなのに特に目的もなく他の王に連れられて街ブラを楽しんでしまう。この時点で、ギラお前は何を考えているんだ…と私にはギラという人物が分からなくなってしまった。そして第5話、王様達の捜査によって、ギラがシュゴッダムの王子でありラクレスの弟だということが明かされる(実際には児童誌か何かで先にギラ・ハスティーというフルネームが明かされていたらしいが…)。主人公が王族であり、倒すべき因縁の相手の弟というのはかなり衝撃的な事実…のはずなのだが、この種明かしが種明かしで終わってしまっているのも非常に残念。

 

ギラが弟だと聞いてまずこちらが思い浮かべるのは、「なぜギラはそれを覚えていないのかorなぜ言わなかったのか」だろう。これについては幼い頃に食べさせられたレインボージュルリラの副作用によって凶暴化し記憶が失われたということが後々明かされる。だが、その時のギラ自身は「なんかラクレスに励まされた時のことは覚えてる」(by決闘シーン)くらいのノリで済ませてしまう。普通なら「なぜ僕はそれを知らなかったんだろう…」という流れになるし、仮にギラが天然だとしてもリタ達が「どうして言わなかった?」となるはずである。それと同時に、キングオージャーを動かせるギラの奪取は、それぞれの国力増強のために五王国の王様としても悲願だったはず。ギラがシュゴッダムの王家だと分かれば他の国王達は迂闊にギラを手に入れることが難しくなる…なんて動きも想像できるのに、その一切が『キングオージャー』という番組には存在していない。

 

私にはこれらが、「ギラはラクレスの弟だった」と言いたいだけの展開に見えてしまったのだ。主人公が宿敵の弟という展開は確かに燃える展開になるパターンだが、『キングオージャー』自体はその衝撃度を描写していないように思う。もちろん、それによりギラが罪人ではなくなったという一応の決着はつくのだけれど、ラクレスの弟であると判明したなら、もっと物語に動きが出てもよくないか?と思ってしまうのだ。もちろんこれが気にならない人はきっといるだろうし、私の考えを番組に押し付けているだけとも言えるかもしれない。ただ『キングオージャー』はこういったように「こっちが想定しているもの」をかなりハズしてくることが多いのである。あくまで個人の感想ではあるが。

 

その後、確か第6話で、ラクレスが秘密裏にもう一体のゴッドクワガタを作っていたことが明かされる。つまりギラの特権であったキングオージャーを操る力を、ラクレスも自由に扱うことができることが分かった。これによりシュゴッダムは他の国に比べて、軍事力の面で一歩リードした形になる。他の国は一刻も早く対策を立てなければならない状況に陥った…はずなのだが。バグナラクを打ち倒したキングオージャーが、ギラと手を取り合ったゴッドスコーピオンに攻撃されたことで、ギラは遂に民にも悪人扱いされてしまう。何故ゴッドスコーピオンがそのような攻撃をしたのか…と謎を残し、第7話へと突入する。いや、ちょっと待ってほしい。まずはラクレスが動かしたキングオージャーのことをやってほしいのだ。これはスピンオフで触れられているからとか、そういう問題ではない。その場に居合わせその事実を知ったキャラクター達の心情を捉え、動線を引いてほしいという意味である。

 

 

 

 

確かにゴッドスコーピオンの攻撃(余談だがゴッドスコーピオンの毒、マジで色々な状況で武器として使われてるの悲しすぎる)ですぐに分解できる程度の合体ではあったが、シュゴッダムが秘密裏にシュゴッドを作り出していたというのは他の国王にとってはかなりまずいことなのではないのだろうか。何より当の本人であるラクレスはシュゴッダム及び全世界を支配しようとしている(少なくともこの時点ではそう思われている)のだ。そんな奴が自分達のロボを自由に操れるかもしれないというのはかなり恐ろしい状況と言えるだろう。それなのに第7話では、ゴッドスコーピオン(サソリーヌ)がどうしてキングオージャーを攻撃したのかが話の核になる。6話のラストではもう一体のゴッドクワガタに対して「お前誰だ!?」とまで言っていたギラも、反逆者扱いによってコガネ達との物語を展開してしまう。カグラギとリタがこの事態の危険性に言及する場面(ラクレスはゴッドクワガタを作っていたから同盟を破ったのだろうと気付く)もあるのだが、第7話は何故か傷ついたシュゴッドを修理するか治療するかで対立するヤンマとヒメノの物語になる。

 

もちろんこれが悪いことではないし、シュゴッド達を救わなくてはというのも分かる。そしてゴッドスコーピオンがどうしてこんなことをしたかという話をやるのも別に大問題というわけではない。ただ、優先順位がどうしても歪なのだ。リタとカグラギが状況に危機意識を感じて動いたのなら、ヤンマやヒメノの立場がない。何より視聴者の意識も「あのゴッドクワガタの正体は!?」という方向に向いていてそれを捜査することがキャラクターの動きとして全く違和感のないものなのに、そうしようと努める存在が皆無なことに、どうしても「作り手の存在」を感じてしまう。おまけにギラはコガネ達を人質に取られ、決闘裁判を強いられる。この場面も形だけ見たら直接的に民に寄ってきた分、カグラギやリタのほうがラクレスより悪人に見えなくもない。オオクワガタオージャーの販促もあるだろうし、これからも度々起こる兄弟対決の第一戦として第8話が重要なのはよく分かる。よく分かるのだけれど、一方で作劇自体が「決闘裁判をやるために強引に物語が進められている」と感じてしまうのだ。もちろんそれをスピーディーな展開と捉える人もいるかもしれないが。

 

そして第8話では決闘裁判が行われるのだが、これに関しては王様達が出来レースを企てていた。ゴッドスコーピオンの毒をカグラギからラクレスに渡しておき、ラクレスならこれを使って卑怯な手で勝とうとするだろうと考えたのである。目的は「ギラを死んだことにする」ため。カグラギ達がラクレスと話し合った時にはゴッドスコーピオンが仲間かどうかもまだ判別がつかなかったのにこの手を使うのはどうなんだろうという歪さもあるが、ギラにとっての一大対決であるはずの展開が、実は仕組まれていました~というのは肩透かしに思えてしまった。ギラにとっては人生を変え、一国を変える程の対決であるのに、それが王様達の策略に過ぎず、何よりその策略さえもバグナラクの介入で狂ってしまう。結果的に崖から落とすだけなら別に毒のエピソードは一切いらないだろう。もちろんそれによってラクレスがギラの死体捜索に躍起になるのだが、それ自体もお前急所外してるしそもそもギラを殺す気ないのだから別にいいだろ…と思ってしまうのだ。構成が無駄に複雑になっているというか、毒を使うなどという変な前提に拘るのであれば、きちんとギラとラクレスの心情をクローズアップしてほしかったというのが本音である。何より、ラクレスは何か真意がありそうだしカグラギも本音は分からないし物語は重要そうなことを保留にするしで、真面目に向き合うことが難しくなってしまった。「どうせ衝撃の事実っぽいことを出して、こちらの裏をかこうとしてるんだろうな」と、作り手を信用できなくなってしまったのである。

 

本来のスーパー戦隊は毎週必ず怪人を倒すというノルマを課すことで複雑な動線を一本にまとめることができていたのだが、フォーマットから逸脱した『キングオージャー』は、逸脱だけではなくキャラクターの言動が今後の展開を示唆する「含み」なのか脚本上の「欠陥」なのかも判別がつかないままに、とにかく強引に話が進められていく。各話に触れていくとキリがないが、「主人公が王家の血筋」「宿敵が兄」「悪(バグナラク)は本当は悪ではなかった」「ギラはラスボスのダグデドによって作られた存在」「悪役を演じ続けていた男」「全員参加のクライマックスバトル」などなど。これら本来エモーショナルにできる場面が、ことごとく積み重ねのないものでスベっているように私には見えてしまったのである。もちろん事前に考えていた設定もあるのだろうけれど、『キングオージャー』はその一つ一つに焦点を当てる時間が少ないままに、衝撃度が高そうな事実や展開ばかりを披露していた。視聴者である私達は『キングオージャー』で初めてフィクションに触れるわけではないはず(子どもの中にはそういう子もいるかもしれないが)。そのため「宿敵が兄」などの要素は確かに辛く苦しいものに見えるし、例えば作品を知らない人に対して「主人公が倒そうとしてるのは実の兄なの」と説明したら、悲劇的な物語を連想してくれるだろう。だがその悲嘆をゼロから生み出せるだけの積み重ねは、『キングオージャー』には存在していない。例えば孤児院で育ったギラ(そもそも誘拐ってなんだよとは思っているが)がずっと家族との再会を夢見ていた…という設定があれば、倒すべき敵が兄であることの重みは生まれるし、まして自分を生んだのがダグデドだったと知った時の衝撃はかなりのものだろう。何ならそこから、両親を殺されたヒメノや妹を溺愛するカグラギ、母親想いのジェラミーとの関係性も「家族」を軸として紡ぐことができるかもしれない。それなのにこの作品は「ギラはラクレスの弟でした!」「ギラはダグデドに作られた存在でした!」とただ設定を語るのみに留まっている。弟だったから無罪になった、ダグデドに作られたからシュゴッドの言葉を理解できた、という「納得」は生まれるが、そこに「感動」を見出すことは私にはできない。

 

これはあくまで私の見方なのだが、物語というのは受け手の心情をどれだけ丁寧に誘導するかがカギだと思っている。「衝撃の事実」として種明かしをするのなら、事実を開示するだけでなく、そこに感情を肉付けなければならない。キャラクターの感情がなければそれはただの「事実」でしかなく、「衝撃」は生まれないのである。すごく簡単な例にすると、「自分の親友と自分の妹が付き合っている」と知ったら誰しも衝撃を受けるだろう。しかし「自分の知らない隣の県の学校の〇〇さんと△△さんが付き合っている」と聞かされても、誰も興味は持てないはずだ。その「隣の県」を如何に「親友と妹」レベルの距離へと近づけられるかどうかが、事実に衝撃を付与していくということなのである。

 

そういう意味で、『キングオージャー』は事実や設定の開示にばかり注力し、それにより各登場人物の考えがどう変わるかをほとんど描かない、もしくは描いていてもあまりに積み重ねが足らない。おそらく作品で最も力を注がれていたであろう「ラクレスは実はダグデドを倒すために邪知暴虐の王を演じていた」という設定も、辻褄合わせこそできているものの、感情移入することは一切できなかった。似たような設定で『ハリー・ポッター』シリーズのスネイプ先生を思い浮かべる方も多いはず。ハリーに常に嫌味を投げ掛けるスリザリンの担任だが、実際にはハリーの母親を死後も愛し続け、彼女の息子であるハリーをずっと見守り続けていたということが終盤で明かされる。これが感動を生むのは、スネイプがハリーを実際にずっと虐げてきたという土台を積み重ねてきたからこそだろう。時にねちねちと嫌味を言い続け、時にハリーを貶めようとしているように思えた彼の言動が、実は全て彼を守るためのものだったと明かされたからこそ衝撃度は大きくなる。しかしラクレスは最悪の王とレッテルを貼られながらも、直接的に人の命を脅かすようなシーンは本編ではほとんどない。民を道具と言ってはいたし、民のピンチにも出動しないことがあったし、ンコソパが侵略されたりもしたが、正直シュゴッダム国王としてはそこまでの邪悪さはなかったと思う。もっと言うと、ラクレスがダグデドを倒すことを決意し、悪に身を落とすことを考えた理由も、「神の怒り」の一辺倒で片付けられ、ラクレス個人の重みが存在していないのが残念であった。両親を殺されたようなものなのだから、普通に両親の仇でよかったと思う。

 

この「設定に重きを置く」タイプの作劇は前作の『ドンブラザーズ』の脚本を手掛けた井上敏樹さんのスタイルとは真逆なので、『ドンブラザーズ』に心酔していた私が『キングオージャー』にハマれないのも必然なのかなと若干は考えている。最悪積み重ねはなくてもいいのだけれど、『キングオージャー』は事実開示後の物語の展開も非常にこじんまりとしている。ダグデドを倒すためにラクレスは民を虐げてまで悪王を演じてきた…のならば、ダグデドが復活してしまった時に彼が感じる衝撃はもっと大きなものなのではないだろうか。バグナラクは歴史によって悪にされてきたと知ったのならば、ジェラミー以外の全員が、自分達がこれまでバグナラクを倒してきたことに何かを感じたりはしないのだろうか。まるで「出したら終わり」というような設定の出し方が凄く不親切なように思えたのも、私がハマれなかった一因だろう。物語の設計図を眺めているような感覚というか、未完成品を観ているような感覚に陥ってしまったのである。

 

ここまで物語の「設定」について話したが、次はもっと根本的なことに触れていきたい。それは簡単に言えばシリーズにおける独自性についてである。スーパー戦隊シリーズは第47作目だが、毎回手を変え品を変え、自分達のカラーを打ち出してくる。そしてそれは往々にして作品コンセプトとマッチしている。忍者、恐竜、車、列車。様々なモチーフが存在する中で、『キングオージャー』が選んだのは「王様」と「虫」。架空の惑星を舞台に全員が一国の王であるという斬新な物語設定と、意外にも単体でのモチーフは初めての虫。今考えると女性キャラクターにカマキリをあてがう辺りもかなり冒険だなと思う。そして虫の王道であるカブトムシを敢えてヒーロー達から外してくる辺りも潔い。何より、虫モチーフは仮面ライダーの十八番であるにも関わらず、堂々と打ち出してくるのだからすごいものである。ただ、正直『キングオージャー』は虫とはあまり関係ない物語なので、虫に関しては割愛させてもらいたい。ちなみに、虫はそのままだと嫌悪感を持ってしまう人もいそうなため、機械で改造された虫型の守護神をロボとして出したのはかなり正解だなと思っている。それをヤンマ1人でやりましたというのはちょっとパワーバランス的に驚きだが。

 

私が言いたいのは、王様のほう。そう、「お前ら王様の器じゃなくね?」問題である。もちろん作品内で彼等は幾度となく王様であることを強調し、民のためだと言って行動し、悪を討ち滅ぼそうと励んでいる。実際彼等は紛れもなく王の地位に就いているのだが、果たして王とは何なのだろうか。民主主義の国に生まれた私達日本人にとって王様というのはあまり馴染み深い概念ではない。唯一カグラギは大殿様だが、江戸時代を体験していない私達にとっては他の国とそう変わらないだろう。だからこそ、王という身近に居ない存在をモチーフにする英断は素晴らしいと思う。だが、王の話をする上で彼等が何故王なのかと問われた時、「王の器があるから」ではなく、単に「前の王に認められたから」で大概のメンバーが済ませられてしまうのはかなり苦しかったと言える。そして何より、「王様戦隊」を自称しながら、この物語は民の存在が希薄なのだ。

 

『キングオージャー』では第1話から「王が国を守ってくれるから民が身近な人々を守ることができる」というセリフが語られる。この視点は非常にいいと思ったのだが…どうやらこのセリフは「民一個人を守るのではなくあくまで国のことに目を向ける」というような意味で使われていた節がある。いや、そうではないのだろうけど、そうなのではないかと邪推してしまうほどに、『キングオージャー』における「王様」という概念は残念な描写に留まっている。というのも彼等の多くが、民意が反映された結果での王ではないのだ。ヤンマはンコソパを立て直した実力者として周囲に認められている節がある。カグラギもイロキを倒した功績が認められたと言えるだろう。しかしそれ以外のメンバーはあくまで「前王から認められた」だけである。ヒメノは両親の死によって仕方のない就任ではあったが、どちらにせよ民意が反映されたとは思えない。彼等は年齢もかなり若いし、政治に長けたわけでもない。むしろ王様らしくない一面ばかりが強調されている作劇が多かったと言えるだろう。何より、打倒ラクレスや打倒ダグデドに関しての意見交換や対立をすることはあっても、自国のことは特徴くらいしか語らない。

 

彼等と民とが直接対話する場面があまりに少ないため、こちらは王としての振る舞いを想像することしかできないのだ。もちろん実際の歴史においても民が王に近づくことなど難しかったのかもしれない。しかしそれでも、フィクションで王様をやる以上は民を描くことが重要である。その上で『キングオージャー』の民の描き方はかなり一面的だった。ゴローゲが大きい声で何かを叫ぶだけでシュゴッダムの民の心情は一意に決まり、民意はよからぬ方向へと流れていく。ギラが反逆者という設定を際立たせるための装置でしかないのである。最初こそゴローゲのキャラクターを面白がっていたのだが、段々とゴローゲの一言で全てが決まるこの民達に嫌気が差してしまった。そして民を描かないということは即ち王を描けていないということでもあると言える。彼等は人の上に立つ器かどうかということを気にせず、前線に赴く。それを「迷いのないかっこいい王様」と好意的に解釈することもできるのだろうが、独善的で時に自分の国の崩壊(ンコソパ崩壊後にヒメノの結婚相手に立候補するヤンマなど)さえ招いてしまう彼等が、人の上に立つことは許されるのか?という方向に気持ちがいってしまった。もっと簡単に言うと、こんな人達が自分の国を支えていると思った時に不安しか感じなかったのである。

 

もちろん王鎧武装できる時点で脅威から民を護る能力は保有しているのだけれど、実際王様が果たす役割というのはそれだけではないはず。民の生活のために様々にできることがあるはずだ。ギラなんかは孤児院育ちなのだから、孤児院の環境を整えるとか。そういう、民に寄り添った話をもっと展開していってもよかったのではないだろうか。『キングオージャー』は結局敵との戦いへの比重が大きく、正直彼等の自称する「王様」という肩書が非常に形骸的なものに感じられてしまったのである。王になる物語だと言っていたのに、単に悪い王様を倒せば王になれるというのは何だか違和感がある。まして前王が最悪の王だったのだから民の目も厳しいものになっているはず。それなのに敵を倒せばそのまま王になるギラ。元々王子だったとはいえ、あまりに民意が画一的すぎるのではないだろうか。もちろん王に対して異を唱える存在が全くいなかったかと言われるとそういうわけではないのだが、彼等が王を名乗るに値するほどの描写はなかったかなと思う。

 

何より、五王国それぞれの王様という壮大な設定なのに、結局やっていることは頻繁に集まって敵を倒す作戦を企画するという、「いつものスーパー戦隊」になっていることが気になった。当初は自国の利益を優先する王様達が気持ちを一つにするなどありえない、みたいなコンセプトがあったと思うのだが、大きな脅威を前にそうも言ってられず、カグラギがたまに暗躍しているというくらいで、戦隊としての方向性はかなり一致してしまっていた。もちろん医療やインフラといった各国の特色は出ているのだが、私は正直彼等が王様である必要は全くなかったように思う。むしろ王国はシュゴッダム1つにして、王子、技術班長、医療班長、裁判長、交渉人くらいに分けるくらいが妥当だったかもしれない。それなら自然とラクレスに反旗を翻す「反逆者」の構図も効いてくる。もちろんたらればの話をしても仕方がないのだけれど、5人が王様である必然性が私にはまるで感じられなかった。

 

それぞれが王様というのなら、国交的な問題をもっと抱えていてほしかったのである。例えば国交が断たれれば自国が苦しむことになるため4人の王様達はラクレスに反逆することができずもどかしい思いをしていたものの、反逆者ギラの登場で一気に風向きが変わっていくなど。5人の気持ちがなかなか一つにならないというのは、戦隊メンバーが現実に全然揃わないという話をやっていた『ドンブラザーズ』と似通ってしまっているし、実際気持ちがなかなか重ならないというのもほとんど描写されなかった。個性が強いからバラバラになってしまうというのは個性同士を擦り合わせた結果によって見えてくるものであって、「彼等は自国のことしか考えていないので気持ちがバラバラなんです!」というのをそのまま出されても言葉に詰まってしまう。何よりそのバラバラを解消していくのがスーパー戦隊の醍醐味であったはずが、バラバラを強く打ち出してきた上で割と早い段階で5人の密談パートが常に挿入されるようになってしまったのは本当に勿体ない。前述もしているが、これもやはり「積み重ねが足らない問題」と同じである。彼等は王様であることを言葉で殊更に強調するものの、じゃあ結局王として何をしてきたのかという背景が「ラクレスやダグデドを倒す算段をつけてます」しかないのである。

 

ただ民を描かない分、側近達の存在が非常に価値あるものとなっているのはとても良かったと思う。脚本家の高野さんはMOOK本で「側近のキャラ付けまで任されて大変だった」と語っているが、実際キャラクターの立て方に関しては文句のつけようがないほど上手いと言えるだろう。王様達が何となく相談できる相手として身近な存在がいるというのはとても心強いし、リタとモルフォーニャなんかは特にうまく機能していた。逆に言えば側近さえいなければもっと王達が城下に赴いて自国のトラブルを片付けるような話も観られたのかもしれないな…と残念には思うのだが、それでも側近と王様との物語や関係性には結構好きな部分が多い。

 

とはいえそんなに身近な人物との対話で事足りるというのであれば、尚更彼等が王様である必然性に欠けると言えるだろう。私は先日まで「この番組はもう王様というかただのヒーロー番組と変わらない」という印象を持っていたのだが、最終回前日の高野さんのインタビューによると「王様だからヒーローになっちゃいけない」というのを掲げていたらしく、この乖離が楽しめなかった原因か…とも思った。

 

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「王様だから時にドライな選択をすることもある」とも仰っているのだが、そのドライな選択に関して全く理由付けがされていないことが多々あったなと私は感じている。LEDウォールのおかげで見応えは例年と異なるものになっていたが、実際6人がシュゴッダム等で計画を練っている辺りは例年とあまり変わらないというか。むしろその掛け合いに遊びの要素が少ない分、少々劣化しているような手応えさえあった。

 

次は「テーマ」について述べていきたい。私は多少つまらない作品でもその作品が訴えるテーマに共感する部分があれば結構好きになれるのだが、『キングオージャー』には正直、一年を通じてのテーマが一切感じられなかった。というとさすがに直球なので他作品の例を示していきたいと思う。例えば宝石をモチーフにした『魔進戦隊キラメイジャー』は、誰しもが自分のやり方で輝けるということを説く物語だった。『機界戦隊ゼンカイジャー』は並行世界をギアで閉じていったトジテンドに対し、何事も全力でぶつかるヒーロー達が可能性を開いていくことの喜びを訴えてくれていた。『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』は、御伽噺の桃太郎のようにめでたしめでたしの大団円を迎え、桃太郎とお供という関係性から人と人との縁を描いていた。では、『キングオージャー』はどうだったか。

 

ヒーロー特撮においては、訴えたいテーマを正義側の主張とし、それの反証という形で悪を設定するというのがオーソドックスな形である。その意味で言うならば、『キングオージャー』の巨悪であるダグデドは、人を殺し宇宙を滅ぼすことを「遊び」としてしか捉えていないというキャラクターで、それに反するテーマが王様達の掲げるもの、つまりは作品のテーマとして浮かび上がってくる。しかし、こない。『キングオージャー』はあくまで民を守るために戦っているだけであり、ダグデドとの対立は結果的なものでしかないのである。実際「遊び」で人を傷つける敵というのは過去の特撮でも何度か登場している。『仮面ライダークウガ』では殺人ゲームを楽しむ怪人との戦いを通して「非暴力」が訴えられていた。『動物戦隊ジュウオウジャー』でもゲームとして星を滅ぼす存在が悪として設定されている。

 

とはいえ、すぐに「テーマはない」とするのは早計なため、もう少し考えてみたい。ダグデドの特徴を「遊び」とするならば、反するテーマは「責任」などではないだろうか。確かに王という立場に伴う責任は相当なものだろう。しかし『キングオージャー』は前述した通り王様である必然性が薄く、言葉では色々と口にするものの「責任」を訴えるほどの論拠を示してはいない。もう1つ『キングオージャー』の特徴として挙げられるのが、「反逆」である。君主に背き信念に従うその強い意志を描いている…と言えば聞こえはいいかもしれない。実際OPの「全力キング」の歌詞にも「反逆者」という言葉が使われていることから、このコンセプトはかなり初期段階から物語に組み込まれていたと考えて差し支えないだろう。だがこの反逆者という肩書も、前述の通り私はうまく呑み込めていない。それに何より、「世間で正しいとされている風潮に負けず、自分の道を突き進もうぜ」というように反逆という言葉からテーマを連想するにしても、『キングオージャー』はそういう話ではなかったように思う。

 

などと最終回放送前日まで考えていたのだが、最終回の訴えとして『キングオージャー』がピックアップしたのはダグデドの「不死」の部分だった。この作品では終盤からやたらと不死能力者が続出したが、死なないことよりも限りある命を燃やし尽くすことの素晴らしさを説くオーソドックスな着地。ただ、少し前のヒメノとジェラミーの話でもうそれは終わっていたような気もする。ダグデドだけでなくグローディも不死だったのがややこしい。

このテーマ自体は国民的作品となった『鬼滅の刃』も同じことを言っているが、正直『キングオージャー』にとってはとってつけたようなテーマだなと思ってしまった。物語の中で命の儚さや多様性はほとんど訴えられてこなかったのに、終盤になっていきなり概念が生えてくる。物語の結末をどうするのかが気になっていたのに、こんなに不誠実な形で綺麗事を訴えられるのは本当にキツかった。先に紹介したインタビューで高野さんは「子供向けだからこそ、綺麗事が本気で言える」と語っていたが、それは違うと思う。対象年齢に関わらず、物語を紡ぐということは訴えたいことに説得力を生むことでもあるはずだ。むしろヒーロー番組というのはヒーローが絶対正義であるというパターンが多い以上、一般的な作品よりも綺麗事を言わせることに対して敏感でなくてはならないのではないだろうか。ヒーローという立場から耳障りの良い台詞を吐かせることが簡単にできてしまうからこそ、その言葉に整合性を持たせ重みをつけていくことが重要なはずだ。もちろんこれは一個人の意見なので価値観の違いでしかないのだけれど、実際に最終回を観て出てきたものが本当に「綺麗事」でしかなかったので驚いてしまった。多様な価値観を認め合える世界についての希望を最後のジェラミーのナレーションで語ってもいたが、理由も大して説明せず王が民に命を差し出させ、それにあっさり従う民という画一的な構図の後に多様性を説かれてもな…と辟易してしまった。ただそういう節操のなさこそが『キングオージャー』の魅力なのかもしれない。

 

しばらく考えたのだが、結論として私の中では「『キングオージャー』は物語の進行を楽しむ作品であって、明確なテーマは存在しない」というアンサーに至った。最終回で一応の着地はできたのかもしれないが、1年を掛けてこれを表現してきたのだなあという大きなテーマは感じ取ることができなかったのである。色々なインタビューにも目を通したのだが、設定やキャラクター、脚本や映像表現に関しての話が多く、この物語が何を言いたいのかという根本的なことにはあまり触れられていなかった。むしろ「ここにはこう書いてありましたよ!」というのがあったら教えてもらいたい。テーマが明確になることで番組への解像度がぐっと上がっていくということがニチアサには往々にしてあるからである。

 

不死というキーワードが終盤度々使われており、敵と王様達を対比させる構図が全く存在していないというわけではないのに、メインテーマとしてその対比が驚くほど機能していないことが残念でならない。何なら五道化が登場した時にはダグデドも含めてキングオージャー6人とそれぞれを上手く対比させて物語を進めていくのかと思っていた(丁度五道化それぞれが王国を支配してもいたし)。それなのに全くそんなことはなく、五道化とキングオージャーが因縁を作るでもない上に、倒される時には下級怪人と同じくらいの扱いであっさりと倒されていく。「俺の国を壊滅させやがって!」でもう因縁はできるし強敵を倒すカタルシスも充分に生まれるのに、それを敢えてハズしてきたのはさすがに驚いてしまった。もっと言うと、グローディが大体の元凶であるのもちょっと比重がよく分からない。何なら最終回でダグデドが急に弱くなったように思えてしまったし、不死を倒す力が既にオージャカリバーに宿っているのに、ダグデドを倒すロジックとして民から命をもらって巨大なキングオージャーを完成させようというのも全く分からない。ダグデドが巨大化するかはもうダグデド次第としか言いようがないのに、それがキングオージャーの作戦の根幹に据えられていて、それが完成しないからこそ民達だけ逃がそうとしていた…?目頭を熱くした方には申し訳ないが、私には理論が全く理解できなかった。そしてその疑問は当然、感動を妨げる要因となっている。

 

とはいえ物語には絶対にテーマが必要というものではないし、何より『キングオージャー』はキャラクターの個性が格段に強い。おそらくそれを踏まえての「多様性」への着地でもあるのだろう。そのキャラクター達の心の動きが私には時折理解できなくなり視聴意欲をごっそり持っていかれてしまったが、ああいうメリハリの利いたキャラクターが魅力的に映るというのは私にも分かる。何より高野さんの脚本は名乗り口上のようなセリフが良い。五音や七音を巧みに使い、つい口にしたくなるような、何かの歌詞から抜き取ったかのような素敵な表現は聞いていて非常に心地が良かった。だからこそ、そういう口上を普段からサラリと出せる一話完結型のいつもの戦隊フォーマットのほうが輝いていたのではないか…とも思うのだけれど、それはまたいつか未来に期待したい。

 

という理由で自分にはこの作品が全く合わなかった。本当にここまでスーパー戦隊が合わないということは初めてかもしれない。仮面ライダーでも微妙に感じてしまった作品は多いが、それらを超えるくらいにハマれずかなり動揺している。ただ、47作もあれば自分が置き去りにされることもあるはずで、それは『キングオージャー』が最終回で言っていた多様性にも繋がってくる。シリーズ全てが自分の趣味の範疇に収まるとは思っていないし、むしろ遠ざけたいくらいの作品が存在することこそがシリーズの存続には不可欠なのである。それに『キングオージャー』は実際熱狂的なファンも生み出している。コンテンツを支えてくれている人々がちゃんと感動できているということは、届けるべき層には届いたということだろう。それはファンを裏切らないという意味で素晴らしいことであり、独自性を貫いた姿勢は本当に素晴らしいと思っている。それと同時に、この祭を外から眺めることしかできなかったのが非常に悔しい。

 

何より映像表現においてはシリーズにおける革命が起きているし、今回培ったノウハウはこれからも戦隊やライダー、更には邦画界を盛り上げるきっかけになるかもしれない。そういう意味でやはり『キングオージャー』はシリーズの転換点もしくは異色作になるであろう可能性を多分に秘めており、簡単に「つまらなかった」で済ませられない何かを持つ作品なのである。スーパー戦隊がこんなにスケールの大きな作品に挑戦したという事実は、後続の作品に大きな影響を及ぼしていくだろう。撮影技術の進歩は視覚的な変化だけでなく、スケジュール調整などの面でも役立ち、コンテンツに新たな展開を生むきっかけにさえなってくれるかもしれない。

 

そして最後にとってつけたように言うのは少し卑怯かもしれないが、私は第28話「シャッフル・キングス!」がかなりツボにハマった。この回だけは戦隊史上屈指の面白さと言ってもいいかもしれない。スーパー戦隊ではお馴染みの入れ替わり回なのだが、6人全員の演技力と解像度が高すぎる。カグラギ入りのヒメノを演じる村上愛花さんの豪胆さにとにかく笑ってしまった。普通こういう回なら女性の精神が入った屈強な大男であるヒメノ入りカグラギが面白くなっていくはずなのに、村上さんの演技力が突出していてとにかく面白いのである。リタとヤンマもそれぞれ特徴を捉えていて、きっと役者陣はたくさん話し合ったのだろうなと現場の暖かさを感じることができた。そしてジェラミー入りのギラを演じる酒井大成が凄い。いつもニコニコしているジェラミーの表情の完コピが素晴らしい出来栄えで、イジっているのではないかというくらいに絶妙なツボを突いてくる。もうこのモノマネが6人の中で鉄板ネタになっているんじゃないかというくらい面白いから不思議だ。この第28話だけは役者陣の演技力の賜物で途轍もない出来栄えなので、絶対に後世に語り継いでいきたい。何なら第2部はずっと入れ替わりでもいいというくらいハマっていた。

 

最終回を迎えたが、『キングオージャー』の物語は4月に予定されているVシネクストへと続いていく。『ドンブラザーズ』が関わっていながら井上脚本でないのは残念なのだが、『キョウリュウジャー』に関しては竜星涼や飯豊まりえまで揃うというのだから、リアルタイムで観ていた人間としてさすがに期待せざるを得ない。複雑な思いを抱き続けた1年間だったが、それでも1年間毎週観ていれば愛着も湧く。数年後には懐かしくなってまた視聴するかもしれないし、その時には今と違った角度で観ることができるかもしれない。何はともあれ、1年間本当にお疲れさまでした。

 

 

 

 

 

映画『身代わり忠臣蔵』感想 めちゃくちゃ笑った首ラグビー

数か月に一度公開されるコメディ風の時代劇映画がかなり好きになってきている。直近だと神木隆之介の『大名倒産』だろうか。戦が云々という血生臭い話よりも会話劇の面白味に注力したり、展開のテンポが早かったりと、時代劇に馴染みのない若者にも受け入れてもらえるようにという努力が垣間見えるし、実際それが自分にはとてもハマっているような気がする。私は時代劇が地上波で覇権を取っていたような時代に生まれていないし大河ドラマを観る習慣もないので本当に歴史ドラマに疎い。忠臣蔵についてもこの映画で赤穂浪士のことだと知った。単語自体は聞いたことがあっても、それが歴史上のどの出来事なのかを結び付けることができていない。きっと上の年代なら忠臣蔵と聞いただけで題材にした代表作をいくつも挙げることができるのだろう。何なら『身代わり忠臣蔵』と聞けばある程度この物語の筋を理解できてしまうのかもしれない。

 

ひとまず原作をと思い、土橋章宏先生の小説を読む。『超高速!参勤交代』もタイトルだけは知っていたので、界隈では有名な方なのだろうなあと何となくフワッとした先入観を持って読んだ。思えば時代小説を読むのは初めてかもしれない。そこで忠臣蔵赤穂浪士の物語だと分かり、ネットで忠臣蔵の基礎知識を入れながらも1日で読破してしまった。素直に面白い。重要な登場人物のうち2人が女好きということもあってちょっと下世話な部分が多いかなという感想は抱いてしまったが、結果的に対立する立場にあった2人の友情の物語へと帰結していく様は読んでいて清々しかった。歴史上の出来事を基にした作品は史実をどう解釈するかという点も大きなポイントだと思うのだけれど、赤穂浪士についてほとんど知らない私でも、これがかなり大胆な作品であることは分かった。吉良上野介は実は最初に死んでおり、身代わりだった…というのは、忠臣蔵をよく知る人々にとってはとても目新しい導入なのだろう。

 

正直映画館でリラックスしながら2時間近く過ごせればいいかなという軽い気持ちで向かったので、実際映画を鑑賞してかなり驚いた。原作と…全然違う…!!!しかもエンドクレジットを見れば脚本も原作の土橋先生が担当している…!原作にかなり大胆なアレンジを加えたなあこっちのほうが好みかもなあ映像向きだなあなんて思っていたら、アレンジどころか本人が映像化への最適解を導き出していたとは…。

ネットを漁ると、正に映像化するに際してのあれこれを土橋先生が語っているインタビューが見つかった。

screenonline.jp

 

ちょっとご時世もあって安易に原作とか脚本だとかを引き合いにだすことが躊躇われるのだけれど、私はこの『身代わり忠臣蔵』はかなりすごい映像化作品だなあと思う。小説では2人の友情が文学的なものに感じられたが、映画を観るとしっかりとエンターテインメント性が強固なものになっている。映像的な面白可笑しさも加わっているし、物語の筋もだいぶ変わっている。更に言えば主演のムロツヨシのおかげで全体的に柔和な空気感が醸し出され、人を殺すか否かという物騒な物語であるにも関わらず、コメディとしてとても面白く観られるのが素晴らしい。ムロツヨシといえばアドリブという印象だが、その良さがかなり引き立っていたのではないだろうか。

 

原作では孝証よりも先に永山瑛太演じる大石内蔵助が相手の正体を知ることになる。しかしそれも切りかかった最中のことであり、直後には2人で話し合い事の真相を共有する運びに。その結果、亡くなった吉良本人の遺体を使って仇討ちを成し遂げたことにしてしまおう…という形で物語が進んでいく。もちろん当日大石が少し出遅れるなどのアクシデントはあるものの、この約束が果たされるか否かという点に焦点が絞られていた。

かたや映画では孝証のほうが先に大石達の正体を知り、仇討ちの可能性が濃厚であることに気付き怯える描写が生まれている。そして原作に存在していた孝証の病の存在は消え去り、兄の遺体の所在も孝証は知らないため、大石達だけでなく自分の家臣を守るために彼は一人死を決意する。しかし大石もその覚悟を受け止めきれず迷いが生まれ…という、武士道に則ったような孝証の心情を軸に終盤の展開が構成されている。敵同士でありながら奇妙な友情を築いてしまった2人の男の物語であることは共通しているものの、ディティールはかなり違っており、小説と映画で受ける印象もだいぶ異なっていると言えるだろう。

 

主演のムロツヨシが素晴らしいのはもちろんだが、他の面々も引けを取らない。林遣都のMっ気のある家臣の演技も良かった。川口春奈の暖かみのある存在感も素晴らしかったし、無論もう一人の主人公とも言える永山瑛太の、上と下の板挟みになって苦しむ姿もすごく様になっていた。演技力もだが、脚本でそれぞれのキャラクターに小説以上の個性が付与されていたのも良かったのではないだろうか。林遣都の漬物なんかは忘れた頃に伏線として機能する仕掛けになっていて、死体を漬物にしていたという面白可笑しさも含めて満点。というかムロツヨシが2人並んでいるというのがもう映像的に面白すぎる。ただ一番笑ったのはやっぱり「首ラグビー」。首をパスしながら街中を逃げ回る姿に「もうこれラグビーだろ」と思っていたらホイッスルの音までし始めて本当にラグビーをやり始めたのでさすがに笑ってしまった。場内でもかなりウケていたような気がする。男が一人死の覚悟をした後なのに、人の首でラグビーをしてこんなに貪欲に笑いを取りにくるような映画はさすがになかなかない体験である。ともすればB級のホラー映画が好んでやりそうなのに、こんなに万人受けしそうなコメディ時代劇でそれをやっているのが面白い。これ北野武の『首』でもやってよかったんじゃないだろうか。

 

土橋さんのインタビューにもあったが、若い人のほとんどはおそらく時代劇に触れてきていない。20代である私も実際そうだった。そして今後も積極的に触れようと思うには、あまりにコンテンツが世界にありすぎて追いつかない。どうしても優先順位は低くなってしまうだろう。しかし知られていないからこそ、改めて時代劇をやる意義はあるのだと思う。それこそファッションなんかは数年の周期で同じものが流行しているとも言うし、何かが大きく跳ねれば時代劇が流行の先端になることもあるのではないだろうか。自分としてもこうしたコメディ時代劇はかなり入りやすいので、継続的に映画になっていってほしい。とりあえず『超高速!参勤交代!』を観なければなと思った。

 

 

 

 

 

映画『夜明けのすべて』感想 三宅監督に脱帽。原作にないプラネタリウムが夜を鮮やかに彩る物語

『夜明けのすべて』は事前に原作を読んでいて、その評価の高さを全て宣伝なんじゃないかと疑ってしまうほどに自分に合わない作品だった。主人公の藤沢と山添の2つの視点から語られていくこの物語は、違う病気を持つ2人が、病気は違えど悩み苦しんでいる境遇の一致に気づき、心を通わせていく筋書き。原作では2人が心を近づけていく様が軽やかな文体で描かれる。決して起伏に富んだ物語ではないが日常に根ざしたような暖かみに溢れる作品…と言えば聞こえはいいものの、私にとっては正直ご都合主義な世界にしか思えなかった。PMSパニック障害という実在する疾患を題材としながら、2人の身の回りの人達の優しさや置かれた環境は非常に恵まれている。2人が症状を出したとしても寛容でいてくれる上に、誰から非難されることもない。もちろん社会としてそれが理想なのかもしれないけれど、その表面だけが綺麗にコーティングされたようなファンタジーな世界に辟易してしまった。その上藤沢はパニック障害のことを調べて、じっとしているのが苦手だと知ると、山添の自宅に押し掛けて散髪をしようとする。さらに、お昼休憩に外出しただけで社員全員分のお菓子を買ってくる。こういったお節介さが私には押し付けがましかった。私は周りの人間にはなるべく干渉してほしくないし、干渉したくもない。それなのに小説では藤沢の立ち居振る舞いが生きるための正解のように描写され、すごく不快だったのだ。もっと言うなら、それほど踏み込んだ関係性でありながら、2人は思考でも言葉でもとにかく「恋愛じゃない」ことを強調する。作品内でも言われていた男女の友情が成立するか問題は自分も不毛だと思っているが、殊更に恋愛じゃないことを強調するのも不自然だった。むしろ藤沢の暑苦しさの根拠には恋愛感情が存在していないと嘘だろうとも思えた。

 

そういった読後感であったため、割と複雑な気持ちでの映画鑑賞に。さすがは松村北斗。初日初回、平日の朝8時台だというのに館内は女性客で賑わう。PMSの話が出てきた時には女性客の比率が高すぎる故に、男性の私は妙に気恥ずかしくなっていた。原作も好きじゃなかったし、ある意味消化試合だったはずのこの映画。しかし原作にない要素が作品の持つテーマ性をどんどん深掘りしていく。生きづらさを夜に準え、その夜が明ける希望を謳う。原作では2人の職場は金属を扱う会社だったが、映画では自宅用のプラネタリウムなどの製作会社に変わっており、ラストのプラネタリウムのシーンで語られる星や星座の話が2人の境遇と静かにリンクしていく。明けない夜はないというように、夜明けは希望の象徴。2人が持つような病気でさえ一時の夜であると優しく語りかけてくれるこの物語は、病気の当事者でない人々の心にさえ光をもたらす、原作の新解釈のような物語だった。私が原作に感じてしまった気持ち悪さや軽薄さ(もちろんそれが良い方向に作用して感動した人がいることは否定しないが)、そういったものが全て払拭され、まるで生まれ変わったかのように新たな物語が誕生している。

 

病気があるとかないとかそれ以前の内容で、何かに悩み生きづらさを抱えている個人が、自分の悩みを分かってくれる誰かと出会う話。私が何よりこの映画の好きなところは、人々の「悩み」を至る所で垣間見ることができる点である。原作ではラストにサラリと明かされた社長の過去。弟が亡くなっているという稀有な経験があったからこそ、藤沢と山添にも優しくすることができたのだと彼は明かしていたが、その弟の遺したテープ音声がプラネタリウムの言葉に置き換わっていくのは素晴らしいアイデアだったと思う。生きづらさを抱えて亡くなった者でさえ、死後に誰かの希望や指針となることができるのだ。他にも藤沢の転職をサポートしていたエージェントに、面談の途中で電話がかかってきてしまう場面。話の内容から察するに電話の相手は子どもで、お風呂の追い炊きの方法が分からなかったらしい。きっと彼女も子育てと仕事の両立に悩みながらここまでやってきたのだろう。後は会社のインタビューを撮影していた年配の女性社員の息子がどう見てもハーフだったこと。一切の説明はなかったけれど、彼も彼なりに、そして母親も母親なりに何かに悩んだかもしれない。そうした個々人の背景が少ない言葉で語られていき、世界観がより強固になっていく。小説ではどうしても言葉に頼らなければならず、ゆえにしつこく感じられてしまったものが、秋に落ちる木の葉のような自然さで映像として出てくるのだ。わざとらしさを感じさせず、それでいて深く考えさせられる。言葉の選び方一つとっても、かなり計算されているのではないかなと思える。

 

登場人物を増やしたことなどに関しては、三宅唱監督のこのインタビューを読むと更に理解が深まるかもしれない。

 

www.cinra.net

 

たまたま小説では浮上してこないだけでそこにいたんじゃないかという人間。

そういう人物がしっかりと肉付けされることで、小説にあったファンタジー要素がかなり消えていっている。もっと言うと、小説では藤沢は自分から髪を切るためのハサミなどまで買い揃えてから山添の家に来ていたし、藤沢が山添の家にお守りを届けると、同じタイミングで更に2人の人物がお守りを山添に届けていたという、現実ではまずありえないシチュエーションまで飛び出してくる。しかしそうした要素は映画では全て取り払われている。本当に彼等が実在しているかのようなリアルさ、更には疾患と向き合いながら絆を深め、仕事でのプロジェクトを成功させようと奮闘するという、私たちの生活とも決して遠くない平凡さ。そうした地に足のついた物語として作られていることがひしひしと感じられるのだ。

 

更に監督だけでなくキャストがこだわっていたのは、藤沢と山添の関係性である。そもそも三宅監督はこの2人の恋愛関係とは離れた関係性に魅力を感じたためにオファーを受けたと話している。小説ではそこを藤沢達の言葉で何度も否定するところが逆にわざとらしく感じられてしまった。しかし映画ではそこへの言及はほとんどない。それどころか髪を切るほどに体を近づけても、そうした性愛の匂いを一切感じさせない。やはり松村北斗主演ということもあってファンは気になるのか、「キスシーン」というサジェストが検索で出てくるが、キスどころかそういういやらしさは一切感じられないので安心してほしい。むしろそう見えないように、映画の作り手たちがかなりこだわっていることがよく分かる。

 

映画の話で言うと、最初は会社の人達を悪く言っていた山添がエアロバイクに乗っていて、そこから藤沢と関わり世界を広げていくにつれ自転車に乗るという演出も素晴らしい。原作でも自転車に乗ることで行動範囲が広がり自由を感じる山添の描写は存在しているが、それが藤沢からの贈り物になりさらにはエアロバイクという「漕いでいるけど進まない」前段階があることで、その意味が大きく強調されていく。自転車で上り坂を進むシーンでは、上り坂になると共に道に影が差し込んでいる。しかしそれを登り切ればまた日当たりは良くなるのだ。更に言うと山添がわざわざ自転車を降りて押して上り切った坂でさえも、電動自転車に乗った女性はスイスイ上り切っていく。誰かにとっての坂道が他の人にとってもそうだとは限らない。けれど人の痛みに気付いた時に手を差し伸べることで、その誰かは救われていく。そうした強いメッセージを感じる場面が随所に差し込まれている。

 

彼等はただ生活をしようと必死になっているだけである。その努力や絆の芽生えを、大袈裟でなく素朴に描いていく。その優しさと、視覚的に使われた光と影、そして少ないけど確かな意味を持つ言葉。映画を締めくくるのは中学生達が撮影していたドキュメンタリーの映像だが、正にドキュメンタリーのような自然さで彼等の生活が浮き彫りになっていく。中盤の、互いの病気を茶化し合う藤沢と山添の掛け合いも素晴らしかった。これこそまさに、彼等の関係性だから言えることなのだ。周りに自分の病気のことを言い出しづらかった2人が、互いの苦しみを知っているからこそその根源に対しても軽口を言い合える。それでいて彼等はお互いに依存しない。藤沢が転職を決めても、山添はそれを静かに応援する。このさりげない関係性が築かれていくまでの過程が丁寧に描かれていた。

 

三宅監督は前作『ケイコ 目を澄ませて』でも聴覚障害を持つ女性の物語を描いていた。もちろんその苦しみは当事者にしか分からないのだろうし、分かったつもりになるのはよくない。それでも「苦しんでいる」ということに思いを馳せることはできる。それは障害や疾患に関わらず誰もが普遍的に持つ感情にほかならないからである。安易に社会批判的な方向に走るのではなく、あくまで人々の生活を描く三宅監督はきっと映画を通して訴えたいこともたくさんあるのだろう。大きなテーマを描きながらもミクロな視点を崩さず素朴な世界を映し出すことのできる多彩な監督だと思った。これからもたくさんの作品を作ってほしい。

 

 

 

 

実写映画『ゴールデンカムイ』感想 新たな形で金カムに触れられる喜び

ゴールデンカムイ』の実写映画を観てきた。原作に没頭した自分としてはかなり思い入れの深い作品。とはいえ、別に実写化映画が嫌いというわけではなく、むしろ漫画やアニメのメディアミックスは積極的に観に行く方なので、2024年公開の映画の中でもかなり楽しみにしていた。また山﨑健人かよ~と思うけれど、実写化映画という特殊なジャンルで主人公を演じるにはやはり実写化映画慣れしている人物のほうがいいのかもしれない。キャストにも正直不満はないものの、人選がかなり渋いなあとは思っていた。舘ひろし土方歳三玉木宏の鶴見中尉辺りは「おおっ!」と驚いたが、白石や月島や谷垣には一昔前の実写化映画ならもっと旬のイケメン俳優をあてがっていたよなあ、と。勿論その結果良い演技になってるものもたくさんあるし、露骨にキャストファン層を狙い撃ちにいく姿勢もビジネスとして全然アリだとは思うし、むしろそれが正解だと思っている。ただ、『ゴールデンカムイ』に関してはそれを敢えてしない。と言うと誤解を生みそうだけれど、北村匠海とか横浜流星とかで固められるくらいの規模でやってもおかしくないくらいの作品だと思っている。だが、どちらかと言えば原作のビジュアルに寄せた人選。正直ここだけでももう、制作陣の気概は伝わってきていた。私はこれを違和感として受け取ってしまったけれど、この配役自体が既に「仕掛け」だったのである。実写映画『ゴールデンカムイ』、本当に面白かった。

 

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巷では「原作ファンも納得!」「実写化大成功!」と賛成の意見が多いけれども、私は原作ファン代表みたいな顔はしたくないので、ただ単純に思ったことを書いていく。映画のネタバレはするが、原作のネタバレはあまりしていないつもり。さて今回の『ゴールデンカムイ』、正直めちゃくちゃ面白かったです。漫画の実写化とか云々以前に、1本の映画として完成されすぎている。もちろん原作の序盤のエピソードだけのため「序章感」は否めないのだけれど、杉元とアシリパが出会い、互いに旅の目的を確認し合ってパートナーになっていくという大筋がしっかりと軸になっており、そのブレなさに感心してしまう。原作の核もやはり杉元とアシリパの関係性にあるし、それを序盤のエピソードだけで128分に再構築しているのが素晴らしかった。脚本の黒岩勉さんは『キングダム』の実写映画や『ONE PIECE FILM RED』なども担当しているので、原作付き作品のテーマや物語の再構築はもうお手の物なのだろう。

 

オリジナル要素はかなり薄いが、原作のストーリーを多少入れ替えたり端折ったりはしている。ラストまではほぼ原作にあったシーンの再構成だが、終盤杉元がアシリパに対し自分が何故金塊を求めるのか話すシーンが挿入されていたのはかなり良かった。というよりも、映画自体が「杉元が金にこだわる理由」からスタートしており、それを相棒のアシリパに話すラストという話運びが美しすぎる。ただ単に原作エピソードを消化しようというのではなく、まとまりのある1本の映画として再構築されていた。2010年代前半なんかはオリジナル展開を入れればファンから罵倒されるため、それを恐れてか原作エピソードをただなぞっていくだけの漫画実写化映画も散見された中、令和に入って実写化映画は「解像度高めで原作を再構築しつつ1本の映画としてパッケージングする」という新たな境地に至ったような感がある。

 

ゴールデンカムイ』を実写化すると聞いて、私が一番懸念していたのが「シリアスとギャグの振れ幅」である。原作ではキャラクターの1人もしくは複数が何かに熱狂している中で、それを冷めた目で見つめる…というシュールな笑いが多かった。ツッコミの大ゴマを入れるでもなく、キャラクター達は敢えて無言にしておいて読者に「なんだよこれ!」とツッコませる。更に言えばキャラクター達もかなりハードな局面にあるのでとにかく目の前に必死になっているため、ツッコんでいる暇がない。その分を私達読者が補うような形で成立するようなギャグが原作には多かった。漫画でよくあるキャラクターを二等身にしてデフォルメでふざけさせるような表現はなく、むしろ吹き出しを使って股間を隠したりと、トリッキーでメタ的なギャグが炸裂していた。

 

だがこれらのギャグは実写では使うことができない。それに該当するようなシーンは序盤には少ないが、要は『ゴールデンカムイ』のギャグパートは一歩間違えればかなりサムい演出になってしまう可能性があるのだ。しかしこの映画は変にカメラアングルやセリフ回しやBGMで誇張することなく、会話の中の一幕のような自然さで杉元達のやり取りを描いていく。むしろ鶴見の汁が漏れ出すなどの独特な演出は、実写だからこそより緊迫感を味わうことができたような気さえする。ギャグが自然な形で出てくるのだから、シリアスも当然成立する。変に泣かせにくるようなこともなく、原作にあった趣をセリフで全て説明したりしてしまう回りくどさもなく、漫画を映像に置き換えるにあたって非常に「丁度良い」演出だった。むしろ原作を読んでいる分、尾形初登場のモブ感が眞栄田郷敦パワーでしっかり存在感を放っていたりなどの、ズレが嬉しかったりもする。あとは白石がヌルヌルで鉄格子から部屋に入ってくるシーンがちゃんと笑えるようになっていたのも良かった。原作はページを開いた途端いきなり笑わせてくるような演出が多いが、それも映像化するに当たって誇張するでなく、さらっと笑えるくらいの手触り。マジでちょうどいいヌルヌル具合だった。

 

惜しむらくは多少端折ったとはいえ原作の序盤なので、土方歳三が刀手に入れただけになっちゃってたりとか、尾形や月島の出番がほぼないこと(まあ月島は原作でもしっかり存在感出してくるの結構遅いけれども…)。でも尾形達に関してはそれが違和感にはなっていなくて、きっと原作を知らない人なら「襲い来る敵の1人」として見られるのだと思う。逆に土方は舘ひろしのパワーで何もしていなくても存在感を放つようにできてしまっている。長白髪の舘ひろしが馬に乗っているの、さすがにビジュアルが決まりすぎている…。玉木宏も本当に最高だった。あの声で優しい言葉を掛けてもらえるならそりゃあ皆ついていきたくなるよ…。説得力がありすぎる。熊もレタラも良かったし、正直ビジュアルや存在感についてはもう本当に文句がない。強いて言えばネットでも度々言われていた、衣装が綺麗すぎ問題だけれども、戦闘後はきちんと汚れるし、キービジュアルとかで特徴的な服なのにボロボロだとやっぱり見栄え悪いのかなあと思う。アイヌの道具や文化についても、少なくとも安っぽい作りにはなっていなかった。アイヌ文化までは詳しくないのでこれが正しいかどうかは分からない。

 

ただ一番言いたいのは、1本の映画としてとてつもなく面白いということ。何かに突出しているのではなく、総合評価がかなり高くなりそうな予感がする。ギャグやシリアスには触れたが、アクションもドラマもすごい。私は『HIGH&LOW』シリーズも観ているので久保茂昭監督と聞いて今作はかなりアクションが充実した感じになるのかなあと思っていたのだけれど、アクションだけでなく満遍なく充実していた。とにかくどの映像にも嘘っぽさがないし、中だるみも私は感じなかった。1つ1つのシーンに良さがあり、それらの構成のテンポもかなりちょうどいい。エンタメ作品としてかなり完成されているのを感じた。アクションに話を戻すと、動きもかなり早いしスピード感もあるし、熊相手だったり素手だったり銃撃戦だったりと本当に多彩。けれど「あ~アクションを見せたいのね」というわざとらしさはない。映画の中にバトルが息づいているような感がある。そしてそれがバトルだけではなく、ギャグやドラマもそうなのだ。どこかに視点が偏っているようなことがなく、かなりバランスがいい。

 

元々『ゴールデンカムイ』というのはアイヌ文化がたくさん出てきて、アイヌの生活を杉元達が学んでいき絆を深めていくような趣がある。その裏に金塊争奪戦という血みどろの戦いが潜んでいることがこの漫画の面白さであり美しさであり惨いところ。そしてこの『ゴールデンカムイ』の実写映画も、まるで「生活」のように自然な演出で物語が描かれており、かなり楽しく鑑賞することができた。アシリパがアチャから受け継いだアイヌの文化を絶やさないよう奮闘したのと同じように、『ゴールデンカムイ』という素晴らしい漫画が実写映画を通じて多くの人に届いたらこんなに嬉しいことはない。

 

最後に、私は映画に二瓶鉄造がいないことがかなりショックだったので、ラストカットには思わず手を強く握った。公式発表は現時点でまだないが、明らかに続編をやる気満々なのでこの調子で原作ラストまでどうにか駆け抜けてほしい。姉畑は無理だろうけど、1つの映画に2囚人くらいであと10年くらいはやってもらいたい。完結してしまった物語にまた新たな形で触れられるのが、本当に嬉しい。

 

 

 

 

映画『ある閉ざされた雪の山荘で』感想 小説の持つインパクトとはかけ離れた退屈な推理劇

 

『ある閉ざされた雪の山荘で』の東野圭吾による原作は、1992年に発売されている。つまりは22年越しの映画化。原作にはスマートフォンはおろか携帯電話すら登場していない。小説が映画の原作になることは難しくないが、20年以上前の作品となると話は別である。この作品がどうして今になって映像化されたのか。その理由の1つはやはり、小説という媒体に特化した衝撃の種明かしだろう。おそらく小説を読んだ人ならすぐにピンと来るはず。しかし逆に映画を先に観た人にとっては、どういうところが映像化不可能だったのかと疑問を持ってしまうかもしれない。私は先に原作を読んでしまったので、逆の順序の人がどう思いどう感じたかを知る術はないのだが、少なくとも私にはこの映画は「小説の設定だけを使った劣化版」のように思えてしまった。

 

なぜなら、小説の「あのトリック」を結局真正面から無視した形になっていたからである。それでいて、小説を超えるもしくは小説の驚きに匹敵するほどのパンチの利いたトリックもない。というか小説でクローズアップされていた描写を何故かすっ飛ばしたりさらっと終わらせたりしてしまっており、「事件のトリック」自体にあまり興味が持てないような作りになっている。もちろんそういう映画が存在すること自体は否定しないが、それをこの『ある閉ざされた雪の山荘で』でやってしまうのは非常に勿体ない。

などと長々と書いてしまったが、小説版のネタバレをしなければ話をうまく展開させられないので、まずはネタバレをさせてもらいたい。『ある閉ざされた雪の山荘で』の小説は「地の文」と映画では重岡大毅が演じていた「久我和幸の独白」という2つの視点から交互に状況が語られる。「久我和幸の独白」では久我の意地汚い部分であったり、映画では西野七瀬が演じていた元村由梨江への想いであったりと、非常に人間臭い部分が描かれていく。田所義雄(映画では岡山天音)を露骨に見下すような描写さえある。ただ田所は結構クズの気質があるため、見下されて当然と言えば当然かもしれない。そんなお世辞にも聖人君子とは言えない久我の独白と並行して、「地の文」によって事件が描写されていく。

 

だが、この「地の文」には所々に”違和感”が存在しているのである。代表的な部分だとこの「地の文」では登場人物の名前が一貫してフルネームで呼ばれている。普通小説ならキャラクターの呼称は苗字や名前だけで充分であり、登場の際に紹介も兼ねてフルネームを記述することはあるが、それも最初の1回だけである。しかしこの「地の文」は最後までずっと山荘を訪れたメンバーをフルネームで呼び続ける。そして事件の描写に関しても、やはりどことなく違和感がある。まるで事件を傍で見ているかのような語り口…いや、実際にこの地の文は事件を「見ていた」のである。終盤の推理シーン、それまで地の文だと思っていた語り部が、久我に「さあ、出てきてください」と指を差され、一人称が「私」に変わるのである。映画を観た方ならもうお気づきだろうが、その語り部こそ事件の首謀者である麻倉雅美(森川葵)。彼女は壁の隙間にずっと息を潜め、穴からずっと山荘での一部始終を見ていたのである。「神の視点」だと思っていた地の文が「私」だと明かされた瞬間の鳥肌。今でこそそういうテクニックを用いたミステリー小説は多いかもしれないが、1992年にこれほど緻密な仕掛けが施されている小説ともなれば話題になるのも当然だろう。

 

もちろんこのギミックだけが凄いのではなく、殺人自体がオーディションなのか本当なのか分からないままに翻弄されるメンバーの心情をしっかりと捉えている点も印象的。オーディションを装った殺人計画…を演じることになった者と巻き込まれた者。その三重構造と読みやすい筆致がページを捲る手を止めさせてくれない。長年評価される理由もよく分かる素晴らしい作品だった。とはいえ、勿論言いたいことがないわけではない。ラストは謎を解いた後に久我が他のメンバーの友情に涙するシーンでバッサリと終わっており、若干の消化不良感が残る。また、そもそも「オチがハートフル」であるためサスペンス要素を期待するとあったかいラストに少々面食らってしまうだろう。だが、少なくとも「地の文が実は登場人物の1人だった」というこの小説の最大の要であるトリックを、映像表現において成立させることは不可能に近いと言える。もちろん映画の半分以上を雅美の視点で構成するということができないわけではないが、その違和感はすぐに犯人の正体へと結びついてしまうだろう。

 

つまり「どう映像化するか」が原作を映画化するに当たって最大の注目ポイントだったわけだが、なんとこの映画は「その部分に注力しない」という大胆不敵な手段に出た。「犯人の視点で語られていた」という部分には目もくれなかったのである。その潔さは良いと思う。媒体が違うのだから小説に特化した方法を映画でそのままやっても仕方がない。しかし、この作品がそもそも「ギミックもの」であることを考えると、削除した分のギミックの代替すらなく、ただ平凡な推理ドラマになってしまったのは非常に残念である。

 

小説ならそれこそ久我の感情なども言葉でしっかりと描写されていくわけだが、映像にするとこの作品の描写はあまりにもあっさりとしすぎている。1992年の作品ということもあるのだろうが、キャラクターのクセもそこまで強くない。比較的優等生な登場人物たちの物語なのである。簡単に言うと、この作品から地の文のギミックを取り除いてしまうと旨味が一気に半減してしまうのである。小説は自分のペースで読むことができるし、何より「今起きていることが事件なのか演出なのか分からない」というモヤモヤで、読書の速度は加速度的に増していく。しかし映画では淡々とした演出と共に登場人物がぽつりぽつりと喋るのみ。映像的に「おおっ!」と唸らせてくれるような表現もない。間取り図のように絵に描いた山荘を上から俯瞰していくシーンが何度かあったが、あれが一体何を表現しているのかが全く分からなかった。会話劇としても、特に印象的なシーンがあるわけではないため(逆に言えばコテコテの推理作品ということ)、とにかく冗長。犯人を知らない人は犯人が誰かという興味だけで視聴を持続できるのかもしれないが、オチを知っている私にとってはむしろ小説版から取り除かれた色々な要素に対して「どうしてあれを消したんだろう」「どうしてこんな風に変えたんだろう」と違和感を抱く場面の連続だった。

 

カット割りも非常に落ち着いていて、緊迫感がまるで感じられない。心情描写がない分、彼等の演劇にかける情熱が伝わってこず「早く通報しなさいよ」とずっとイライラしてしまった。ただ一番イラッとしたのは8人が慕う劇作家の東郷の声が山荘のどこからか聞こえてきて、その字幕が屋根や壁にリリックビデオのように映し出されるという意味不明な演出である。明らかなCGでそんなものを出されてしまうと、登場人物達にその光景がどう見えているのかが全く分からなくなる。何よりああいう仕掛けをするのなら屋根がスクリーンでなくてはならないし、プロジェクターなども必要になってくるはずだ。そもそも事件か演出か分からない環境として観客を翻弄させなくてはならない映画なのに、このリアリティラインのいい加減さに腹が立つ。正直に言うと冒頭この字幕が出てきただけで視聴意欲が失せてしまった。ああいう声が聞こえたら普通「声はどこから出てくるんだ」を調べるのが推理のルールだろう。まして彼等は自分達が置かれている状況が本当に演出なのかと疑っている状況なのだから。あんなオーバーテクノロジーを印象的に見せつけられてるのに何の違和感も抱かないし調べようともしない。ちなみに小説版では指示の書いてある紙が置かれているという設定だった。なぜ変更してしまったのだろう。ただ、雅美が監視カメラで山荘を監視していたというオチ。まあこれについては仕方ないかなとも思う。小説でやったような覗き穴だと、実際に雅美が見える範囲はかなり狭いし映画としては無理があるだろう。

 

そして一番の改変ポイントがラストである。小説はオーディション・殺人事件・演出の三重構造だったが、映画のクライマックスでは雅美の独白がそのまま舞台に繋がり、まるでこの事件全てが舞台上の出来事であったかのように演出される。つまりは小説の上をいく四重構造になっていた。もちろんあれは「皆が仲直りした数年後の出来事」と解釈することもできるし、「そもそも映画の出来事自体が劇でした」というオチだとも読める。この辺りをきちんと説明しないのも不親切だなあと感じるのだけれど、原作では久我が泣いてあっさり終わってしまうので、エピローグがあるのは悪くなかった。とはいえこういう友情ドラマ的なことをやりたいのなら、もっと山荘の時点で人間関係をしっかり描いてほしかったなあとは思う。私は特に感動などはしなかった。「ああ、こう変えたのね」と思ったくらいである。

 

総じて言うとかなり酷い出来栄えの映画だなあ、と。小説の要となる映像化不可能なギミックを丸ごと取り除いてしまうだけでなく、それに値する代替品もない。平凡な推理劇になってしまっているのは非常に残念だった。しかも最後はハートフルなオチ…。もちろんハッピーエンドが悪いというわけではないのだけれど、殺伐とした雰囲気作りをしておいてハートフルなオチになる作品、個人的にはもれなく肩透かしに感じてしまう。

ただ岡山天音の田所だけは原作の気持ち悪さをビジュアルから体現していて素晴らしかった。この前『笑いのカイブツ』という岡山天音主演の、実話を基にしたコミュ力最底辺男の映画を観たのだけれど、それに負けず劣らず「ヤバい奴感」を醸し出していたので凄い。まあ、田所の髪型とかどう考えても映画では浮いてましたけどね…。あと森川葵の演技力はマジで説得力があったので良かったです。