映画『キャラクター』評価・ネタバレ感想! キャラクターを掴もうとする光と闇の対立

キャラクター

 

『キャラクター』というどストレートなタイトルと、色鮮やかで目を引くポスター。菅田将暉小栗旬高畑充希中村獅童という名俳優が連なる中で、連続殺人鬼としてSEKAI  NO OWARIのFukaseが出演している。セカオワはデビュー当時にこそ聴いていたものの、がっつりファンタジー路線に移行してからはほとんど聴かなくなった。それでも劇場に行くと主題歌で度々かかっていたりして、最近だと『HOLIC』の主題歌の「Habit」は今でも耳に残っている。そんなFukaseの俳優デビュー作らしいが、これがいかにも殺人鬼らしい立ち居振る舞い。狂人っぷりを見事に発揮し、強烈な存在感を放つ。それに対抗する主人公として菅田将暉菅田将暉の理解者であり、事件を追う刑事に小栗旬菅田将暉の奥さん役に高畑充希。有名キャストが集結した本作は、「キャラクター」とは一体何かという点を作り手の視点から追及していく、創作者の叫び声すら聞こえてきそうな物語だった。劇場で観なかったことが悔やまれる。

 

主人公の山城(菅田将暉)は、サスペンスやホラージャンルの漫画家を目指すものの、お人好しな性格のせいで人殺しというキャラクターをうまく描けず、とうとう漫画家を引退することに。しかし、アシスタント最終日にスケッチに出かけた一軒家の家族が、偶然にも殺人鬼の両角(Fukase)に襲われた。そこで両角の顔を見た山城だったが、警察には「顔は見ていない」と伝え、両角をモチーフとした殺人鬼を描いた漫画で、大成功を収める。しかし両角もそこに目を付け、漫画の通りに犯行を行っていくようになっていた。事件と漫画の符合に気付いたのは、清田刑事(小栗旬)。先輩である真壁(中村獅童)にもタメ口で接する型破りさはあるものの、聡明で人当たりの良い人格者である。

 

キャラクターを描けなかった漫画家が、リアルな殺人鬼を目撃し、彼をキャラクターに取り入れることで大ヒット作を生み出す。最初こそ顔を見たことを伝えなかった自分に罪悪感は一切なかった山城だが、両角が犯行を漫画と重ね合わせていることを知り、徐々に漫画を描くことに罪の意識が生まれ始める。当初は「顔を見たけど言わなかった」罪悪感を軸に進むのかと思ったが、山城は結構開き直っていた。意外にも中盤まで山城の活躍はあまりなく、事件の真相を突き止めようとする清田を中心に物語は進んでいく。

 

この作品の特徴は、言うまでもなく両角のキャラクターだろう。彼を引き立てるためなのか、それとも彼自身のポテンシャルのせいなのか、他のキャラクターは比較的”抑えた”作りになっているのだ。態度に難があるものの、粗暴というわけでもない清田。全く特徴のない山城。山城の妻となる夏美(高畑充希)も、これといって大きなキャラクター性があるわけではない。しかしその単純さが逆にリアルでもある。

 

第一の事件の犯人として名前が挙がった辺見という男を追いかける際、清田が真壁に言うのはドラマと現実の違いであった。ドラマでは犯人が逃走すれば全力で追いかけるが、実際には既に周囲を取り囲んでいた刑事がいるため、追いかける必要はない。劇的な展開など生まれない「リアル」が、この映画ではひたすらに強調されていく。それは同時に、異分子である両角の存在感をも際立たせることになる。

 

 

 

 

そもそも、キャラクターとは一体なんなのだろうか。と考えてみると、人を分かりやすく記号化したものにほかならない。「この人はこういう人だ」と単純に捉えられるようにするアイコンだろう。例えば『ドラゴンボール』の悟空なら、強い相手と戦うことを好み、言葉遣いが独特で、よくご飯を食べる。ベジータなら、一見クールに見えるが実は情に厚い一面もあり、サイヤ人であることを誇りつつ、悟空をライバル視している。そうした特性こそが「キャラクター」だろう。創作経験のある人間なら、誰しもがこのキャラクター作りに苦心するはずだ。

 

それは現実でも同じと言える。たとえばお笑い芸人が、自分のことを覚えてもらうために、独特なリズムネタや奇抜な恰好のネタを披露する、など。日常生活でも、特に意識はせずとも他者との擦り合わせによって、自然とその人物のアイデンティティが浮き彫りとなり、キャラクターとなっていく。本来キャラクターとは個性であるから、人に要求するものではない。しかし、創作においては魅力的で個性的なキャラクターを創ることが要求される。主人公の山城には、それができなかった。きっとストーリーを考えたり、物語の構想を練る力はあったのだろう。画力も劇中で褒められていた。しかしそれでも、キャラクターという部分がネックとなり、なかなかデビューには至ることができなかった。しかし両角との出会いが、彼を成功へと導いていく。

 

その成功とは裏腹に、清田達刑事の取り調べは非常に地味なものだ。結果的に清田は山城の嘘に辿り着くものの、両角という男が一体何者なのか、全く掴むことができない。殺人鬼という強力な個性を持つ両角だが、そのキャラクター性は表面だけのもので、土台が見えてこないのだ。ラストの裁判での両角の台詞からすると、家族というものっさえ分からなくなった彼は、自分ですら自分が何者なのかよく分かっていなかったらしい。そう、実は彼自身も山城と同じく、キャラクター作りに苦心する人間だったのだ。

 

幸せな4人家族を妬み、殺人鬼だった辺見に心酔したことで生まれた両角というキャラクター。山城はそのキャラクターに惹かれたが、彼は創作者の1人として、物語に固執していたのだろう。自分の漫画で両角に宣戦布告し、家族を囮に使う。しかし父と母が再婚で、妹とは血がつながっていないことを、両角は知っていた。彼の4人家族を殺すというルールのため、標的は妻の夏美とそのお腹の中に宿った双子の命へと変わる。家族を守るために両角と戦う山城。真壁に止められても両角をナイフで刺すことを止めず、遂には真壁は山城を銃撃する。両角の上に覆いかぶさるようにして倒れた山城の姿は、彼が描いた漫画のコマと全く同じ構図だった。山城は創作者であるという矜持から、どこまでも「物語」にこだわったのだ。

 

漫画家というキャラクターを目指す山城が、何者にもなれずに犯行を繰り返す両角と出会い、大成功を収める。互いにキャラクターを求めた漫画家と殺人鬼の戦いは、物語として消化されていった。しかし、漫画ではない現実は、戦いが終わった後も続く。劇的なクライマックスの後にも、どこか怠さすら感じられる裁判があり、入院中の山城が描かれるのだ。そして、夏美を狙う辺見の姿も。

 

キャラクターという言葉を軸に2人の男の戦いを描いた、見事な作品だったと思う。本当は小栗旬パートをもっと短くして、山城の家族との葛藤を描き、より山城と両角の構図を強く描いてほしいという思いもあった。山城のお母さん、なんでよそよそしいのだろうという違和感だけで、彼の家庭環境を見せきるのはさすがに厳しい。ここを強調して対立関係を煽ってくれると、ラストがもっと盛り上がったかもしれない。ただ、小栗旬の清田というキャラクターも、ちょっと礼儀が足らないけど人に寄り添える素敵な感じで、見ていて心地が良い。何というか、「小栗旬」そのもののイメージである。純度100%の小栗旬を浴びられるのはとても良いことなのだが、脇役の彼があまりに魅力的なのも悩ましい。特に「キャラクター」というタイトルのこの映画だからこそ、もっと主人公たちのキャラクターを見せてほしかったという気持ちがある。

 

キャラクターとは作られるものではなく、滲み出てくるもの。だからこそ両角はあれだけ人を殺めながらも、何者にもなれずに終わった。山城は事件を通して、両角をモチーフにした漫画の「キャラクター」だけでなく、家族を守る父親というアイデンティティをも手にしたのだ。虚構と現実、キャラクターとストーリーという2つの対立概念を軸に繰り広げられる物語の結末は凄まじいものだった。

 

欲を言えばもっと緊迫感を煽ってほしかった気持ちもあるし、やはり山城と両角の対立をより際立たせてほしかったとも思う。

それでも充分見応えがあり、美しいテーマを持った作品のように感じた。