映画『朝が来る』評価・ネタバレ感想! 目を逸らせない地獄と、その先にある仄かな希望の物語

上映時間140分、ほっとんど地獄。Amazon Primeがオススメしてきたので快晴の休日にこの映画を観たのだが、数時間経ってもまだ心がどんよりしている。この世の地獄を塗り固めたような作品だった。もちろんそこにある希望に目を向けさせてくれるのだけれど、地獄のタッチがあまりに繊細かつリアルで、危うくリタイアしかけてしまう。「私の子を返してください」と突然脅迫してくる見知らぬ女性がある夫婦の前に現れる…というとんでもないあらすじだが、映画自体はミステリー要素こそあるものの、ヒューマンドラマの枠組みで問題ないと思う。

 

朝が来る

 

小説家の辻村深月の作品が原作ということは観た後に知った。知った上で物語を思い返すと「確かに辻村深月だ!!!!」と納得がいった。気付けなかった自分を恥じる濃度の辻村深月がそこに詰まっていた。実は私は辻村深月の小説には苦手意識がある。初めて読んだのは『ツナグ』。学生時代、偶然手に取ったこの本を徹夜で読破し、号泣。翌日にはBOOKOFFへ赴き、少ないお小遣いを使って、講談社文庫の辻村深月作品を集め、一気に読み始めた。

 

しかし、辻村深月作品というのは過剰摂取には適さなかったようで、くどい文体と登場人物の意地の悪さや醜さに段々苛立ちを募らせるようになってしまう。それ以来、辻村深月という名前を見ただけで興味を失うレベルにまで達してしまい、映画でも辻村深月が原作の作品は避けてきた。今回は本当に偶然の鑑賞だったのだが、ネットで小説の表紙を見ると、もう何度も書店で目にした、朝日を浴びるちっちゃい子の写真が。本当に、どうして気付かなかったのか。でも、気付いていたらこの映画に出会っていなかったかもしれないと考えると、結果的には良かったのかもしれない。

 

 

 

 

朝斗という幼稚園児の息子を育てる栗原家に、他の園児を押して怪我をさせたと電話が掛かってくる。ママ友の「うちの子が嘘ついてるっていうの?」という言葉のキツさ。冒頭でこのギスギスを展開できる意地の悪さが凄い。永作博美の「どうしたらいいか分からず言葉が紡げない」弱気な女性としての演技も相俟って、すごく”嫌な”感じに囚われた。そしてこの”嫌な”感じが、上映中常に続くのだ。私はテレビで観たから良いかもしれないが、逃げ場のない映画館で観ていたらより重苦しく感じただろう。

 

時系列が二転三転するのもこの映画の特徴。原作を読んでいないので映画化に際しどういった変化が加えられてるのかは分からないが、重苦しいドラマ性と社会問題に目を向けさせる聡明さだけでなく、ミステリーの謎解き要素も含まれている。いきなり知らない女性に「自分の子を返してくれ」と言われる…そんなフックで観客を集め、社会問題を大きく取り上げることで、観客に見ていないフリを許さない姿勢が感じられた。子育てどころか結婚さえしていない自分でも、過去や未来様々な時間に思いを馳せなくてはならなくなる。自然な演技と自然な演出が、あまりにも酷な現実をそのまま浮き彫りにする。だからこそ、ラストに輝く朝日がより一層力を増すのだ。

 

栗原家の旦那が無精子症であることが発覚し、手術を重ねてもなかなか子宝には恵まれない。離婚を持ち出す苦しみや、男性として他者を羨ましく思ってしまう不甲斐なさ。この辺りは同じ男性として込み上げるものがあった。だからこそ、その葛藤を優しく受け止め、手を取って共に前へと進ませてくれる妻の優しさが際立つ。そして養子を迎え入れることを決意した2人は、女子中学生が産んだ男の子に朝斗と名付け、育てていくのだった。

 

そこから場面は変わり、朝斗を生んだ片倉ひかりの物語に。学校のイケメンに告白される初々しい姿と、自転車を二人乗りして笑い合う、見事な青春。そんな美しい青春すらも、ここからの地獄の土台として利用してしまう手腕が恐ろしい。行為の果てに妊娠し、学校は休学。広島のベビーバトンという施設でしばらく暮らすことになる。家族からも見放され、特に母親は言いたい放題。子どもの父親は「ごめん」とだけ残し逃げ、素敵な思い出は絶望へと変わってしまった。周りから軽蔑され、誰一人頼れないひかりだったが、ベビーバトンで出会った人々の優しさに、だんだんと絆されていく。

 

風俗で身籠ってしまったコノミの話は非常に印象的だった。養子にしたいと言ってくれる人がいることで自分と子が救われる嬉しさと、自分とは違いまともに生きている夫婦が子を手に入れてしまうことへの嫉妬。そんな嫉妬を感じてしまう醜さ。子どもを作れなかった栗原家夫婦を「持たざる者」としていた構造が一気に逆転していく。無精子症という体の問題と、境遇という生き方の問題。栗原家はどれだけ正しく生きたとしても子どもには恵まれなかったかもしれない。ひかりやコノミは子どもには恵まれたものの、どこかで道を踏み外したような感覚に囚われている。背景には子を作ることへの倫理的な問題や社会的な育児の問題など、様々なものが潜んでいる。

 

しかし絶望の中にいたひかりが、コノミとのやり取りで少しずつ心を落ち着かせていたのは確か。同じ境遇の人々の言葉は、孤独だった彼女の心に優しく響く。元気を取り戻していくひかりの姿が健気で涙を誘う。出産を迎え、栗原家夫婦に赤ちゃんと手紙を渡すひかり。ベビーバトンでの生活で元気を取り戻していった彼女だったが、そこからの人生は更に絶望的なものだった。恋人はやはり知らんぷり。家族からは見放され、親戚からは分かった風な言葉を掛けられる。誰一人寄り添ってくれない息苦しい世界。遂に彼女は家を飛び出し、新聞配達で生計を立てることとなる。そこで出会った少女と仲良くなり、彼女にメイクを教わったりとどんどん親密な仲に。子どものことも話せるほどに関係が打ち解けた頃、彼女が自分を借金の代理人にしていたことが発覚。

 

信じていた人に裏切られた絶望感。それでも新聞屋のおじさんに助けられ、何とか借金を完済することができた。おじさんのかつて同棲していた女性が突然自殺したという話はあまりにも衝撃的。借金を押し付けてきた彼女とも再会を果たすものの、その境遇に自分を重ねたひかりは、彼女に対し怒りをぶつけるのではなく、どこまでも寄り添うのだった。

 

そんなひかりが借金を知った時、最終手段として用いたのが、栗原家の脅迫だった。栗原家夫婦はひかりの風貌と辻褄が合わない話から、ひかりではなく別人だと推測。「あなたは、誰ですか?」という言葉は、ひかりにとっては全く別の意味合いで捉えられていた。子どもを産む前の彼氏との恋愛、妊娠中に出会ったベビーバトンの人々との思い出、そして何より子の存在。彼女にとって子は、大切な「生きた証」の1つなのだ。

 

栗原妻は自宅に来た警察によって、脅迫してきた人物がひかりであったことを知る。そして手紙に隠された、「なかったことにしないで」の文字で、ひかりの本心をも知ることになる。橋の上から朝日を見つめるひかりに声を掛け、朝斗に「広島のお母ちゃん」として紹介する。日々は何も変わらないかもしれないが、ひかりにとってこの出会いが救いであったことは、間違いないだろう。

 

所々に挟まる美しい自然の描写は、生命の神秘である出産から紡がれる物語の泥沼さと反比例していく。妊娠中に子と共に朝日を拝むひかりの姿が、今でも脳裏にこびりついている。

 

総じて言うのなら、すごく哀しい作品である。ひかりに寄り添ってくれるのは、皆「辛い思いを経験してきた人」たちばかり。境遇こそ人それぞれだが、ベビーバトンの代表やコノミ、新聞屋のおじちゃん。苦しい日々を経験しているからこそ、人の苦しみに寄り添うことができる。逆に苦しみが描かれなかった人たちは、ひかりに次々に理不尽な言葉を投げかける。そして自身が苦しんだ過去を持っているからこそ、ひかりは借金を押し付けられた相手にすら、優しくすることができた。そして朝斗とひかりを結び付けたのも、子宝に恵まれず悩んできた栗原家だったのである。

 

人は当事者にならなければ問題の本質を知ることはできない。興味のない話でも「辛い」「苦しい」と聞いて胸を痛めることは簡単だろう。だが、お涙頂戴話で泣ける人は本当に「優しい」のだろうか。辛い境遇にある人の心を救ってこそ、本当の優しさなのではないかと、私は思う。というか思わされた。

辛い経験が優しさに繋がることは間違いない。しかし、経験していないからといって、優しくしなくていい理由にはならない。この映画に登場した理不尽な面々にならないよう、ひかりのように人に寄り添える心を持ちたい。そう強く感じた映画だった。