映画『サンセット・サンライズ』ネタバレ感想 『不適切』に続く強烈なクドカン節

サンセット・サンライズ (講談社文庫)

 

 

もう、かなり面白かった。原作からは大きく脚色したらしいコテコテのクドカンコメディ。多分観に行った人の多くはクドカンらしさを求めているのだろうし、需要を満たす意味では「大正解」だと思う。自分は『木更津キャッツアイ』なんかは全然ハマれなかった人間で、正直クドカン作品に対して苦手意識もあったのだけれど、去年の『不適切にもほどがある!』で完全にやられてしまった。そんなに流行してないだろと物議をかもしていた流行語大賞の「ふてほど」からドラマにハマった人もいるのだろうか。確か年末年始にも一挙放送をしていた気がするから、そこでクドカン熱が再燃してこの映画を観に来た人もいるのかもしれない。自分の中ではこの『サンセット・サンライズ』は『不適切にもほどがある!』の延長上にあるというか、言いづらい一言をエンタメとしてバシッと言えるところが近年のクドカン作品の良さだよなあと思っている。『不適切』ではコンプライアンスで雁字搦めになった現代を面白おかしく描いていて、それが批判さえされていたけれど、自分の中ではかなり芯のある作品だなあとすごく評価が高いのだ。だって、創作って自由なものじゃん。そういうものじゃん。嫌だなと思ったらチャンネルを変えればいいだけなのに、自分が観たくないだけで「不適切」なんて主語をデカくして気に入らないものを潰そうとするなんて言語道断ですよ。もちろん、断罪されなければならない事柄もあるし、SNSで声高に批判しなきゃいけないものだってある。けれど、ドラマやアニメや映画くらい、作り手の好きなようにさせればいいと自分は思っている。クドカンストーリーテリングはもちろん、現代性を物語に馴染ませるのも非常に上手くて、『不適切』ではコンプライアンス、今作ではコロナ禍を上手に料理してくれた。

 

楡周平の同名小説が原作だというが、キネマ旬報のインタビューを読むと、竹原ピストルを始めとする百ちゃんを守る会の面々は映画オリジナルだったそうなので、かなりクドカン色に染められているらしい。あらすじを滔々とここで説明するのは面倒なのでネタバレ込みで感想だけ書いていきたいと思う。

 

まずやっぱり、菅田将暉演じる西尾の明るさと真面目さにかなり助けられる映画ではないだろうか。自分のやりたいことに正直で、ちょっと純朴で、裏表がない誰からも愛されるキャラクター。それゆえに常識人の百香からするとちょっと図々しいわけだが、東京から来たというよりも田舎から出て1年目みたいな純粋さを兼ね備えた菅田将暉が凄い。色々な役と様々な髪型を経験してきたはずなのに、まだあんなに擦れてない演技ができるとは恐れ入った。西尾が空き家に入り、百香とソーシャルディスタンスを取って会話するシーンで一気に映画に引き込まれる。マスクで声が聞き取れないというあるあるも、もはや懐かしい。自分は都会側の人間なのであまり身近ではなかったけれど、確かにあの当時地方の人々の都会への目線は相当厳しかったような気がする。というか、移動が制限されてたのも本当に凄い。たった数年前なのに、何なら再び同じことが起こる可能性すらあるのに、懐かしさを感じてしまうのはいいことなのかどうか。そんな罪悪感を抱きながらも、クドカンのコミカルな作劇にどんどん取り込まれてしまうのだ。汚い三宅健、めちゃくちゃ最高で笑ってしまった。絶対田舎から出たことないだろという地元のヤンキー感が完璧。あの店のシーンだけやたらクドカン濃度が濃くて、金曜22時みたいな気持ちになる。

 

好きなシーンはとにかくいっぱいある。コミカル度で言えばやはり西尾との喧嘩の最中に百香が義父用のおつまみを一品拵えてしまうところなんか最高だった。余所見をしてても魚を3枚におろしてたたきにできてしまう井上真央の包丁さばき。未だに彼女の印象が花男で止まっている人間なので、演技力なのか料理の技術なのかも分からないところに妙に感心してしまった。リモート会議で冴えない顔の上司だけ画面がフリーズしてしまったり、実は社長が潜り込んでいたり。くだらね~と笑いながら、コロナ禍あるあるをコミカルに物語に差し込む手腕に感動する。そして、出てくる魚料理がどれも美味しそう。先週公開された『劇場版 孤独のグルメ』がかなり話題になっているが、この映画を観た後も「魚を食べなくちゃ!」という気持ちにさせられると思う。

 

ただ、自分の心に一番残ったのは川岸で西尾が告白のついでに言う「震災だって、どうでもいい!」というセリフ。これはキネマ旬報クドカン自身も触れていたのだけれど、本当に凄いセリフだなと思った。東北を舞台にしたコロナ禍の物語を描く上で、この映画は震災の悲惨さにも言及する。ヒロインの百香は震災で家族を亡くした未亡人だったのである。しかし東京で暮らしていた西尾にとって、震災という言葉から受け取る温度感は地元民とはかなり差がある。これは正に自分がそうで、関東にいながらも、歳を重ねて東北出身の人と会う度に思ってしまうことでもあった。あの時、自分達はとにかく節電を強要された覚えがあったし、観たいテレビが観られなくなって、自粛ムードによって数々のエンタメが潰されてしまった。それは非常に残念だったのだけれど、被災した当事者からしたら震災に対する怒りはそんなものではないはずである。命の危機を感じたり、大切な人を失った人だっているだろう。けれど、それは自分のことではないのだ。同情はするし、かわいそうとも思うが、どう足掻いたって経験の差は言葉や行動に出てしまう。無意識に相手を傷つけるのではないかという思いから、震災に対して自分は黙るしかない。

 

おそらく西尾も同じようなことを思っていて、だからこその「震災だって、どうでもいい!」なのだろう。東北の人に震災の話をされた時、どうしていいか分からなくなるもやもやとした気持ち。それを告白のついでにぶつけてしまうのがいかにもクドカンらしいが、そこから竹原ピストル演じるケンの言葉の重みがグサグサと胸を刺していく。「見ていてくれればいい」という暖かい言葉。これは被災者本人の言葉ではないかもしれないけど、一つのアンサーとしてすごく腑に落ちた。行動を起こすとか、罪悪感を覚えるとか、そういうことを無理にせず、とにかく「見ていてくれ」と。

 

『不適切』でも、価値観の違いからくる問題への重みの違いが語られていた。本当に自分の言葉なのか、SNSで発信しているその怒りは自分の感情なのか。情報過多の現代人は詳しく調べることなく、偏った情報に流されて無自覚に人を傷つける。見知らぬ誰かにとっての重要なことが簡単に自分の意見になってしまうし、たった一人の意見が国民の総意になることもある。SNSはいつしかマイノリティを潰し、答えのない問いに対して「正解」を偽装するツールになってしまった。そこに縛られず、自由に自分の意見を発信していいし、嫌だと思ったものを無理に潰す必要はない。『不適切』は現代人にSNSコンプライアンスとの向き合い方を示していたのである。

 

そしてこの『サンセット・サンライズ』も同様。もちろん震災を茶化すなんてことは言語道断だが、震災というワードを前に立ち尽くすしかできない人々に、「こうしていこうよ」と優しく手を握ってくれる素敵な映画だったと思う。もちろん「震災なんて、どうでもいい!」が不適切な刺さり方をする人もいるかもしれないが、それもまた一意見。震災やコンプライアンスといったセンシティブな題材に対して、ここまで自分の意見を表明できるクドカンという作家を私は高く評価したい。皆もっと言えばいいんだよ。人を傷つけない程度に。

 

ただ、「見ていてくれ」という言葉があまりにメッセージ性が強すぎるというか。キャラクターの面白さで進んできた物語が突然「メッセージ今から言います!」という顔をして感動させようとしてくるので、その点はあまり好きではなかったかなと。ケンがもっと地方と都会の差について敏感なキャラクターとかなら分かるのだけれど。あの言葉が非常にいいセリフだと思うからこそ、クドカンの顔が透けて見えてしまう露骨さを残念に感じてしまった。でもコメディ映画として普通に面白いので観て損はないと思う。