映画『余命10年』評価・ネタバレ感想! 少し長いがシンプルに泣ける感動ドラマ

余命10年

 

 

映画を観て涙を流すというのは結果論だと思っている。

そのため、泣くために映画を観るという感覚は私にはない。

 

だがこの『余命10年』、泣こうと思って鑑賞に挑む方も少なくないのではないだろうか。

年に2~3作品は公開されている印象の、闘病系感動映画。

正直私はこういった映画に免疫がなく、これまでほとんど観たことがない。

そんな私がこの映画を観ようと思ったのは、藤井道人監督の作品だからである。

 

去年『ヤクザと家族』を観て、その構成と重厚さに度肝を抜かれた。過去作の『新聞記者』や『デイアンドナイト』では、善悪という難しい価値観に果敢に挑み、直近では『アバランチ』などのドラマでも活躍している。

見逃してしまったのだが、『情熱大陸』にも出演するほど今”ブレイク”している藤井監督。どちらかというとサスペンスの印象が強い藤井監督だが、『青の帰り道』や『宇宙でいちばんあかるい屋根』などの青春系映画も撮っている。

 

男女の恋愛作品となると、2014年の『幻肢』がある。交通事故によって同乗していた恋人を亡くした主人公の男が、目覚めると彼女のことを一切憶えておらず、特殊な治療によって少しずつ彼女の幻影を見るようになる…という話。原作もあるこの作品だが、こちらはお互いの愛が重く、結末も「正直どうなの?」と思ってしまう。嫌いではないが、ある意味ファンタジーにも見えてしまうようなキャラクター性だった。

 

しかし今回の『余命10年』では、キャラクターの感情の機微がしっかりと描かれている。大切な人に出会えた奇跡、大切だからこそのすれ違いが生む感動に、つい涙を流してしまう。

 

 

・誰もかれもを好きになる

こういった闘病系映画を観た記憶がないのだが、まず驚いたのは『余命10年』には悪人が一切出てこないこと。藤井監督作品ではほぼ間違いなく憎まれ役を買って出ていた田中哲司でさえも、小松菜奈演じる茉莉を支える医者を演じており、出てくるキャラクター全てが愛おしい。

私が特に好きなのは、茉莉達の同級生でもある、山田裕貴演じるタケル。ちょっとチャラい役どころでもあるのだが、山田裕貴の持ち前の明るさと相俟って、すごく好感の持てるキャラクターだった。

 

また、余命10年という悲劇的な人生を歩むこととなった茉莉がすごく健気で、大人びた覚悟を決めているのも良い。自分の人生があとわずかであることを知りながら、それを武器にせず、むしろ変に同情されたくないと、周りに隠して生きることを選んだ茉莉。そんな中、同窓会で出会った和人と親しくなり、自分の境遇を強く嘆くことになる。

 

病気のこともあり、恋なんかするはずもなかった彼女は、当初自殺を図った和人に対して怒りを露わにする。命を粗末にしようとしたことに対して、「ズルい」と本音をぶつけ、その言葉と茉莉との再会が、和人にとっての生きる希望となっていく。茉莉も徐々に彼に惹かれていくのだが、長くは共にいられないことを言い出せず、自己嫌悪にも陥ってしまう。

 

闘病中だった茉莉はもちろん、家族に見捨てられ職を失い、孤独に生きてきた和人も自身の生きる理由を見失ってしまっていたという始まり。しかし和人は茉莉を大切に想うことで、生き生きとした表情と自分らしさを取り戻し、終いには自分の店まで持つようになる。最初は目まで覆ってしまうほど長かった前髪も、店のオープン記念日にはしっかりとおでこを出すヘアスタイルに変わっていく。徐々に前髪の上がる坂口健太郎…!

ここで和人を支える店長のリリー・フランキーも、出番は少ないながら存在によって場を引き締めてくれるというか、言葉の一つ一つが心に沁みるというか、とにかく安心感が半端じゃなかった。

 

茉莉も和人も自分の生に意味を見出せない状態だったのに、お互いに愛情を育むことで、互いの存在が生きる理由になっていく。しかし、その素敵な時間のタイムリミットが迫ってきているからこそ、とても切ない。互いを想い合うからこそのすれ違い。それは茉莉と姉の間にも生じた軋轢。大切な人を大切に想う。ただそれだけのことが、「余命10年」というフレーズ一つでこんなにも複雑になってしまうのだ。

 

この作品には恋愛映画によくある「思いの丈をぶつける」ようなシーンが少なかったのも印象的。時折茉莉が声を荒げることはあるものの、激昂して喧嘩してという場面はほとんどなかった。気持ちを強く表現できない、各キャラクターの優しさが滲み出ているような。だからこそストレスなく、茉莉や和人の感情にすっと入り込むことができるのだろう。

 

 

・楽しい思い出は一瞬に

『余命10年』のキーワードとして、随所で用いられる桜。物語のスタートも、茉莉と和人との再会も、桜によって美しく彩られる。しかし桜を見るということは、茉莉の人生の終わりが迫っているということでもあり、美しい見た目とは裏腹に、非常に残酷な時間の経過を表す、ある種死神のような役割さえ担っているのだ。

 

藤井監督は花や植物を愛していた原作者・小坂流加の遺志を汲み、茉莉のデスクに季節の花を飾り、その一つ一つに花言葉の意味を込めたという。公式パンフレットに書かれている情報だが、鑑賞時には確認できていないので、また観返したくなる。

それほどまでに季節の移り変わりを大切に描いたこの映画。それは茉莉と和人の思い出のシーンでも大切に演出される。

桜の下での会話、夏祭り、スキー場でのスノーボード。だが、茉莉達がただひたすらに楽しく、笑い合えていた美しい思い出は、この映画では強く描写されない。茉莉がビデオカメラで撮影したシーンがさらっと映し出されるだけのことが圧倒的に多い。

 

2人が辿ってきた約10年の数々の思い出。そのただひたすらに幸せな時間、きっと和人は茉莉との将来を思い描き幸せに浸っていたのだろう。反対に茉莉は幸せを感じながらも、嘘をついているような罪悪感と、この幸福が永遠でない寂しさを抱えていたのだろう。

ただただ幸せな時間は、2人が「敢えて思いを言葉にしない」ことで守られた平穏だったのだ。関係を進めても、真実を話しても、終わってしまう幸福。だからこそ意味があるし、観ているこちらにもその儚さが感動的に映る。

 

そして、和人が病気を知り、それでも茉莉に隣に居てもらいたいと告白する。それを受け入れる茉莉だったが、病気が不治の病であることはまだ言うことができない。プロポーズされた翌朝、シャワー室で1人肩を震わせて涙する茉莉の寂しい背中は、見ているだけで辛くなるものだった。翌朝宿を抜け出し、追いかけてきた和人に遂に真実を話す茉莉。そこからしばらく縁が切れてしまうが、茉莉の小説を読んだ和人は、思わず駆け出し、彼女に会いに行く。

 

生きる意味を見出せなかった2人が惹かれ合い、互いを大切に想う。そして、それだけのことが病気という理由だけで難しいからこそ、もどかしい。誰も間違っていないのに、選択の一つ一つに慎重にならなければならない。後悔したくないと分かっているのに、傷つけないために遠ざけてしまう。

 

映画でリリー・フランキーが言っていた「人生一度っきり」というセリフに、この映画の全てが凝縮されている気がする。闘病生活を送るような人はそう多くないかもしれない。それでも、何気ない日々が力をくれること、大切にしたいと思える人に出会えることの素晴らしさを教えてくれるこの映画には、素直に感動させられる。

 

劇的な展開はないかもしれない。心に強く刺さるほどのセリフもないかもしれない。それでもこの2人が出会い、慈しみ合ったことの意味は、多くの人の心を刺激するはずである。歩んできた道程と人を想う心が、どれほど美しいものなのかを教えてくれる、春にふさわしい映画だった。