毎年クレしん映画を楽しみにしている人間として、今年の『恐竜日記』は予告の時点で不安しかなかった。あまりにも感動の押し売りが強い。自分がクレしん映画に求めているものは泣けることではないので、今年は自分向けのアプローチではない作品が来たのだなと思っていた。監督の佐々木忍も脚本のモラルもクレしん映画初参戦。TVシリーズではお馴染みのメンバーのようだが、テレビ版を観ていない私にとっては正直初めて邂逅する相手である。去年の映画のラストで今年が恐竜モチーフだと聞いた時は、「そういえばしんちゃんと恐竜のコラボって映画ではなかったな」と楽しみにしていたのだが、予告を観てからはどんどん嫌な予感がしてくる。主題歌のメロディもナナの可愛さやあざとさも、家を壊されたひろしの「ローンがまだ32年残っているのに!」というテンプレのようなセリフも、全てがキツい。鑑賞後に知ったのだがクレしん映画を毎年観ているような方々の中には、私と同じような不安を抱いていた方が結構いたらしく。調べてみるとどんどん出てくる。自分は同じくクレしん映画を毎年観ている知人にこの不安を話しても「いやいや観てから言いましょうよ」と軽くあしらわれ、落ち込むと同時に「お前は一体クレしん映画の何を見てきたんだ…?」と半ば軽蔑までしてしまったのだが、世界には同士があふれていたようである。
結論を言うと、そんなに悪くはなかった。鑑賞前の懸念ほど最悪な結果には至らなかった。しかし、この映画を好きか嫌いかで聞かれると嫌いに傾く。その理由は簡単で、「泣かせに来てるのが見え見え」だからである。邦画では珍しいことではないのだが、異常なほどに泣かせることにこだわる映画になっているのが自分の肌には合わなかった。いつもはもっと気持ち悪いマスコットキャラクターなのに、今回登場する恐竜のナナはあまりにあざとい。仕草や声もかわいらしく、空位となった夏のポケモン映画の地位をクレしんが奪いに来たかのようである。あまりのあざとさに観ていてこっちが恥ずかしくなってしまった。劇場の子どもは大喜びだったので、ナナを好きになってもらおうという作り手の意図は見事に伝わっていたのだと思う。その上で、自分はかなり気持ち悪いなと感じてしまった。心にじんわりと来る感動ではなく、暴力的に泣かされているような感覚になった。これはもう殴られているのと同じである。余命ものがやっていることと大差はないように感じた。
また、脚本にはかなり優等生だったなという印象を抱いた。これはもちろん皮肉も入っている。順当に観客の感動を誘導していく手際には感心したものの、同時に従来のクレしん映画にあった外連味をあまり感じられず、自分としては残念だった。というか、「こんなの観たら基本的にみんな感動するだろ」というツボをゴリゴリ押してくるタイプの映画だったので、「このセリフが特に響いたな」とか「この展開が素晴らしかったな」とか、そう思えるような魅力には乏しい。泣かせることに対してすごく真面目である。「クレしん映画=泣ける」という方程式が定着している時代に、しっかり感動できる作品を出してくるのは決して悪いことではない。実際、感動路線を狙った作品はこれまでにもある。自分の中では「野生王国」と「宇宙人シリリ」がそれに当たるのだが、この2作は正直言って感動が上滑りしていたような手触りだった。感動ものとして宣伝しているのに感動できなにという中途半端な作品が過去に存在したことを踏まえると、感動路線を狙い撃ちして、ちゃんと感動できる仕上がりになっている今回の『恐竜王国』は素晴らしいと思う。ただその感動の製法がクレしん独自の外連味を薄め、大衆向けのお涙頂戴に寄せることだったのは残念でならない。ちなみに言うと自分は『カンフーボーイズ』と『天カス学園』が大好きな人間で、この2作の素晴らしいところは「物語がまずあって、その結果として泣ける」という点にあると思っているので、順序が逆どころか物語性が乏しい今作をあまり好ましく思えないのは非常に順当であると思っている。
映画の構造としては「ナナを守るゾ!」というのが全て。と思っていたのだが…途中からオドロキー家の毒親問題が挿入される。ディノズアイランドを作ったバブルはエンターテイナーとして有名だったが、その実常に新しいものを提供していかなければならないというプレッシャーに怯え、今回のディノズアイランドでは恐竜を復活させたと偽って大量のロボット恐竜を作る。それが許せなかった恐竜好きの息子ビリーは反発し、自らの研究で偶然生まれた唯一の恐竜・ナナを持ち出して逃走。途中まではバブルについていた娘のアンジェラも、バブルに見放されたことで自分の人生を見つめ直し、しんのすけの「やりたいことをやればいい」という言葉に感化されて、野原一家と共に戦いに身を投じる。少し話は逸れるが、このシーンの「しんのすけ自身が何とも思っていない、ふと呟いた言葉が人の核心を突く」感じが最悪だった。「やりたいことをやる」がちゃんと示された映画だったのなら文句はないが、自分は子どもやおバカキャラの何気ない言葉に真面目な誰かが気付きを得るタイプの話運びが苦手なので、あまりの露骨さに「うわっ」となってしまった。自分は結局「テンプレになった野原一家」の描写が出てくると気持ち悪くなってしまうのだと思う。しんのすけの言葉が誰かの心を動かすことはこれまでの映画でもあったが、その中で私が好きなのは映画内でちゃんとしんのすけの言葉の重みが積み重ねられていたものだけである。野原しんのすけだけでなく、ひろしやみさえ、ひまわりやシロも含めて、野原一家は既に「幸せな家族」のテンプレになってしまっていて、きっとそうしたアイコンに留めておくほうが観客にも伝わりやすいし、一々いろいろを説明する時間よりも物語を優先したいのは分かるのだけれど、そういうテンプレに頼らない映画が自分は好き。というか原作やTVアニメ、映画を作ってきた人々が少しずつ積み重ねてきたものに頼り切って物語を展開するという考え方が好きになれない。どれだけ皆が知ったキャラクターであろうと、映画の中で考えや立ち位置を丁寧に描いてほしい。『カンフーボーイズ』は「マサオくんがダメダメ」っていう描写を序盤からちゃんとやった上でその劣等感と優しさをしっかり演出してくれたからこそ、最後のオチが効いていた。あんまり言うと悪口になってしまうのでここで止めるが、この映画の野原一家やカスカベ防衛隊には生物感が全く感じられず、それこそロボットのように見えてしまった。しかも作り手の言いたいことを言わされているということもなく、ただただ観客を泣かせることに特化したロボットである。この部分は明確に嫌いと言わせてもらいたい。
だが反面、かなり良かった部分もある。全体的に言うのならば演出。佐々木忍監督…やるじゃん!とガッツポーズをした箇所がいくつもあった。恐竜映画と聞いてまず最初に人々が思い浮かべるのが『ジュラシック・パーク』シリーズだと思うのだが、そのオマージュを感じられる演出が随所に見られたのが嬉しい。そもそも「恐竜が襲ってくる」という恐ろしい状況をスピルバーグを継承したかのような濃厚な恐怖込みで打ち出してきている辺り、評価せざるを得ないだろう。家の窓の外に恐竜の大きな目があったり、複数で襲ってくるラプトルの緊迫感だったり。終いにはガチャガチャの丸いケースから恐竜が出てくるのだが、これは『ジュラシック・ワールド』に登場した透明な球体の乗り物のオマージュだろうか。スピノサウルスは『ジュラシック・パークⅢ』でも印象的だったし、それにも負けず劣らずの大活躍をしてくれる。その上で、ティラノサウルスに関してはよく知られた姿ではなく、羽毛がついた最先端の姿を採用していたりと、テンションが上がる。何よりクレしん映画で「凶暴で巨大な敵が複数襲ってくる」パターンがほぼないため、リアルな作画で渋谷にて大暴れする恐竜たちという構図は、映画好きにとってもなかなか見応えのあるシーンではないだろうか。音楽も『ジュラシック・パーク』を意識したような劇伴があり、ジュラシックシリーズが中断して恐竜映画が少なくなった昨今に、子どもの集まる夏休み映画として恐竜映画を出してくれたのは非常に嬉しい。恐竜、あまり詳しくはないが自分もやはり好きなので…。
最も良かったのは後半、明らかに物語上不要だったダジャレ恐竜たちである。正直泣かせることに一直線な作風に飽き飽きしていたのだが、3キロサウルスからのオドルニトミムス(その次にもう一体出てきたが忘れてしまった…)、最高。このくだらなさこそクレしん映画の真骨頂だと思っているし、何よりナナを助けるという目的が明確になった状況で、わざわざ時間を作って繰り出すほどのギャグではないところが素晴らしい。あのLOVEマシーンを劇場で観ただけでも鑑賞料金の元は取れた。こういう、ちょっと過剰なくらいのギャグが自分は好きなので、面白すぎて鳥肌が立ったほどである。でもこういうくだらないノリができるのなら前半でもやってほしかったかな…。
そしてラスト、ナナが死ぬという展開について。ネット上では否定的な意見も多い様子。ただ、「死=悲しい」という一般的な考え方があまりに過剰になってしまい、今やどれほど意味があってもキャラクターを死なせるだけで批判されることさえ普通になった。自分もナナが最後に死ぬという展開には驚いたが、そこに悲しいとか怒りとか、そういう感情はない。「あ、最後は死ぬ流れなのね」と単に出来事を受け止めただけである。重要キャラを死なせるビターエンドというだけで批判する気は毛頭ないのだが、正直ナナを死なせる意味は全くなかったなとは感じている。というかこの映画、ナナの可愛さとあざとさに頼り切っているせいで、テーマが全然ない空っぽの映画になってしまっているような気がするのだ。
先にも触れた毒親問題。バブルの振る舞いは身勝手ながらも、大衆が勝手にハードルを上げて少しでも期待より低いものが出てくれば途端に叩かれ忘れられるという恐怖に怯えているという点は理解できる。この恐怖ゆえに彼は暴走し、平気で嘘をつく人間になってしまった。昔は優しい父親だったのに、強迫観念に駆られた結果として毒親へと変貌してしまったのだろう。アンジェラもビリーも見捨てられるが、この映画は家族を和解させることはしなかった。アンジェラとビリーはそれぞれの夢に向かっていくラストが描かれているものの、バブルは単に逮捕されただけである。「自分の道は自分で決める」「父親の不始末は家族でケリをつける」、そういう流れも存在していたのに、バブルは暴走したナナによって倒され、家族間の問題は有耶無耶になる。これまでのクレしんでも毒親を描いた作品はあったが、親との対話シーンは必ず設けていた。それが説教臭いと感じるかどうかは個人の判断によるものの、今回のように和解や断絶などの後日談を描かないというのはかなり不誠実な気がする。オドロキー家の毒親問題は、偶然解決しただけなのだ。誰かの努力が結実したわけではない。ナナの死という重要なイベントによって、親子の確執はいとも単純に吞み込まれてしまった。だが、ナナがあそこで死ぬ必要があるかと聞かれると、そんなことは一切ない。
おそらくナナの死は「恐竜と人間は共存できない」という、ナナを撃とうとしてできなかったビリーの言葉の延長上にあるのだろうが、そうした異種間交流の物語はそれまで映画に一切でてきていない。むしろ野原一家やカスカベ防衛隊はナナと普通に過ごしていたし、最初にナナと仲良くなったのは犬のシロなのだ。人間と恐竜の断絶なんてテーマは描けていなかったし、そもそもナナが暴走する理由も明確ではない。野生の本能が目覚めることがあるという解釈をしているが、それも決して共存できないことの証左にはならないだろう。可愛い存在が実は凶暴という辺りも、やはりテンプレだなと感じてしまう。最後の暴走のトリガーは自分と同じスピノサウルス型ロボットの破壊だったが、それ自体にも疑問を感じている。暴走して我を忘れていたナナが友達になったしんのすけとシロを助けるために命を落とす展開は確かに涙を誘うシーンになっている。しかし、涙を誘う以上のエネルギーを持たない空虚なシーンとも言えるのではないだろうか。ただ涙腺を刺激してくるだけ、というか。
毒親問題にも結論を出さず、最後に一瞬光った「恐竜と人間の共存」という話も本当に一瞬で消えてしまう。映画にテーマが必ずしも必要だとは言わないが、その代わりにこの映画で重視されるものがポルノレベルの感動の押し売りなので、どうしても嫌悪感を抱いてしまうのだ。恐竜のディティールは確かに凄いが、やはりお涙頂戴テンプレ映画という印象である。クレしんでなくても通用するからこそ、クレしん映画を毎年楽しみにしている自分には全く刺さらなかった。泣きたい時にはちゃんと泣ける映画を観るので、クレしんでわざわざそんなことをしなくていい。とはいえ、誰もが皆クレしん映画を毎年劇場で観ているわけではないし、興味のない層にアプローチすることはビジネスの上でも重要だということは分かっている。その上で感動路線を徹底し、しっかりと泣けるテンプレートに乗せているのはそう悪いことではないだろう。先にも言及したが、感動路線で宣伝しながら全然感動できない映画(子供だましだと言われてしまうようなもの)が過去のクレしんにはあったのだ。ちゃんと泣かせるくらいの物語になっているという意味では、かなり進歩である。自分はこの路線が次回作以降も続いてほしいとは思わないが、今作はそこそこヒットするのではないだろうか。ナナがちゃんとかわいいもんな…。
佐々木忍監督の演出はとにかく凄まじいし、ひろしとみさえが短パンだったりと、夏を感じさせるキャラデザもかなり良い。画面の後ろのほうにいるキャラクターがこっそりとわちゃわちゃやっていたり、独特な動きをしていたり、そういうアニメーション的な面白さには満ちていたし、何よりこういうサマームービーが大好きなのでその点は評価したい。でも風間君に「何だか今年の夏は特別な夏になりそうだなあ…」とかってセリフでわざわざ言わせちゃうのは肌に合わなかった。分かりやすさやエモーショナルを意識しているのは伝わってきているけれど、それ以上のものを感じることができない不誠実な作品だなあと。でもやっぱり恐竜が渋谷で大暴れするシーンはさすがにテンションが上がってしまったので、佐々木監督にはぜひ来年も続投願いたい。欲を言えばうえのきみこさんも復帰してくれ…。
なお、8/10現在ネットで唯一読める今作関係のインタビューがこちら。そこまで突っ込んだ話はしていないが、感想の参考にできる部分があるかもしれないのでぜひ。